第四章 感冒
伊賀は盆地であり、夏は暑く冬はとにかく寒い。寒暖の差が激しい土地柄であった。
暖房器具などもほとんどない中を耐えてきたはつだったが、十一月も半ばに差しかかった頃、ついに体調を崩した。幸いなことに熱はないようだが、咳が止まらない。それは、ほんの一言二言、話すことすらままならないほどの激しさだった。
ふと、強烈な臭いが鼻をつき、はつは咳き込みながらそちらに目を向ける。
「飲め」
先程まで何やら刻んだり、薬研でごりごりとしていた鵺が、湯気を立ち昇らせる椀をはつに差し出していた。
「凄い臭いだね」
「毒などではないぞ」
冗談なのか本気なのか。いずれにしても、笑う気には到底なれない。
「これは何?」
「薬湯だ」
「……」
「そう嫌な臭いでもないだろう」
「でも、これ、生姜が入っているでしょう?」
「ああ」
「私、生姜が苦手なんだよね」
「いつまでもその状態が続くのは迷惑だ。黙って飲め」
ずいと、鼻先に椀を寄せられる。きつい生姜の臭いが鼻と目とを刺激した。
「贅沢を言うな。これは、かなり貴重な薬湯なのだぞ」
「そうなの?」
「刻んだ陳皮と紫蘇に乾燥させた甘草の根を加え、生姜を入れて煎じたものだ」
「……よくわからないのだけれど」
「甘草など、そうそう手に入るものではないのだ」
「高価なものなの?」
「ああ、明から渡ってきた品だからな」
「どうしてそんな高価なものを鵺が……」
「俺が薬学に関心があることを知った頭領から頂いたのだ」
「へえ」
「少量だが手に入ったと仰られてな」
「そんなに高価なものなんだ」
「ああ」
「なら、何も私に使わなくても……」
「薬は使ってこそその効果を確かめられるのだ」
鵺の物言いに、はつは首を傾げた。
「ねえ、それって、私で効果を試すということじゃないの?」
「さあ、飲め」
「嫌だよ、そんな得体のしれないもの。試したことはないの?」
「ない。だが、案ずるな。名医と評判の医者が記した書物を参考にしている。甘草は高価なので気持ち程度しか入れていないが、その分は他の三種で補っている」
「まったく安心できないのだけれど……」
「先程も言ったろう。毒ではない。とにかく飲め」
かなり横暴だとは思ったが、鵺と話している間にも咳は出る。そのたびに鵺の視線が痛かった。追い詰められたはつは、意を決して椀に口をつける。
――鼻が利かなければよかった……。
そう思った。
強烈な生姜の臭いの直後、わずかながら苦味が口内に広がる。過敏になっているためか、舌にもざらつきを覚えた。だが、苦味は耐えられないほどではない。問題は生姜の味と臭いである。嫌いなものは、どうしたって体が受けつけない。口に含んだはいいが、飲み下すことができずに目尻には知らず涙が溜まる。
「おい、はつ……」
鵺の焦りを含んだ声が聞こえた。だが、それに反応する余裕ははつにはない。
「はつ」
一際大きな声で呼ばれた。それに驚いたはつは、ついに咽喉を開けてしまった。塞き止められていた液体が、開いた咽喉を駆け下りていく。その衝撃にごほごほと咽ていると、
「すべて飲め」
鵺はそう言いながら、椀に残っている薬湯を指し示した。
――鬼……。
鵺を睨んでみたが、向こうは何も感じてはいないだろう。今のはつの目にはまるで覇気がない。薬湯を飲んだことで余計に具合が悪くなったようにさえ感じていた。だが、薬湯を飲み干すまで、鵺がはつを逃がすことはない。はつを見据える鵺の目がそう語っていた。
やむなくはつは、もう一口だけと、己を鼓舞しながら椀に口をつけたのだった。
薬湯を飲み干してぐったりしていると、鵺が白湯を淹れてくれた。それを一口啜る。白湯すらも美味しく感じ、思わず顔が綻んでしまった。
「そう言えば、何も食べずに薬だけ飲んでよかったのかな」
少しばかり落ち着いたはつが尋ねる。
「薬って、食後に飲むものでしょう?」
「……」
はつと鵺の薬に対する見識には大きなずれがある。それは、化学物質からなる薬と生薬からなる漢方薬との違いだ。
はつのよく知る薬は、その成分が化学物質からなる西洋医学のものである。それは、化学物質なので、胃の中で溶け出すと胃の粘膜などに刺激を与えてしまう。しかし、胃に食物があれば、胃への刺激を抑えることができるのだ。そこで、化学物質が配合成分となっている薬は、食後に飲むように指示されているものが多いのである。だが、薬の種類によっては、化学物質であっても食前、食直前、食直後、食後、空腹時、就寝前、頓服など、多様な用法がある。
一方、漢方薬は、複数の生薬から成り立っている。生薬は、食物と同等の成分だ。そのため、食後に飲むと胃の中で食物と混ざり、その効果が薄れてしまう。よって、漢方薬は、食前か食間という空腹時に服用するのが基本であった。とはいえ、それは毎日きちんと食事を摂れることを前提とした現代でのことである。この頃の処方としては、「日に三服す」や「四服、日に三、夜に一服」あるいは「頓服」などという表現が一般的であった。
