第五章 鵺と浅葱 ※写真付
弥助の言葉の意味を、鵺は里の境に着いてすぐに知った。
弥助は、里の入り口ではつを見かけたと言ったが、そこにはつの姿などなかった。いたのは、こちらに気づくなり鋭い視線を投げかけてくる、浅葱のみである。
してやられたと思った鵺だったが、ここで背を向けるのはあまりにも不自然だ。鵺は胸中を隠し、浅葱に尋ねる。
「はつを見なかったか」
「知らないね」
ぶっきらぼうに浅葱が言い放った。
「弥助がここではつを見かけたと言っていたのだがな」
「弥助が? いや、見てないよ。それよりも、お前はまたはつから目を離したのかい。目付失格だね」
「……」
「とにかく、ここにはつはいない。他をあたるんだね」
「お前は、ここで何をしているんだ」
「そんなこと、お前には関わりないだろう」
「……任務が下ったのか?」
「ああ。わかったなら、とっととどこかに行きな」
「ならば、弥助を待っているのか」
「そうだよ。だから、お前には関わりがないと言っているだろっ」
「弥助なら、おそらくこないぞ」
浅葱が、怪訝そうに鵺を見据える。
「俺をここに寄越したのは弥助だからな」
「……なるほどね。そういうことかい」
浅葱はすべてを聞くまでもなく、事情が呑み込めたようだった。
「弥助がこないなら、それでもいいさ」
「まさか、一人で行くと言うのか」
それに答えることなく、浅葱は里を出て行く。鵺は、わずかに逡巡したのち、あとを追って里を出たのだった。
「なぜお前がくるんだい」
木々の合間を跳ねながら、すぐ後ろをついてくる鵺を、浅葱が横目で睨みつけた。
「頭領の許しもなく里を出るなんて、抜け忍と思われても仕方がないよ。なんなら、あたしが今ここで始末してやろうか」
「頭領が抜け忍と見做したならば始末されるのは仕方がない。だが、俺はまだ抜けてはいない。同じ里の者を傷つけたとあっては、罰せられるのはお前の方だ」
「なら、里に戻ったら真っ先に、お前が里を抜けたことを問題にしてやるよ」
「やってみるがいい」
「なんだい、余裕振りやがって」
「言っただろう。俺をお前のもとに寄越したのは弥助だ。弥助ならば、その辺のこともうまくやっていると思ってな。それに、頭領はお前と弥助に行けと言ったのだろう。一人で任務にあたるのもまた掟破りだぞ」
「……勝手にしなっ」
鵺は、浅葱の数歩あとを駆けていた。里を出てから四半刻足らず、早くも呼気を乱し始めた浅葱を横目に、鵺は浅葱から徐々に距離を取る。
「浅葱、少し抑えたらどうだ。その速さではあとがもたない」
「ふん、もうへばったのかい? 情けないね」
言うと、浅葱はさらに速さを増していった。
「おい、浅葱っ」
仕方なしに、鵺はそのあとを追う。
「へばったなら、お前は先に里へ帰ってな。任務はあたし一人でやり遂げてやるよ」
木の枝に飛び移りながら言い放つ浅葱に、
「あ、その枝は……っ」
鵺が叫ぶ。それと同時に、充分に太く見えた枝が根元から折れた。重力に抗いようもなく落ちていく浅葱を、鵺は間一髪のところで抱き止める。その刹那、
「触るなっ」
袂から苦無を抜くや否や、浅葱が鵺に斬りかかった。鵺は、これまた間一髪のところでかわし、抱えた浅葱を前方に放り投げるとその反動で後方へと飛び退いた。斬られた前髪が、緊迫する二人の間に流れる。
「お前は、今の状況がわかっているのか」
努めて冷静に尋ねる鵺に、浅葱は荒い呼吸を繰り返しながら答えた。
「今の状況だって? あたしに苦無を向けられたことかい。私闘は掟破りだからね」
「そんなことはどうでもいい。俺は、そんなことを里の連中に言うつもりはない」
「じゃあ、なんだって言うんだい」
「今のお前は、明らかに冷静さを欠いている。冷静であれば、あの枝に亀裂があったことに気づけたはずだ」
「そんなもの、少し見落としただけさ」
「息も上がっているようだな」
「何言ってるんだい。あたしはなんともないよ」
「この先、どこに敵が潜んでいるかわからないんだ。冷静にならなければ危険だ」
「誰のせいだいっ」
叫んだあと、浅葱は喉を押さえて蹲った。懐から水筒を取り出し、一口含む。すると、少しばかり落ち着きを取り戻したようだった。
「浅葱、お前の任務を教えろ」
「関わりのない者に教えるわけがないだろう」
「なら、いい」
そっぽを向く浅葱に、鵺は溜め息を吐く。
「まあ、察しはつく。甲賀からの者……大方、抜け忍でも追っているのだろう。ここをまっすぐに進めば甲賀領だからな」
