第五章 雪合戦 ※写真付
十二月のある日、常ならぬ寒さに早くに目を覚ましてしまったはつは、のそりと布団から這い出て、鵺から借りた半纏を着込んだ。まだ夜が明けきらぬ時刻である。そうであるはずだが、外が仄かに明るい気がする。はつは土間に下りると、つっかえ棒を外して戸を引いた。
「うわあ……」
思わず声が漏れる。辺りは銀色一色に彩られ、まるで別世界に足を踏み入れたような心持ちであった。
夜の間に降ったのだろう。それは、はつの脛の辺りまで積もっていた。
――これは、鵺が戻ったら雪かきしないとね。
そう思っていた刹那、
「はつ」
傍で声が上がった。
「もう起きたのか」
姿を現したのは鵺である。鵺は、頭から蓑を被り、両手両足にも蓑を巻いている。寒さに鼻と頬を真っ赤に染め上げていた。
「うん。この寒さでね……」
ふと見ると、鵺の手には雪べらが握られている。
「鵺は、こんな早くから雪かき?」
「ああ。放っておくと家が潰れかねないからな」
「え……」
ぞっとして見上げたはつだったが、屋根の雪はすでに綺麗に下ろされていた。
ざっくざっくと音がし、鵺が家の前をかき始める。
「ねえ、私も手伝おうか」
尋ねると、わずかに考える素振りをしたあとで、
「そうだな。雪かきは体力をつけるのにちょうどいい。家の裏手にもう一本ある」
雪べらを翳して言う。はつは頷いた。
「なら、私は裏の方をやってくるね」
そのまま裏手に回ろうとしたところを鵺に止められる。
「その形では死ぬぞ」
はたと気づいた。はつは、いまだ寝間着のままであったのだ。
「とりあえず、中に入って着替えてこい。そのあとで蓑を出してやる」
家の中に引っ込むと言われた通り着替える。はつは、萌黄色の小袖に袖を通した。だが、小袖では足があまり開けないことに気づく。そこで、しばらくの間しまい放しになっていた、アンクルパンツを取り出して履いた。そして、小袖の裾を持ち上げて、その端をアンクルパンツの中に入れる。
「鵺、準備できたよ」
戸を開けると、こちらを見た鵺が俄に押し黙った。だが、その後すぐに目を逸らし、室の奥から蓑を取り出してはつに与える。
「着られるか?」
「……たぶん」
鵺は、はつに渡したばかりの蓑を取り上げると、無言でそれをはつに着せていった。
「それじゃあ、私は裏の雪をかいてくるね」
「ああ」
裏手に回り、雪べらでかく。何回か繰り返した時にふと思った。
――蓑って温かいんだね。
蓑に触れたのはこれが初めてである。雪国では馴染みの防寒着だということは聞いていたが、思った以上の温もりに感動を覚えた。
雪かきなど滅多にしたことのないはつにとって、そのずしりとした重さが全身に響く。特に、腕と膝への負荷は凄かった。三度かいただけで、早くも膝がぷるぷると震え出す。腕も重だるい。
「……私って、こんなに体力がなかったんだ」
今更ながらに思い知った。それでも、気力を振り絞ってかく。膝の震えと腕の痺れに耐えながら続けていると、ざっくざっくという音が近くに聞こえた。振り向いた先では、鵺が雪をかいている。
「表はもう終わったの?」
「ああ」
鵺の参戦により、あっという間に裏の雪も片付いた。その頃には東の空も白み、陽の光が降り積もった雪に照り返して、きらきらと幻想的な景観を醸し出している。
その後、二人で朝餉を摂った。食べ終えると、鵺は囲炉裏の前で薬の調合に勤しみ、はつはそれを眺める。そして、夜もすっかり明け切った頃に太陽のような男がやってきたのだった。
「鵺、はつ」
無遠慮に戸を開けると、草之助が二人を呼びながら顔を出す。
「表がすっかり片付いていたな」
