第六章 鵺と桔梗 ※写真付
鵺は走るのをやめ、辺りを見回した。そして、目を閉じる。抜け忍らしいふたつの気配を追ってきたつもりが、いつの間にか見失ってしまったのだ。
ふと物音がした。
――近くにいる……。
そう確信を得た鵺は、音の方へと向かった。
少し進むと、誰かが争っているような音をすぐ傍で聞いた。
――まさか、浅葱か……?
そう思ってはみるものの、それはないとすぐに結論づける。浅葱とは先刻別れたばかりだ。こんな所にいるはずがない。
――抜け忍同士であったなら、好都合なのだがな。
そんな淡い期待を抱きつつ、音のもとを突き止めて覗き込む。すると、そこには目を疑うような光景が広がっていた。
男が二人がかりで一人の女を組み敷いていたのだ。女の白い肌がちらちらと見える。女は声を出せないのか、それとも出すまいとしているのかはわからない。だが、それでも、力の限り抵抗するさまは、どう見ても合意の上とは考えられなかった。
俄かに思考が停止したが、鵺は気を取り直して二人の男をじっくりと観察する。二人とも膝丈までの男物の小袖を着て脚絆を履いている。旅の者にしては荷は何も持っていないようだ。それに、この赤目渓谷山中にいる時点で、ただの人とも思えない。
――甲賀の抜け忍……奴らがそうか。
そう思うや否や、懐から八方手裏剣を取り出して打つ。それが、女に覆いかぶさるようにしていた男の髻を掠めた。
突然、髪をばっさりと切られた男が驚き、女から手を離して顔を上げた。木陰から姿を現した鵺が、腰に下げた刀の柄を握る。
「くそっ、もう追手がきたのか」
髻を切られた男が叫び、
「捕まってたまるかっ」
もう一人の男が何やら投げた。すると、辺りを白い煙幕が覆っていく。鳥の子と言われる煙玉である。煙に紛れるように、しだいに二人の足音が遠ざかって行った。その中で、
「追って」
女の澄んだ声が聞こえる。驚きに目を見開いた。その声には聞き覚えがあったからだ。
「……桔梗?」
煙が薄れてくると、疑念も確信へと変わっていく。見間違うはずもない。肌を露わにしながら横たわるその女は、紛れもなく浅葱の姉桔梗だった。
「桔梗、お前がなぜ……」
「鵺、早くしないと、奴らに逃げられてしまうよ」
なぜ桔梗が里の外にいるのか、なぜ甲賀の抜け忍と接触したのか、聞きたいことはあったが、桔梗の言う通り奴らを逃がすわけにはいかない。
鵺は腑に落ちない感情を胸にしまい込み、二人のあとを追ったのだった。
ほどなく、鵺は二人を捕えた。鵺に比べれば鈍足な上に、この辺りは伊賀の領地である。地の利も鵺にあった。桔梗のもとから半里も行かずして、鵺は二人を捕えたのだ。
鵺は、鞘から下げ緒を抜き取ると、二人を木の幹に括りつけた。通常、忍び刀の下げ緒は一丈(3.3メートル)ほどだ。しかし、この緒はその倍もの長さがある。鵺が使い易いように長めに改良したものだった。
「お前、甲賀の者ではないな。伊賀者か」
鵺に髻を切られた男は、争いの最中、当たりどころが悪かったのか気を失ってしまったようだ。だが、もう一人は意識がはっきりしているようで、縛り上げられながらも鵺に鋭い眼光を向けている。二人とも、鵺よりも十は年重に見えた。
「伊賀者がなぜ我らを捕える?」
「なぜだと。忘れたか。伊賀と甲賀との間にかわされた盟約を」
「けっ、盟約か。そんなものを律義に守っているとは、ご苦労なことだな」
「初めはそれだけのつもりだったのだがな。だが、今はそれだけでもない」
「他に何かあったか?」
「とぼけるのもいい加減にしろ。つい先刻のことだ。お前たちが襲った女は、俺の同郷の者だ」
