第一章 草之助と千手姫
年が明けた天正七年の一月、はつはまたも感冒に見舞わられた。その上、今回は咳だけではない。高熱を出して寝込んでしまったのである。
熱に浮かされながら、はつは夢を見ていた。
状況はつかめないが、何かから逃げているような……そんな夢だった。
草之助の背が見える。その傍らには千手姫もいる。千手姫がこちらを振り返った。
必死な面持ちで、何かを叫んでいる。
――なんて言ったのだろう……?
そう思っているうちに視界はぼやけ、映像が途切れるように呼び覚まされた。
ふと、額にひんやりとした感触があって目を覚ます。
「……千手姫様」
はつは、夢に見た千手姫が傍らに座しているのを見て、いまだ夢の中にいるのかと思ってしまった。だが、穏やかに笑いかけられて俄に覚醒する。
「はつ、具合はどうですか?」
ちゃぽんという水音が耳元で聞こえた。どうやら熱で温まった手拭いを、千手姫が替えてくれたらしい。
「千手姫様がどうして……」
「はつ、無理をしてはなりません」
起き上がろうとしたところを千手姫に制され、再び横になるよう促された。
「はつが病床に就いていると聞き及びまして、こうして見舞いに参ったのです」
「病床だなんて大袈裟ですよ。ただの風邪です」
「はつ、感冒を侮ってはいけません。こじらせると命を落とすことすらある、恐ろしい病なのですから」
「え、ただの風邪で……?」
そんな話をしていると、前触れなく戸が引かれた。入ってきたのは家主である鵺だ。
鵺は、はつの傍らに座している千手姫に目を止めると、
「……何をしておいでですか」
静かに、されど焦ったような口調で尋ねた。
「はつが病床にあると聞きましたもので、見舞うために参ったのです」
「姫様がそのようなことをなさらなくてよいのです」
「ですが……」
「姫様」
千手姫は俄かに口を噤み、目を伏せる。その姿は、まるで父に叱られた子、あるいは兄に叱られた妹のようであった。
「さあ、外へ」
「はい……」
外へ連れ出そうと鵺が千手姫の手を取る。まさにその時である。まるで間を見計らったかのように、あの男が現れたのだ。
「何をしている」
開け放った戸口の向こうに、草之助が立っていた。草之助は、鵺が千手姫の手を取るところをしっかりと見止めた上で言う。
「鵺、姫がなぜここにいるのだ」
「……」
鵺は、答える代わりに千手姫から手を離した。
「草之助様、私が病床にあるはつを見舞いに参ったのです」
鵺の表情が陰ったことを見て取った千手姫が、鵺の弁護をするように口を開く。
「感冒はうつる病。姫がここにいてはなりません」
「ですが……」
「姫」
「はい……」
想い人にまでそう言われてしまっては、千手姫も頷かないわけにはいかない。渋々といった体で、草之助に連れられるままに家を出て行ったのだった。それを見届けると、鵺は額に手をあてがいながらその場に座り込む。
「まったく、あいつの嫉妬深さにはついていけんな」
そう独り言を呟きながら、はつの赤らんだ頬に手の甲を当てた。鵺の冷えた手が心地よい。
「まだ、熱いな」
そう言うと、奥の棚に並べられていた小さな壺のひとつを取り、蓋を開ける。はつに背を向けて何やらやっていた鵺だったが、間もなく、はつの枕元に座すと湯気を立てる椀をそこに置いた。
「起きれるか」
「うん……」
はつは上半身を起こす。だが、それだけでも軽い眩暈を覚えて項垂れた。それを支えてやりながら、鵺がはつに椀を手渡す。
「薬湯だ」
その言葉に思わず顔を顰めたはつだったが、椀を覗いて驚いた。椀の中は透き通るような色をしていたし、まったく嫌な臭いもしていない。もっとも、鼻が利いていないというだけだったかもしれないが。
「これが薬湯?」
「ああ。金針菜という。解熱作用がある」
「なんか、綺麗だね」
「野萱草の蕾を乾燥させたものを煎じたのだ。沈殿しているものを見ろ。黄金の針のように見えないか」
「うん、見える。だから金針菜かあ」
はつは椀に口をつける。そこで、再び驚いた。
「え、甘い……?」
とろりとした食感のあとにほのかな甘みが口内に広がる。
「もしかして、私の舌がおかしくなったのかな」
「何を言っている。それはそういうものだ」
「甘くていいの? なんか、薬という感じがしない」
「お前に薬を飲ませるたびに、苦いだの臭いが嫌いだので騒がれるのは面倒だからな」
身に覚えがあるだけに、はつはその後、黙って椀の中の薬を飲み干した。
「飲んだら少し休め。じきに熱も下がるだろう」
鵺の言葉に従い、はつはごろりと横になる。すると、いつの間にか眠ってしまったのか、はつは再び夢の中にいた。
先程と同じで、草之助と千手姫がいる。二人とも煤けたような酷い姿をしていた。千手姫がこちらに向く。何かを叫んでいる。
――なんて言っているのだろう?
