第二章 林の中にて ※写真付
鵺はその日、忍び組頭である大江彦左衛門が邸宅を訪ねていた。だが、忍び組頭に用があったわけではない。
鵺が門を潜ると、すぐに声がかかった。
「鵺?」
声を辿れば、縁側に腰を下ろした桔梗がこちらを見据えている。
「珍しい……というか、あんたがここにくるのは初めてじゃないかい?」
「……邪魔だったか」
「いや、そんなことはないよ。今はみな留守にしていてね、都合がよかったよ」
「そうか」
「こちらへおいで」
桔梗は鵺を手招きする。鵺は素直にそれに従った。
「鵺、もしかして、知ってここにきたのかい」
「何をだ」
「家の者が留守にしていることをさ」
「さあな」
「父や浅葱がいたら、門前払いにされていたことだろうね」
「……そうだろうな」
「それで、何かあったのかい」
「べつに」
「べつにということはないだろう? 何もないのに、鵺がここにくるとは思えないよ」
「特に用があったわけではないんだ。ここしばらくな、お前を見ていないと思ったから」
「……え? それでわざわざ訪ねてくれたのかい?」
桔梗は目を丸くして鵺を見遣った。鵺は、いたたまれなさにふいっと目を背ける。
「桔梗……」
しばらくの沈黙ののち、鵺が口を開いた。
「何だい」
「……すまなかった」
突然の謝罪に、桔梗は驚きとともに鵺をじっと見据えている。それを横目にした鵺の脳裏には、いつかの草之助の言葉が蘇っていた。
「俺は、お前を避けていたつもりはなかったんだ」
「……」
「草之助に言われるまで気づかなかった。俺は、お前を……傷つけたか」
すると、場違いなまでの明るい声が辺りに響いた。見れば、桔梗が腹を抱えて笑っている。
「やめておくれよ。私は伊賀の女だよ。そんなことで傷ついたりしやしないさ」
「……」
「鵺、私さ、赤子ができたみたいなんだ」
「は……?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。だが、唐突に理解する。桔梗は、三月前に甲賀忍に襲われたのだ。そこから考えれば、時節も一致していた。
「まだね、誰も知らないのよ」
「……」
「産むつもりだよ」
「……そうか」
「この子を、誰よりも強い伊賀忍に育て上げてみせるよ」
「強いな、お前は」
「それはそうよ。私は、伊賀の女だからね」
「これで、お前のせいでないということが明らかになったな」
桔梗が小首を傾げる。
「六年前のことだ」
「ああ……」
十七で嫁いだ桔梗は、子ができないことを理由にわずか二年で里に返されている。それが、六年前のことだった。
「ねえ、鵺。この子が産まれたらさ、名をつけてくれないかい」
唐突な桔梗の言葉に、鵺はしばし瞠目する。
「鵺につけて欲しいんだ」
「……それは、無理だろう」
「どうしてさ?」
「大江様が黙っているはずがないからな」
「どの道、身籠ったことを知れば激怒するだろうね。それも、甲賀の抜け忍に手籠めにされたなんて、不名誉もいいところだもの。勘当されるか、もしかしたら手打ちにされるかもしれない。事情を説明することになったら、掟を破って里の外に出たことも話さなければならないだろうから」
「手打ちになどさせないさ。少なくとも、掟を破ったことに関してはな。甲賀の抜け忍を捕らえられたのは、お前の力も大きい。それに、お前には里を抜ける気などなく、ただ妹を案じてのことだったのだろう。それを話せば、十郎様ならば温情をかけて下さるはずだ」
「……そうかもしれないね」
「ああ」
「私も、今夜にでも父に話してみることにするわ。もしも、私とお腹の子が無事だったなら、名をつけておくれね」
「いや、だからな……」
「いいじゃないか。なっておくれよ、この子の名づけ親にさ」
「だから、なぜ俺なのだ」
「あの時、鵺がいなかったら、私は売られたか殺されたかしていた。鵺は、私とこの子の恩人なのよ」
「しかしな……」
「心配ないよ。父には鵺がつけたとは言わないから」
そう言って、桔梗は幸せそうに腹を撫でた。それを見ると、鵺は何も言えなくなってしまったのだった。
その日、鵺は柏原城付近に広がる雑木林の入り口にいた。
辺りには、鮮やかな黄色い花が咲いている。それをいくつか摘むと、手にした箕(脱穀などで、不要な小片を吹き飛ばすことを主目的とした、平坦なバスケット形状の農具)へと投げ入れた。
その時、ふと目の端に黒い影が映り込む。長い尻尾をにょろにょろと振りながら、小さな手足で懸命に地を這っている。それを見て、鵺は思わず手を伸ばした。胴体を持ち上げるようにしてつかむ。手足をばたつかせるそれを見ながら少し考えていると、
「イモリなんか捕まえてどうするのさ」
林の向こうから声が上がった。
「……かすみか」
暗がりの中から姿を現した少女を見て言う。
「使いなよ」
かすみが、麻布でできた巾着を箕の上に置いた。
「悪いな」
鵺は、箕を地に置くと、巾着の口を開いて手にしたイモリを入れる。そして、固く巾着の口を縛った。
「物騒なものを持っているね」
鵺が摘んでいた黄色い花を見て、かすみが言う。
「それは、 元日草(福寿草。朔日草ともいう。旧暦の元旦頃に開花する。春を告げる代表的な花)でしょう? 猛毒じゃないか」
「確かに毒性は強いが、使い方によってはこれも立派な薬になる」
「ふうん。なら、あのイモリも薬になるのかい」
「幻術に使えるはずなんだが、試したことはないな」
「そう」
「聞いた話では、イモリの黒焼きを粉にして混ぜるとよいと言う。イモリの血も使えるそうだな」
「誰で試すつもりかは知らないけれど、私は絶対に御免だね」
「そうだな。心身ともに丈夫な……草之助辺りが適任だろうな」
「本気かい?」
「まさか。里人で試すつもりはないさ」
ふっとかすみが笑うと、鵺もつられて笑った。
「かすみこそ、こんな所で何をしているんだ?」
「ただの散策よ」
「……こんな雑木林の中をか?」
「ここから見る柏原城がね、好きなのよ」
「……」
「立派なお城よね」
「こんな暗がりで見るより、林を抜けた方がよく見えるのではないか」
「そうだね。でも、いいんだ。私は、ここから見る柏原城が好きなんだから」
かすみは、以前からよくわからないことを口にすることがある。かすみの言動を訝しんだ鵺だが、深く追求することはなかった。
その後、鵺は雑木林でかすみと別れ、箕に乗せた元日草と麻布の巾着袋を手に、なごり雪を眺めながら家路についた。
かすみに対する仄かな不信感に蓋をする鵺。
元日草とイモリを手に、雪解け道を行くのだった。
次回、再び里が騒がしくなります。