「ほう、そうか。あれはなかなかの上玉だった。お前がもっと遅くきてくれたなら、もう少し楽しめたものを」
「貴様……」
鵺が刀の柄に手をかけた。
「なぜあの女に手を出した。余計なことをしなければ、逃げきれたかもしれぬものを」
「そこにいい女がいたらモノにせずにはいられない、それが男の性というものだろうがよ。同じ男なら、お前にもわかるんじゃねえのかい」
下卑た笑い声を上げながら、男が続ける。
「そうだ、こうしよう。今からあの女の所に戻って、三人でやっちまおうぜ。そのあと、山を下りて町に出たら女を売っちまうんだ。あれはかなりの金になるぜ。もちろん、金は三人で山分けだ。俺は、忍びとして使われて生きていくのはもう御免なんだ」
「……」
「伊賀は甲賀よりも掟が厳しいと聞いているぞ。お前も忍びなんかやめて、もっと楽に暮らすことを考えたらどうだ?」
「……ひとつ聞くが、お前の考える楽な暮らしとは何だ」
「そりゃあ、命を取られることもない、楽に金をたんまりと稼げる仕事について、一生遊んで暮らすのよ」
「そんなにうまい仕事があるのか?」
「忍びの術をもってすれば造作もないことよ」
「忍びをやめるのだろう。やめて、何のために術を使うのだ」
「たとえば、錠前を外すことなどは忍びにとって容易いことだろう」
「忍びをやめ、盗人になると言うのか」
「楽に金が転がり込むぞ。どうだ、お前も……」
「誰が盗人になどなるかっ」
ついに刀を抜くと、鵺は男の首筋にあてがった。
「俺は里を出るつもりも盗人になるつもりもない。それに、忍びの技を盗みになど使わせてたまるか」
「交渉決裂、か」
「もともとお前と交渉などしていない。甲賀の里を抜けたというのにはそれなりの理由があるのかと思ったが、何のことはないな。忍びをやめて盗人になるだと? ただの甘えだろうが。お前には、我が里の者がやられた分も含めて償ってもらう」
「ほう、言うじゃねえか。やれるものならやってみるんだな、青二才が」
男を捕らえていた下げ緒が、はらりと地に落ちた。それと同時に、男がずいと鵺との距離を縮めるや否や、鵺の顔を目がけて吐息を吹きかける。至近距離からの攻撃に避けられない鵺は、目元が火を吹くように熱くなるのを感じ、呻きながら地に膝を着いた。
「ふはははは。甘いな、若造が。敵を捕える前には、持っている物をすべて取り上げるのが定石だろうが」
男は、小しころ(小型ノコギリ。忍びは、手甲や脚絆などに忍ばせて持ち歩くこともある)をちらつかせながら言った。だが、鵺には見えていない。焼けつくように痛む目元を覆いながら、蹲るしかなかった。
「死ねっ」
懐剣を抜いた男が、鵺の首筋に振り下ろす。鵺は覚悟を決めた。……だが、いつまで待っても衝撃がこない。不審に思っていると、どさりと何かが倒れ込む音がすぐ傍で聞こえた。次いで、
「鵺、大事はないかい」
澄み通るような声が耳に届く。そこで、鵺はようやく安堵の吐息を漏らした。
「桔梗か……」
「目をやられたのかい」
「ああ」
「どんな具合だい」
「焼けるように熱い……」
「鵺、手をどけてごらん」
言われた通りにどける。風が当たり、焼ける痛みに突き刺すような痛みも加わった。
「見た目にはわからないね。洗い流せば治まるとは思うけれど」
「そうか」
何やら、ひんやりとした感触が目元から熱を奪い去る。
「桔梗……?」
「少しは楽にならないかい」
「何を……」
「私の手は冷たいだろう」
それは、桔梗の手の感触だったらしい。桔梗の手は、すべやかでふわりと柔らかい。男のものとはまるで違うその触り心地に、意識した途端、かあっとさらに熱が集まった。