よく聞こうと耳を澄ますのだが、どうしてもその言葉が聞こえてこない。ただ、今にも泣き出しそうな、必死な千手姫の表情がとても印象的だった。
こんこんと戸を叩かれる音で目が覚めた。
「はつ、お休み中でしたか?」
手拭いで鼻と口とを覆った千手姫が、戸口で申し訳なさそうにこちらを見ている。
「姫様……」
鵺は、驚いているというよりは呆れるているふうにそちらを見ていた。千手姫のあとに続くように、草之助も顔を出す。
「鵺、すまない。姫がどうしてもはつを見舞うのだと仰られてな」
千手姫は、二人の心配をよそにはつの元へと歩み寄る。そして、はつの額に自らの手の甲をあてがった。
「先程よりも幾分か熱が引いたのではありませんか」
「言われてみれば、少し楽になったような気がします。鵺の薬が効いたのかもしれません」
「そうですか。それはよかった。ところではつ、お腹が空きませんか?」
「え……」
「今からお粥を拵えますね」
そう言うと、千手姫はくるりと鵺に向き直り、
「お鍋をお借りしても宜しいですか」
と尋ねた。
「はあ……」
曖昧に返事をしたあと、鵺は千手姫には気づかれないように草之助を睨みつけている。草之助はそれから目をそらし、ぼそりと呟く。
「……すまない」
その声が、微かにはつの耳に届いた。鵺は溜め息を吐くと、鍋を出してそれを囲炉裏へとかける。
「まさか、姫様が作られるおつもりですか」
鵺が疑念をぶつけると、
「はい。私とて、お粥ぐらい作れますよ」
笑って千手姫が答えた。
「まあ、鵺より達者なことは間違いないでしょうね」
「確かに、鵺はお料理は不得手かもしれませんね」
草之助の言葉に千手姫は何を思い出しているのか、ころころと可愛らしく笑っている。
用意のよいことに、千手姫は米も持参してきたらしい。鍋に入れると、そこに水を張って蓋をした。その間に、土間で草之助とともに何やら下拵えをしている。それが済むと、下拵えをしたものを持って鍋の近くにきた。まな板の上でとんとんとそれらを刻んでいく。それを見て、植物に詳しい鵺には、千手姫が何を作っているのかがわかったらしい。
しばらくして、鍋がぐつぐつと音を立て始めた頃、千手姫が蓋を開けて刻んだものを飯の上に散らした。そして、塩で味を調えていく。
「できましたよ」
半刻(約一時間)が経った頃、千手姫がそう言い、粥の入った椀をはつの枕元に置く。そこで、はつはなんとか上体を起こして椀を受け取った。
「綺麗……」
思わず声が漏れる。透き通るような飯の上に、緑、黄緑、黄色などの優し気な色合いの草が散りばめられている。
「七草粥を作ってみました」
「今日は人日の節句だからな」
千手姫と草之助が、そう言って笑い合った。
「今しがた、草之助様と採ってきたのですよ」
「いい香り……」
「さあ、どうぞ」
促され、はつは椀と匙を受け取った。しかし、匙を持つ手になかなか力が入らない。自身でも気づかないうちに、だいぶ体力を消耗していたようだった。見かねた千手姫が、はつの手から椀と匙を取り上げた。そして、粥を一掬いすると幾度か息を吹きかけて冷まし、それをはつの口へと運んでやる。
「さあ、はつ」
はつは、一瞬どきりとした。明らかな胸の高鳴りに違和感を覚えつつも、差し出された匙に口をつける。
「美味しい……」
それは、世辞などではなく本心から出た言葉だった。
「ああ、よかった」
そう言うと、千手姫はまたも愛らしく笑う。その姿を見て、先程感じた胸の高鳴りは、女の己から見ても千手姫が美しいと思えるからだろうと解釈した。目元だけでも、千手姫の美しさは充分に伝わってくるものがあった。
「草之助、いい加減に落ち着け」
鵺と草之助も、千手姫の拵えた粥を食していた。そして、鵺が声をかけた先には、はつに粥を食べさせる千手姫を、匙を噛みしめたままに見据える草之助の姿がある。
「何のことだ」
草之助は平静を装って言った。しかし、明らかに苛立っている様子である。
「はつにまで嫉妬してどうする」
「な、俺は別に、嫉妬など……」
「自覚がないのか」
ふむ、と草之助は考え込んだ。そして、ひとつの結論を出す。
「お前とはつは、どこか似ているな」
「どこがだ」
「さあな。これといって上げることはできないが、雰囲気というものが似ている気がする」