「わかったなら里に戻りな。これはあたしの任務だよ」
「お前と弥助のだろう。俺は、弥助に託されたのだ」
「弥助が何と言おうと、お前には関わりのないことさ」
「相手は何人だ」
浅葱が、俄かに口を噤んだ。
「その様子だと、一人ではないのだろう」
「だから何だってんだい。そんなこと、お前には関わりが……」
「ないわけがない。俺たちは、ともに滝野の里衆だ」
「なら、どうして……っ」
浅葱の突然の大声に、鵺は思わず一歩下がった。
「どうして、左ノ兄を見殺しにしたんだいっ」
「……」
「ともに滝野の里衆で、味方が危険な目に遭うのを見過ごせないと言うなら、なんで左ノ兄の時にはそうしなかったんだいっ」
「……だからこそだ。俺はもう……二度と、あんな思いはしたくない」
「なんだよ、それ。勝手なことを言いやがって。大体お前は……っ」
「浅葱……っ」
ふと、二人は一斉にすべての動きを停止する。浅葱も、それまでの激しさが嘘のように、急速に心が冷やされていくように冷静さを取り戻していた。
「わかるか?」
鵺が尋ねる。浅葱は声もなく頷いた。
「一人ではないな」
「ああ、甲賀の抜け忍は二人だからね」
「二人か。別行動であればありがたいのだがな」
「けれど、この気配……二人で行動している可能性もあるね」
「そうだな」
少しばかり思案したあと、鵺はひとつの案を示す。
「二手に分かれよう。俺たちが気配に気づいたのと同じように、向こうも気づいているかもしれない。分かれて、奴らの意識を拡散するんだ。俺は左を行く。浅葱は右に向かってくれ。抜け忍に会うことなく甲賀領の手前まで辿り着いた時、そして抜け忍を見つけた時、それぞれに犬笛で合図するんだ」
鵺を毛嫌いする浅葱が、この作戦に乗るとは思えなかった。だが意外にも、
「わかったよ」
浅葱は、あっさりと承諾したのだ。それを見て、密かに胸を撫で下ろした鵺が続ける。
「抜け忍を見つけられなかった時には一度、見つけた時には二度、犬笛を吹くことを合図としよう」
「ああ、それでいい」
「犬笛は持っているな?」
「ああ」
「では、行くか」
「鵺」
呼び止められて振り向くと、まっすぐにこちらを見据える浅葱の目とかち合った。
「抜け忍を捕えたら、真のことを話してくれ」
「……」
「左ノ兄のこと……お前は、左ノ兄を見捨てたのか? お前も知っているだろうが、その話を里に流したのはあたしだ。お前にとってよくない噂を流せば、汚名を雪ぐためにも何らかの言い訳をしてくるだろうと思った。その言い訳が、左ノ兄の死の真相に繋がるかもしれないと思ったんだ。けれど、お前は何の言い訳もしなかった」
「浅葱……」
「鵺、あたしはただ、真のことが知りたいだけだったんだ」
「わかった。抜け忍を捕え、里に帰ったら……話す」
そして、伝えるならば今だと鵺は思った。
「それとな、お前に伝えておきたいことがある」
「何だい」
「はつに小袖をくれただろう。菊乃やかすみからも貰ったようだが、お前からもらった小袖を最も気に入っているようだ。……あれは、よい小袖だな」
「安物だよ」
「そうかもしれない。だが……間違いなく、上物だ」
「……そうかい」
「浅葱。……感謝する」
「別に、お前にあげたわけじゃないんだ。礼なんか要らないよ。けれど、礼を言うつもりがあるのなら、左ノ兄のことを忘れるんじゃないよ。里に帰ったら、五年前のことを包み隠さずに話すんだ」
「……ああ」
「必ずだよ」
そうして、鵺と浅葱は分かれ、それぞれの道を駆けて行った。互いの胸に去来するのは五年前の事件。そして、その中心にいるのは、今は亡き浅葱の兄左ノ助である。
鵺は、両手でばしっと己の頬を張った。今は、左ノ助のことを考えている時ではない。伊賀領に入った以上、甲賀の抜け忍を早く捕えねば、伊賀忍にも危険が及ぶかもしれない。それに、滝野の抜け忍は甲賀に渡ったという噂を聞いた。甲賀とは盟約をかわしているので、伊賀の抜け忍を引き渡してくれるだろう。だが、手ぶらでそれを受け取るだけというのはどうもバツが悪い。こちらも、なんとか手土産を用意したいものだ。
「甲賀の抜け忍、必ず捕らえるぞ……」
己に言い聞かせるように呟くと、先刻感じた気配を追って行ったのだった。
浅葱にようやく礼を伝えることができた鵺。
だが、今はまだ任務の最中だ。
浅葱との約束を果たすためにも、甲賀の抜け忍を捕らえて里に帰還しなくてはならない。
次回、甲賀忍を追う鵺が、その先で思いもよらない光景を目にします。