この時、鵺がはつに下した処方は「頓服(発作時や症状の酷い時などに薬を飲むこと)」であった。
「鵺は薬に詳しいんだね」
「それなりに、だな」
「薬のことが好きなの?」
「好きで詳しくなったわけではない」
はつははっとした。以前、かすみにも似たようなことを言われたことを思い出したからだ。
「好きでないなら、どうして……」
「それが必要だからだ」
「薬の知識が?」
鵺は頷く。
「戦いの最中に傷を負った際、いかに素早く的確な処置ができるかがその者のその後を左右する。初めの処置が正しければ半日で回復するところを、間違ったか、あるいは処置が遅かったために後々まで何らかの障害を遺す場合もあるからだ」
「なら、毒薬は? 鵺が育てている植物の中には、毒草もあると聞いたよ」
「薬と毒とは表裏一体だ。いかな良薬も、扱いによっては猛毒となり得る。一般的に毒草と言われるものからも良薬は採れるものだ」
「なら、鵺は毒を使うことはないんだね」
「いや」
はつの予想に反し、鵺は首を振った。
「毒を使ったことは、これまでにいくらもある」
「それは、どういう時に?」
「忍び込む際や逃げる時に。痺れさせる香を焚いたり、粉末を吸わせたりすることはよくあるな」
「ああ、そういう毒か。それなら、命に関わるほどのものではないよね」
「……殺したことも、ある」
「……」
「殺さなければならなかったからだ。その者が生きていることで、こちら側の者が死ぬ恐れがある時には、殺すために薬を使う場合もある」
「ふうん、そうか……」
現代の感覚で言うならば、人の命を奪うことはいかなる理由があろうとも許されないことだろう。だが、はつには、鵺のしていることが本当に許されないことなのかわからなかった。よいか悪いかで言うならば、殺人は悪しき行為だ。だが、その殺人によって生かされる者がいるとするならば、それは本当に悪しき行為と言い切ることができるのだろうか。
「鵺のような人にこそ、正しい薬の知識を持って欲しいね」
ぼそりと呟いてから、はつは慌てて口を覆う。それは、ほとんど無意識に発した言葉であった。
「薬の知識が皆無のお前に言われる筋ではないな」
はつの呟きがしっかりと聞こえていたらしく、鵺からはすぐさまに厭味を含んだ言葉が飛んでくる。
「それはそうと、どうだ」
不意に尋ねられて首を傾げるはつに、鵺は己の喉を指して続けた。
「止まったのではないか」
言われて、はたと気づく。つい先刻まであれほど酷かった咳が、ぴたりと止まっていたのだ。気持ちが落ち着き、体の内側から軽やかになった気分だった。
「……すごい」
薬が効いたことに安堵していると、ふわりと何かが体を包み込む。
「冷えるとまたぶり返すぞ。着ていろ」
肩に手を置いてみると、そこには中に綿が入れられた半纏がかけられていた。
「うん……」
どこか気恥ずかしさを感じつつ、はつは半纏をしっかりと着込んでちらりと鵺を見遣る。鵺は、先程からしきりに囲炉裏に薪をくべているところだった。普段は家にいないことの多い鵺が、この日ばかりは朝からずっとはつの傍にいる。
「ねえ、鵺。体調がよくなったら、私に木登りを教えてよ」
体調不良のせいなのか、この日のはつは少しばかりどうにかしていたかもしれない。言ってしまったあとで、あろうことか鵺に甘えてしまったと後悔した。鵺は、目を細めてこちらを見たのち、大袈裟なまでの溜め息を吐いて言う。
「木登りすらできないのか、お前は」
「鵺はできるの?」
「当たり前だ。童にだってできよう」
「私の住んでいる所には、登れるような木なんかなかったんだよ」
「木がないって、お前はどんな所で暮らしていたんだ? というか、お前……」
「え、あ、違うよ。たぶんね。たぶん、そうじゃないかなあって思ったんだ。この辺りは木がたくさん茂っているよね」
「山だからな」
「こういう木々に、なんとなくだけれど、馴染みがなかったんじゃないかなあという気がしているんだよ」
つい口走ってしまったことを咄嗟に誤魔化す。鵺は訝しむ態度を変えないまでも、それ以上はつを問い質すことはなかった。
「まあ、いずれにせよ、すべては感冒が癒えてからだな」
鵺は、竹製の火ばさみで囲炉裏にくべた薪を崩していく。時にはそっと放っておいて、必要以上には関わろうとしないこの距離間が、はつにはとても心地がよかった。
――漢方でも西洋医学でも……結局のところ一番の良薬は、それを使う人の人を思いやる心なのかもしれないね。
そう思いながらはつは、ぱちぱちと温かい音色を奏でる囲炉裏を前に両手を翳すのだった。
弱っているせいなのか、鵺の温かみを垣間見たように思うはつだった。
次回、滝野の里に雪が降ります。




