第三章 騒乱
与一の処刑が執行された日の日暮れ頃、姿を眩ませていた鵺が戻ってきた。
「鵺、おかえり」
はつが明るく鵺を迎え入れる。
「さあ、ご飯にしよう。今日はね、大根と芋で煮物を作ったんだ。大根は、菊乃の畑で採れたものだよ。あ、かすみに手伝ってもらったから、味のことは安心してね。でも、味噌汁は私が作ったんだよ」
「……何かあったか」
はつの常ならぬ明るさに疑念を持ったらしい。
「え……どうして? 何もないよ」
答えながらも、少し不自然な態度だったかもしれないと思った。はつは、じっと鵺を見据える。その目元が薄く赤みを帯びているようだった。だが、それは気にかかるほどでもない。先程、かすみからあのようなことを聞かされなければ、まったく気にもならなかったことだろう。
かすみは、姿を眩ませた鵺を探すはつに教えてくれた。人を手にかけたあと、鵺は決まって姿を消すのだと。そうして、一人になると静かに涙を流すのだ。まるで、人の命を奪ってしまった己の罪と、死んだ者のなしてきた罪をも洗い流そうとでもするかのように……。あるいは、死んだ者を悼むかのように泣き続けるのだと言う。死んだ者が味方であれ敵であれ、それは変わらないのだとかすみは語った。
里の者のほとんどがその事実を知らないらしい。かすみは、たまたまその光景を見てしまったと言っていた。
まっすぐにこちらを見据える鵺は、明らかにはつの態度に疑念を抱いている。しばらくの沈黙のあと、はつから目を背けた鵺は深い溜め息を吐いた。
「……まさか、かすみに知られていたとはな」
「え、何を……」
「かすみに聞いたのだろう」
「……」
「呆れたか」
「呆れる……?」
「俺はよく甘いと言われるが、それはこういうところなのだろうな」
「甘いって、優しいということではないの?」
「忍びとしては、弱いということだ」
「どうして? 鵺は強いよ」
「肉体的なものではない。精神的な話だ」
「だから、鵺は強いよ」
はつの言葉が余程意外だったのか、鵺は押し黙った。
「与一という人は罪を犯したのだよね。つまりは罪人……。そんな人のことを、深く考えてあげられる鵺が弱いわけがない」
はつはそう断言すると、麦飯と煮物、そして湯気を立てる味噌汁をそれぞれ椀によそった。
「さあ、食べよう」
はつが微笑む。そこで鵺は、珍しくもその言葉におとなしく従って座したのだった。
十月も半ばに入ると、伊賀全土が俄に騒がしくなった。
この年の三月のこと、織田家家臣滝川雄利が、北畠信雄(織田信長の二番目の倅。伊勢国司であり丸山城城主である北畠具教の養子となった)の命を受けて丸山城の修築に取りかかったのだ。それを知った伊賀衆は、丸山城を監視し続けた。というのも、織田信長は、かねてより伊賀平定を目論んでいたからである。
年の初め、織田信長から書状があった。その内容は、他の大名と勝手に交渉するな、勝手に仕事を請け負うな、何か交渉をする際は織田家に報告せよなどという、伊賀にとっては真に不条理なものだ。また、たとえ織田に臣従したとして、伊賀衆が重宝されるとは考えにくいのが現状でもあった。織田は、響談という独自の忍び衆を抱えている。よって、他の忍びの力など不要なのだ。ただ、敵味方問わず忍びを差し出す伊賀は、織田にとっては目の上のたんこぶのような存在だった。そこで、この先、脅威となり得る要因を減らすため、伊賀衆を傘下に置こうとしたのである。
伊賀は織田信長の申し出を退け、伊賀国を治めるのはあくまでも伊賀衆であるという態度を貫いた。そして、織田との徹底抗戦の意を示したのである。
伊賀盆地(三重県西部にある盆地。現在の上野盆地)にある丸山城は、伊賀を攻める上での重要な拠点となる。滝川が丸山城の修築にあたっているのを知った上忍三家と十二人衆は、平楽寺(現在上野城として知られる白鳳城の近くにあった寺院。要塞としても機能し、おもに伊賀衆が結集する場として用いられた)に集結した。そこでの評議の結果、丸山城の修築が終わる前に攻撃することと決まったのだった。