ふと、先程の男の下卑た笑い声が耳元で聞こえた気がした。
「桔梗、手をどけろ」
「あまり意味はなかったかい」
「いや、少し楽になった。……水筒を持っているか」
「生憎と持ってないね。けれど、この近くに川がある。連れて行ってあげるよ」
「奴らはどうなった」
「一人は鵺にやられてのびたまま。もう一人も、しばらくは動けないよ」
「生きているのか」
「甲賀の者の処分は甲賀に任せればいい。眠り薬の吹き矢で眠っているだけよ。鵺がやった男にも、念のために眠り薬を仕込んでおいたわ」
桔梗が鵺の腕に手を回す。それを、鵺は半ば反射的に払いのけた。
「いい。歩ける」
そう言って歩き出したのだが、数歩いった辺りで木の枝に額を切られ、薄く赤い筋が浮かび上がる。背後で、桔梗がくすりと笑う気配がした。
「草之助であれば、目を瞑ったままでも走れるのだろうがな」
「そうね。鵺は気配を読むのが少し苦手かもしれない。けれど、ただ走るだけなら、草之助は鵺には及ばないよ」
「……」
「すべてにおいて誰よりも勝る者などいるはずがない。誰かと比べて己の粗を探すのは、詮ないこととは思わないかい」
「……ああ」
「さあ、私の肩につかまって」
鵺は、今度は素直に従い、桔梗の肩に手を置いた。
川辺に着くと、冷たい水で目元を洗い流す。初めは、なかなか痛みが抜けなかったが、何度か繰り返すうちにようやく熱も引き、目が開けてきた。
「熱は引いたかい?」
手拭いを差し出しながら桔梗が尋ねた。それを受け取りつつ、鵺は、
「ああ」
とだけ答える。立ち上がった鵺は、桔梗に向き直った。その後、ついと目を逸らす。桔梗の身に纏った小袖は、ところどころ引き裂かれているようだった。桔梗はそれを上手に隠してはいるが、事情を知っている身としては嫌でも目についてしまう。
「いいのか」
思わず口をついて出た。桔梗が小首を傾げて鵺を見ている。
「このまま奴らを甲賀に渡しても、いいのか」
「いいも悪いも、それが伊賀と甲賀の間でかわされている盟約だろう?」
「襲われたことを理由に、身を守るため殺してしまったと言うこともできる」
桔梗は目を見開いた。
「……まさか、鵺がそんなことを言うなんてね」
落ち着き払った桔梗とは対照的に、鵺は声を荒げる。
「お前は、奴らを殺してやりたいとは思わないのか」
憤りを顕わにする鵺に、桔梗は諭すような口調で言った。
「鵺。私はただの女じゃない。伊賀のくノ一よ。男に手籠めにされたぐらいでへばるような、やわな精神をしてはいられないのよ」
「忍びだからとか、くノ一だからとか……」
「鵺……?」
「それが何だっ。忍びが人ではないとでも言うのか。人として思うことの何がいけない」
「……」
「俺は人であるつもりだ。そして、お前もそうだ。俺たちは忍びである前に、一人の人なんだ。だから俺は、その人格を蔑ろにするような、理不尽な暴力は許せない」
「鵺……」
桔梗は、どこか困ったような、それでいて何かが吹っ切れたような笑顔を浮かべて言う。
「私たちは、しばしば人であることを忘れられるわ。私はそれに慣れてしまっていたのかもしれない」
「……」
「そうか。私たちも人であっていいのよね」
「当然だ」
「でもね、奴らのことはこのまま甲賀に渡すよ。私が奴らを殺したら、頭領にご迷惑をかけるかもしれないもの。鵺だって、それは嫌だろう?」
「……」
「捕えたあの二人を甲賀との交渉に役立ててもらえたなら、私の胸のつかえもとれるというものよ」
桔梗が背を向けた。
「さあ、そろそろ戻りましょう」