「鵺と一緒に雪かきしたからね」
「はつもしたのか?」
「一応はね。ほとんどは鵺がやってくれたけれど」
「慣れないと、あれは重労働だからなあ。はつは、雪に慣れていないのかもしれないな」
「え……?」
「暖かい国の出なのではないかと思ってな」
はつが滝野の里で暮らすようになってから三月近くが経とうとしている。最近では誰も聞いてこなかったので、記憶を失っていると偽っていたことを忘れかけていた。
「そうなのかな……」
はつは、曖昧に答えるにとどめた。
草之助は、はつが暖かい地方の出身と思ったようだが、実際は伊賀よりも北にある陸奥国の一部……現代でいうところの宮城県出身である。宮城県にも雪は降る。しかし、太平洋に面しているためか、このような大雪になることは滅多になかった。
「よし、雪合戦でもやるか」
草之助の唐突な提案に、
「は?」
と、はつと鵺は同時に間の抜けた声を上げた。
「はつに雪の美しさと楽しさを知ってもらいたくてな」
「それでなぜ雪合戦なのだ」
鵺が眉間に皺を寄せて言う。
「はつでは相手にならんだろうが」
「勘違いをするな。お前の相手は俺だぞ」
「なに?」
「戦うのは、あくまでも俺とお前だ。はつには姫の座についてもらう」
「姫?」
はつが草之助を見据える。
「姫を最後まで守り通した者を勝ちとする」
「……」
「それならば修行にもなろうし、たまにはこういった趣向もよいだろう?」
「姫が足りないな。もう一人必要ではないか」
「ああ、それなら問題はない。俺の姫ならば決まっている」
「断る」
鵺は、草之助の話を断ち切るように言い放った。
「千手姫様に雪玉を向けられるか」
「おお、よく千手姫とわかったな」
「お前のにやけた面を見れば、誰でもわかるわ」
「だが、姫の承諾はすでにとってあるぞ」
鵺は、俄に口をあんぐりと開けたかと思うと、その後額に手をあてて項垂れた。
「しばらくしたら、お迎えに上がろうと思う」
「だから、なぜいつもここなのだ。姫様をこのような所に呼びつけるなど……」
「いや、待て。俺は、鵺の家を指定した覚えはないぞ。姫がそう望まれているのだから、仕方あるまい。姫は鵺を慕っているのだ。兄としてな」
最後の言葉をやたらと強調したように聞こえて、はつはちらりと草之助を見る。その時、ふと視界に入った鵺が渋い顔をしていたので、おそらく気のせいというわけではないのだろう。
ややあって、草之助は鵺の家を出て行った。そして、一刻(約二時間)もした頃、再び戸が引かれた。戸の向こうには草之助と、草之助から半歩下がった所に千手姫が立っている。
「待たせたな」
草之助が朗らかに言った。言葉にはしないものの、「待ってなどいない」と鵺の顔が語っている。
「真にやるのか?」
千手姫の前だからか、鵺は躊躇うように尋ねた。
「なんだ、早くも負けを認めるのか」
「そういうことではない」
「鵺」
鵺と草之助のやり取りを見ていた千手姫が口を開く。久しぶりに聞いた姫の声は、相も変わらず澄み通るようで耳に心地よかった。
「私が草之助様に頼んだのです。今朝、目覚めてより積もった雪を見たら、心が踊りました。おそらく、今朝方に見た夢のせいなのでしょう」
「夢……?」
「鵺、憶えてはいませんか? 私がまだ幼い頃、熱を出したことがあったでしょう。その頃は、連日雪が降り続いていました。外に出られなくてつまらないと駄々をこねていた私に、鵺が雪の竈を作ってくれたのですよ。夢の中で、痛々しいほどに真っ赤になった手を隠しながら、鵺が私に笑いかけておりました」
「そんな夢を……。あれはまだ、姫様がよっつになられたばかりのこと。よく憶えていらっしゃいますね」