その日、はつは一本の水桶を持って井戸端にきていた。鵺には水汲みは無理だと言われていたが、一本ずつならなんとかなるだろうと思ってのことである。はつは、鵺に負けず劣らずの頑固者なのだった。
はつが井戸端に着くと、そこにはすでにかすみがいて水を汲んでいた。
「かすみ」
呼びかけると、かすみは首だけを巡らせてこちらに向く。かすみが水桶を一杯にすると、今度ははつが井戸に釣瓶を落とした。
「かすみ、はつ」
呼ばれてそちらを見ると、浅葱が両手に水桶を持って井戸端にやってくるところだった。三人そろって水を汲む。
ほどなくして、木を打ちつける音が上がった。それとほぼ同時に、柏原城の方角から煙の筋が上がる。狼煙である。
「あれは……」
狼煙を見て声を上げる浅葱に目を向けると、
「浅葱っ」
浅葱を呼ばわりながらこちらに向かってくる者がある。菊乃だ。
「浅葱、招集だよ」
「ああ、そのようだね。かすみ、悪いけれど……」
「ええ。水桶なら、浅葱の家に届けておくわ」
「すまないね。頼んだよ」
風のように去っていく浅葱と菊乃を見据えながら呆然としていたはつだが、釣瓶が水に浸かる音で我に返った。
「招集と言っていたけれど、かすみは行かなくていいの?」
釣瓶を引き上げるたびに、ちゃぽんちゃぽんと寒々しい音が鼓膜を刺激する。
「私は、呼ばれてないもの」
「そうなの?」
「今のは、平楽寺に行く者を集めたのよ。織田の謀を阻止するためにね」
「織田……まさか、信長のこと?」
「さあ、どうだろうね。命を下したのは、その息子だと聞いているけれど」
「謀って?」
「……」
「あ、私に言えないようなことなら別に……」
「伊賀に攻め込もうとしているのよ」
「伊賀を、攻める……?」
「織田にとっては、伊賀や甲賀という忍びの力が邪魔なのよ。織田は、伊賀に臣従を求めた。けれど、伊賀はそれを退けたの」
「それじゃあ、織田は伊賀を滅ぼそうとしているの?」
「そう見るのが妥当だね。だから、伊賀中の腕利きを平楽寺に結集させているのよ。織田の目論見を潰すために」
かすみは、それぞれ九分目まで入った二本の水桶を軽々と持つと、
「浅葱の家に届けてくるよ」
そう言い、軽やかな足取りで去って行ったのだった。
九分目まであった水は、鵺の家に辿り着くまでに八分目まで減ってしまっていた。しかし、以前は五分目まで減らしてしまったことを思えば、少しは上達したのかもしれない。もっとも、水桶を二本から一本に変えたので、どちらがよいかはわからないが。
がらりと戸を開けると、ちらりとこちらを見た鵺が溜め息を吐いたのがわかった。
――また効率の悪いことを……と、呆れているんだろうなあ。
そう思いながら、はつは桶から瓶に水を空ける。
「ねえ、浅葱と菊乃って強いの?」
唐突な問いかけに、薬研で何かの草の根をひいていた鵺がその手を止めた。
「かすみよりも強いのかな」
「さあな」
「かすみがね、伊賀中の腕利きを平楽寺に結集させていると言っていたんだ。かすみは呼ばれていないらしいし、浅葱と菊乃はそんなに腕が達つのかなと思ってさ」
すると、鵺が吐き捨てるように笑った。
「それは、とんだ見当違いだな」
「どういうこと?」
「かすみがどんなつもりで言ったかは知らないが、今回のことは、腕の良し悪しだけで決められたわけではない」
「なら、他に何が……」
「大きな要因は、その出自にある」
「出自?」
「どこの出かということだ。つまり、生まれだ」
「生まれ……」
「浅葱は、この里の忍びを束ねる組頭の娘。また、菊乃は、その組頭を補佐する小頭の娘だ」
「かすみは?」
「かすみは、死人の始末を任されている家の出だ」
「し、死人……?」
「ああ。かすみの父も兄も、代々そうして暮らしている。それ故に、死を呼ぶ一族と煙たがる者さえもいる」
「そんな……」
鵺は、薬研に向き直る。だが、