「俺はそうは思わんがな」
「だが、そうすると得心がいく。はつが姫といると、お前と姫がそうしているようで……無性に腹が立つのだ」
草之助の言い分に、鵺は粥を咽に詰まらせかけて咳き込んだ。
「何を馬鹿なことを……」
「ふむ、確かにな。実に馬鹿げたことだ」
口では馬鹿げたことだと言いつつも、目がそうは語っていない。鵺は深い溜め息とともに、粥を咽の奥へと押しやったのだった。
鵺の薬が効いたのか、はたまた千手姫と草之助の七草粥のおかげか、はつの感冒はほんの数日で癒えた。
はつの熱が下がると、鵺はまたも家を空けるようになった。その日も、鵺は朝餉のあとから姿を眩ませている。そこに、戸を叩く音が聞こえてきた。入ってきたのはかすみである。
「はつ、具合が悪いのかい?」
養生して床に臥せていたはつに、かすみは尋ねた。
「うん、少しね。もうだいぶいいけれど」
「そう」
「かすみはどうしたの?」
「ここのところ、はつも鵺も見かけなかったからさ。何かあったのかと思ってね」
「風邪を引いていてね。鵺に看病してもらっていたんだよ。草之助や千手姫様の手まで煩わせてしまって……」
そう言った途端に、かすみの表情が俄かに曇った。
「千手姫様が、ここへきていたのかい」
「あ、でもね、マスク……じゃない、手拭いを巻いてうつらないようにはしていたんだよ」
「まったく……姫様にも困ったものだね」
かすみは呆れたように肩を落とす。
「感冒の恐ろしさを知らないわけでもないでしょうに」
「どういうこと?」
「姫様のお母上様はね、感冒でお亡くなりになったのよ」
その言葉に、はつは、頭を金槌で殴られたような衝撃を受けた。
「千手姫様って凄いね」
「何がだい」
「かすみもだけれど、年齢の割にしっかりしているなあって……」
この時代の人たちは……と言いかけたところを、なんとか呑み下した。
「そうかい?」
「そう思うよ。ねえ、実際さ、千手姫様っておいくつなのかな」
「……そんなことが気になるのかい?」
鵺にも言われたことを思い出し、はつは苦笑する。この里の人々は、あまり年齢というものを意識していないのかもしれない。
――明らかに年上の弥助さんにだって、浅葱はかすみたちに話すのと同じように接していたものね……。
そんなことを思っていると、
「十五だったと思うよ。あ、いや、今年で十六だね」
そうかすみが答えた。
「今年? 千手姫様の誕生日って、最近だったの?」
尋ねた矢先、かすみが怪訝な表情を浮かべる。
――あ……。
はつは、はたと気がついた。
誕生日という概念か生まれたのは、もっともっとずっとあとになってからのことだった。
この時代には誕生日というものはなく、みな元日にひとつ歳を取るのである。また、零という概念もない。そのため、極端な例ではあるが、大晦日に生まれた子はその翌日には二歳と数えられるのだ。
「誕生日って何だい」
「さあ……?」
答えに困って曖昧に返したところ、かすみは眉を潜めてこちらを見る。最早、言い訳すらも思いつかずに重い空気に耐えていたはつだが、かすみはそれについて深く追及することはなく、やけにあっさりと引いてくれた。
「鵺はいないようだね」
かすみが話題を変えてくれたことに安堵し、はつは頷く。
「うん。朝からどこかへ出かけているよ」
「そうかい。それなら、はつのことはもう心配することはないということなのだろうね」
「そういうことなのかな」
「鵺は生真面目な奴だよ。それに、一度負った責務を投げ捨てるような男でもない」
少し前のはつだったなら、かすみの言うことに疑念を抱いたかもしれない。だが、今はかすみの言うこともわかる気がする。
鵺は、はつが具合の悪い時には、憎まれ口を叩きながらも常に傍にいてくれた。薬にしても、効き目の良し悪しだけでなく、はつの好みを考えて飲み易いように調合してくれた。鵺は、草之助が常々言っていたように優しいのだ。今回のことで、はつにはそれがよくわかった。
「そうだね」
かすみの言葉に、はつは素直に頷く。そして、汗ばんだ前髪をかき上げながら笑ったのだった。
風邪をひいたおかげで、鵺の優しさを知ったはつだった。
次回は、衝撃の事実が発覚します。