「ええ。私の中にある、最初の記憶です。雪の竈など、寒くていられたものではないと思っていたのですが、入ってみると温かいものでしたね」
「かまくらというのです。一説によれば、竈の蔵のようであるから竈蔵となったとされています。また、神座が転じたものともされていますね」
「神座……では、神事に使われているものということなのでしょうか」
「はい。奥州や羽州の人々は、かまくらの中に祭壇を設けて水神を祀っているそうです。また、越後国にも伝わっており、そこではほんやら洞とも言われているとか」
「ほんやら洞?」
その間の抜けた響きに、千手姫がくすくすと笑い出す。はつも、つられて吹き出してしまった。
「鵺って博識なんだね」
はつの言葉に、
「鵺の知識はだいぶ偏ってはいるがな」
そう答えたのは草之助だった。その物言いにはどことなく棘を感じる。
千手姫を加えての雪合戦を躊躇っていた鵺だったが、最後は千手姫に押し切られる形で渋々ながらも承諾することとなった。発案者である草之助の計画通り、はつと鵺、草之助と千手姫が組んで配置につく。
「ねえ、私はどうすればいいの?」
戦うのはあくまでも鵺と草之助だという。どう動けばよいのかわからずに尋ねたはつだが、
「俺が知るか」
と返されてしまった。
「今日は随分と機嫌が悪いね」
そう声をかけたが、鵺がそれに返す様子はない。この頃になると、はつにもある程度の事情は読めてきた。鵺は、普段からあまり機嫌がよろしくない。かと言って悪くもない。ただ、愛想がよくないだけなのだ。そんな鵺だが、草之助と千手姫が一緒にやってきた日は決まって機嫌が悪くなる。
――これは、まあ、そういうことなんだろうね……。
はつが心中で呟いていると、
「姫らしくしておけ」
鵺が言った。
「姫らしくって、どうするのさ」
「何もすることはない。ただ、物陰に隠れて守られていればいい」
「ただ守られているのがお姫様の役目?」
「そうだ。将が取られれば負け戦となる。将を守るために兵がいるのだ」
「でも、戦ってくれている兵のことを考えるのが、将の務めじゃないの?」
はつと鵺との間に、わずかな沈黙があった。
「始めてもよいか?」
向こうの陣で草之助が叫ぶ。
「ああ」
鵺は答えながら、傍らのはつに言った。
「ならば、お前の考える姫の役割とやらをまっとうしてみせろ」
はつは頷くと、すぐさま行動に移した。
まずは、雪かきによって高く積まれた雪の壁に身を隠す。ちらりと向こうの陣を見ると、千手姫もそのようにしているようだった。ほどなくして、雪玉が飛んできた。それもふわりとしたものではなく、野球ボールのような速さで飛んでくる。あんなものが命中すれば、隠れている雪の壁だってすぐに破壊されてしまうのではないかと思えるほどに、速さと重みのある雪玉だった。鵺も打つ。それは、草之助に一歩も引けをとってはいない。
しばらく打ち合っていた鵺と草之助だったが、どちらからともなくさっと物陰に身を隠した。俄かに静寂の時が流れる。その後、再び白熱した雪玉の打ち合いが始まった。そこで、はつは気づく。
――そうか。雪玉だ……。
そう思うやいなや、はつは手近の雪を寄せ集め、それを握り始めた。ややあって、再び静寂が訪れる。
「鵺」
呼び声をかけながら、物陰に隠れた鵺の前に雪玉を転がした。
「玉は私が作る。鵺は戦ってよ」
それを見て、鵺は珍しく口元を緩める。
「たいした姫だな、お前は」
はつの作った雪玉に手を伸ばすと、草之助の隠れた木を目がけて思い切りに打ち込んだ。雪玉は木の幹に命中し、その衝撃で木の葉に溜まった雪が草之助の上へと降る。