「仲のいい三人に、そんな違いがあったなんて」
その言葉に、再びはつの方を向いた。
「仲がいい、か」
鵺がふと呟く。その後、しばらくは何かを考えているようだったが、結局は何も言うことなく目の前の草の根をひくことに専念した。
浅葱たちが里を立って十日も過ぎた十月の末に、里には朗報がもたらされた。それは、伊賀衆が丸山城を叩き潰したという知らせである。しかも、戦は伊賀衆の圧勝であったという。
「北畠は黙っていないだろうな」
知らせを聞き、里中が歓喜した。だが、家に戻るや否や、鵺は不安を帯びた言葉を口にする。
「北畠?」
聞き慣れない名に首を傾げるはつに、鵺は珍しく丁寧に説明してくれた。
「北畠信雄。伊勢国司だった北畠具教の養子となった男だ。そして、魔王の血を引いている」
「魔王って、まさか信長のこと?」
「それは知っているのだな」
「……」
「第六天魔王。一向宗徒が織田信長につけた字名だ」
はつは、かつて歴史の時間に習ったことを思い出していた。
織田信長は、一向宗と十年にも及ぶ戦をしていたのだという。その決着は、一向宗の中心であった石山本願寺を焼き討ちにし、男女合わせて二万人もの宗徒を焼き殺すことで決したらしい。しかし、それはまだもう少し先の話だろう。
とにかく、織田信長とは残虐非道な男なのだという印象を、はつは強く持っていた。
「織田信長は、己の倅を北畠に養子として差し出した。おそらく、北畠家を乗っ取るためだったのだろうな」
「乗っ取る?」
「数年前、北畠具教が死んだ。信雄により暗殺されたのだ。これで、信雄は伊勢国司の座を得たわけだ」
「……ひどい」
「まあ、そうだな。だが、これも乱世の習いというものかもしれない。強き者が生き残り、弱き者はどんどん淘汰されていく……」
「なら、その強い人が間違っていたとしたら?」
「……」
「織田信長という人のやり方が間違っているのか、それとも正しいのか、私にはよくわからないけれど……。信長にも、もしかしたら、何かやむにやまれない事情があったかもしれない。それが、乱世を終わらせるための最善の策だと思ってやっていたのかもしれない。けれど……」
「……」
「私はそれでも、力ですべてを蹂躙して、力のない人たちの意見を一切無視して、強い人だけがのさばっていられるようなそんな社会は……嫌いだ」
ややあって、鵺が珍しく声を上げて笑った。
「よくも、はっきりと言ったものだな」
「だって……」
「俺の前ではいい。だが、外では決して言うなよ」
「でも……」
「これは忠告だ。もしもどうあっても口にすると言うなら、その時は死を覚悟してからにするんだな」
「鵺は、どう思っているの。やっぱり、信長のような力のある人には逆らえない?」
「信長のことなどどうでもいいさ。俺が従うと決めているのは、十郎様ただお一人だ」
「十郎様って、頭領のこと? 滝野十郎吉政様……だったよね」
「はつ」
鵺の怒声に近い声が鼓膜を刺激した。唖然としていると、
「二度と言うな」
鵺が強い口調で言う。
「記憶を失っているということで一度は見逃す。だが、二度目はない」
「何のこと」
「お前が今、口にした御名のことだ。十郎様のあとの名……」
「あとって、吉……」
「言うなっ」
「……」
「それは、諱だ」
「諱?」
「目上の者以外がその名を口にしてはならない。極めて無礼な行為だ」
「そうなんだ。それじゃあ、信長を前に信長なんて言ったりしたら……」
「信長を前にせずとも、往来で口にしただけで、信長の息のかかった者に即刻手打ちにされてもおかしくない」
ぶるりと思わず身震いするはつをよそに、鵺はまたも薬研を取り出すとそこに入れられた草をひきはじめた。最近の鵺は、何やら熱心に薬の調合に励んでいる。そんな鵺を横目に、浅葱と菊乃の帰りはいつ頃になるのだろうかと、はつはぼんやり考えていたのだった。
ほんの少しだけ、鵺と心を通わせられた……そう思うがはつだった。
次回、はつが風邪をひきます。