「待て、桔梗。そう言えば、お前はなぜ里の外にいたんだ」
「妹が心配でね。鵺と連れ立って里を出て行くのを見かけたものだから」
「まさか、黙って出てきたのか」
「そうよ。だからね、騒がれる前に早く戻らないといけないのさ。鵺、黙っていておくれね」
「……いいだろう。だが、ひとつだけこちらの話も聞いてくれ」
「何だい」
「浅葱に伝えてくれ。左ノ助が死んだ……真の理由を」
「左ノ助が死んだ……理由?」
「里に戻ったら、浅葱に話すと言ったのだが……」
「言いづらいんだね」
「……」
「いいよ。左ノ助は私の弟でもあるからね。それは、私も聞いておきたいわ」
そこで、鵺は五年前の真相を語り出した。
五年前、鵺と左ノ助に物見の任が下りた。だが、その途中で敵に見つかってしまった。二人は逃げた。風のように駆ける二人には、敵の忍びの誰も追いつくことができなかったという。
しかし、追手を撒いたと思った矢先に、左ノ助が倒れた。駆けつけた鵺が様子を伺うと、左ノ助の左腕は青黒く変色し、右腕の二倍ほどにまで腫れ上がっていたという。
鵺は、すぐにそれが毒によるものと気づいた。おそらく、敵の放った手裏剣を掠めてでもいたのだろう。鵺が見つけた時には、かなり毒が回っているようだった。
鵺は、なぜもっと早くに言わなかったのかと詰め寄った。だが、左ノ助からは要領を得ない答えが返るばかり。鵺は悟った。何のことはないのだ。ただ、体裁を気にして言い出せなかっただけだったのである。
左ノ助は、拾われ子でありながら頭領に目をかけられ、また千手姫にも慕われている鵺を疎ましく思う一人であった。だからこそ、鵺に弱さは見せられないと思ったのかもしれない。
しかし、それは大きな過ちであった。
些細な見栄や意地のために、左ノ助はこの時、左腕を斬り落とすか、あるいは潔く命を絶つかの選択を迫られることとなったのである。
結果として、左ノ助は命を落とした。しかしそれは、左ノ助の選択によるものではない。左ノ助は、何も選ばなかったのだ。左腕を斬って命を繋ぐことも、自ら死ぬことも、左ノ助は選べなかった。
鵺は、そんな左ノ助を前に介錯ぐらいはしてやれるかと思ったが、左ノ助はそれを望まなかった。左ノ助に追いやられた鵺は、左ノ助を山に残し、そのまま一人で里に戻ったのである。左ノ助に、即効性の毒薬をひとつ渡して。
その後、里に戻った鵺は左ノ助が任務中に命を落としたことを伝えたのだが、納得のいかない浅葱を中心に鵺を糾弾する声が里中に広まった。翌日になってもそれは収まらず、山に残してきた左ノ助のことが気がかりではあったものの、様子を見に行くことすらも叶わなかったのだという。
「一月ほど経ってから行ってみたのだが、朽ちた躯を見つけた。身につけていた物から見て、左ノ助であることは疑いようがない。置いておいた毒薬は、そのままそこにあった」
それまで黙って聞いていた桔梗が、ふうと溜め息を漏らす。
「そうだったのかい。左ノ助はね、優しい子だよ。その分、少しばかり臆病なところがあってね」
「……悪いことではないだろう。臆病であるとは慎重であるということだ」
「鵺。教えてくれてありがとう。浅葱には私から伝えておくよ。浅葱は、あれでいて賢い子だからね。きっとわかってくれると思う」
桔梗が微笑むので、つられるように鵺も笑った。鵺は、長年抱えていたものを打ち明けたことで、胸の内がすっと軽くなったことにしばし感じ入っていた。
五年前のことを打ち明けた鵺。
ようやく、肩の荷が下りたような心持ちだった。
次回から第四部に突入します!