「うわっ」
余程驚いたのか、声を上げながら頭の雪を払う草之助の姿が伺えた。
「草之助様」
心配した千手姫が、物陰から出てきかけたところへ鵺の雪玉が飛んでいく。危うく当たりそうになって、姫は反射的に身を引いた。
「こら、鵺。姫に当たったらどうする」
「その責めはお前にあると思うが。千手姫様をお守りするのがお前の役目だろう?」
その間にも、はつはせっせと雪玉を作る。それを使って、鵺は草之助たちの陣に雪玉を打ち続けた。
千手姫も、はつを真似て雪玉を作ろうとしていた。しかし、冷たい雪は、千手姫の手ではなかなか触れていられないらしい。はつもそれなりに冷たさを感じてはいるが、千手姫が握るよりもずっと早い。姫として身の回りのことを何でもやってもらっている者と、仕事に慣れている者との差であろう。
「姫は隠れていて下さい」
雪玉を作ろうとしていた千手姫を制すると、草之助は雪玉を手にはつの隠れていた雪の壁に狙いを定めた。
「はつ」
鵺が叫んだ時には遅く、凄まじい速さで飛んできた雪玉が雪の壁を直撃する。雪玉は壁にめり込み、その衝撃で壁が崩れた。大量の雪を顔に受け、冷たさよりも驚きに目を見開く。
「はつ」
再度呼ばれ、我に返ったはつは草之助が再びこちらを狙っているのが目に入る。すぐさま態勢を立て直すと、近くの木の幹に身を隠した。その木もすぐに狙われる。雪玉を受けた木からは、冷たい雪が降り注いだ。
「草之助、お前の相手は俺だろうが」
「お前が姫を狙うからだ」
「ただの一度ではないか。それに、あれは狙ったのではない。牽制したのだ」
「一度も二度も関係ない。狙ったのでなくとも、姫を危険にさらしたことに変わりないではないか」
口論になりかけたのを見て、その隙に木の陰から出たはつが雪玉を放った。二人のような速さはなかったが、驚いた草之助が大袈裟なぐらいに飛び退くと、木の幹に自らの背を打ちつけて大量の雪を被る。それを見ていた千手姫は、両手を上げておもむろに物陰から出てきた。
「参りました。私たちの負けです」
そこで、鵺は手にしていた雪玉をその場に捨てる。
千手姫が草之助のもとに歩み寄った。
「それにしても、はつは凄いですね」
草之助の身から雪を払ってやりながら、千手姫が言う。
「私には、あのような戦い方はできません」
「いえ、私は何も……。ただ、雪玉を作っていただけですよ。戦ったのはほとんど鵺です」
「勝敗を決めたのははつですよ」
「確かに、今回ははつにしてやられたな」
草之助も苦笑を浮かべながら言った。
「たまたまだよ。私が攻撃すると思わなかったから、草之助を驚かせただけで……」
「凡そ戦いは、正を以て合い、奇を以て勝つ、という」
鵺の言葉に首を傾げていると、草之助が教えてくれた。
「戦とは、定石通りの正法で戦い、情況の変化に応じた奇法で打ち勝つという、孫子の兵法だ。俺は、はつが雪玉を打ってくるとは思いもしなかった。そこが奇なのだ。俺たちは、はつの奇策に負けてしまったというわけだ」
その時である。草之助が、何の前触れなく鵺の足元に雪玉を放り込んだのだ。
「だが、鵺。お前との勝負はまだついていない」
草之助の物言いに、鵺は肩を竦める。
「はつに負けたというなら、はつと組んでいた俺にも負けたということでよいではないか」
「いや、よくない」
「……ならば、どうする」
「勝敗をつけよう」
草之助が雪玉を拵えて構える。鵺も、溜め息混じりに足元の雪玉を手にするのだった。
はつの奇策によって、勝利をおさめたはつと鵺。
しかし、草之助はどうも腑に落ちないらしい。
次回、鵺と草之助のお話です。




