第四章 鵺と弥助
洗濯物を抱えたはつが、かすみと連れ立って去って行くのを見届けたあと、家の裏手から鵺がひょっこりと姿を現した。そのまま、柊の木の根本に腰を下ろして座禅を組み、軽く目を閉じる。
そよそよと風が通り過ぎるのを肌で感じた。柊の葉が微かにざわめく。上空を飛ぶ鷹の声が耳に届いた。その羽音さえもがはっきりと聞こえてくるようだ。
そんな中、ざっざっと土を蹴る音が聞こえる。風向きも、わずかに変わったようだ。
「鵺、起きているか」
明るい男の声が降ってくる。目を開けずとも、それが誰かなどはわかっていた。
「俺が、こんな所で眠ると思っているのか。草之助」
「お前はどこででも眠れるではないか。はつの話では、お前の寝姿を見たことがないとのことだったが」
「はつが、早寝遅起きなだけだろう」
「はつもそう思っているようだったが、実のところそういうわけでもないのだろう?」
鵺は、片目だけを草之助に向ける。その後、無言で再び目を閉じた。
「何をしにきた」
ぶっきらぼうに言い放つと、草之助が苦笑を零す気配がした。
「そんなつれないことを言うな。用がなくてはきていけないのか」
「そういうわけではないが……」
「ならば、少しぐらい話につきあえ」
「話ならば日頃しているではないか。わざわざ出向いてまで話すようなことがあるのか」
「ああ、実はな、先程頭領のお屋敷に伺っていたのだが……」
そこまで言った辺りで、鵺の眉間に皺が寄った。そして、
「千手姫と」
と続いた瞬間、
「帰れ」
草之助の言葉を一蹴するかのような、鋭さを持った鵺の声が辺りに響く。
「帰れとは、酷いな」
「草之助、俺は今、精神統一の修行中だ」
「ああ、そのようだな」
「よって、お前の惚気話につきあってやる暇はないのだ」
「……そうか。それでは、仕方ないな」
その後、しばらく無言の時が流れた。足音も聞こえなかったが、忍びならば音を立てずに立ち去ることなど造作もない。現に、先程まであった草之助の気配は、今ではもう感じられなくなっていた。
――去ったか……。
そう思い、乱れた精神を再び集中させていく。しだいに、風の動きが手に取るように感じられるようになった。常ならば聞こえるはずのない、遥か上空を飛ぶ鷹の羽音すらも耳に届く……そんな気がした。鷹の鳴き声に聞き入っていると、左頬に違和感を得る。
――抓られている……?
そう思った刹那、蟀谷に力が入るのがわかった。そして、先程よりも深い皺が眉間に刻まれる。
「童か、お前はっ」
ついに目を見開いて怒鳴ると、目の前にいた草之助は鵺の頬から手を離し、悪戯が成功した童のように笑うのだった。
「鵺よ、修行が足らんなあ。お前の欠点は、気が散りやすいところだな」
「言われずとも承知している。だからこその修行だ」
「そうか、なるほどな」
「わかったなら、さっさと帰ってくれ」
「ふむ。わかった。今日は帰るとしよう」
去りかけたところで、何やら思い出したように草之助がこちらを向いた。
「そう言えば、あれは伝えたのか」
「何のことだ」
「先日、千手姫とお前の宅を訪ねた日、帰り際に話したことだ」
「……ああ、あれか」
「まだ伝えていないのか」
鵺は草之助に、「はつが小袖を貰って喜んでいることを、浅葱に伝えてくれ」と依頼したのだが、草之助はそれを聞き入れなかったのだ。
「『貰った小袖をはつがとても気に入って大事にしている』と、感謝していることをただ伝えればよいだけではないか」
「そんな単純な話ではない」
「そうか? 単純な話だと思うがな」
「俺が話しかけようにも、向こうがそれを望まないのだ」
「ふうむ」
「まあ、俺も、このままであり続けるわけにいかないとは思うのだが……」
「何かきっかけでもあればよいのだろうな」
「しかし、それは俺が追々考えるとする。今は修行に打ち込みたい」
「そうか。では、俺は退散するとしよう」
「……謀るなよ」
「大袈裟だな。案ずるな、今回は真だ。しかと修行に励んでくれ」
そう言って去って行く草之助の背を見えなくなるまで見届けた上で、鵺は目を閉じ、再び精神を深く深く集中させていった。
ほどなくして、またも聞こえた足音に邪魔される。それは、隠そうとする気配もなくこちらに向かってきているようだ。
――また、草之助か……?
そう思い、今度は睨みつけるように目を開く。足音がぴたりと、目の前でやんだ。俄かに息を呑んで押し黙る鵺を、足音のぬしが表情を変えずに見下ろしている。
「邪魔したか?」
尋ねられ、鵺はどこかばつが悪そうに首を振ると、
「いや……」
とだけ答えた。そして、
「お前が俺の所にくるなど、意外だっただけだ。弥助」
そう言うと、鵺は立ち上がって家の戸を開ける。
「白湯ぐらいなら出せるが」
「構うな。俺はただ、確認にきただけだ」
「何をだ」
言いながら、開けたばかりの戸をその手で閉めた。
「はつはどこだ」
「川辺だ。洗濯に行っている」
「一人でか」
「かすみと二人でだが」
「それを知っていて、なぜお前はここにいるのだ。お前の役目は、はつの護衛とともに、はつが妙なことを起こさないよう見張ることだろう」
「それは、承知している。だが、今はかすみがはつの傍にいる」
「なぜかすみを信用できる。かすみがどうということではないが、俺ならば、与えられた任を人に任せるような真似はしない」
「……」
「小次郎の言葉を借りるつもりはないが、お前はそういうところが非常に甘いな」
「弥助、お前の言うことは一々がもっともだな。確かに、俺が迂闊だったかもしれん」
「鵺、お前は人を信用し過ぎるところがある。里人であっても、気を許し過ぎないことだ」
「……どういうことだ」
「かすみがどうということではない。たとえの話だ」
「そうか。肝に銘じておくとしよう」
鵺が、川辺に向かうべく一歩を踏み出したところで、
「川辺にはつはいなかったぞ」
弥助がそう告げた。
「かすみはいたが、はつの姿は見当たらなかった」
「……木の陰になっていて見えなかっただけではないのか」
「さあ、それはどうだろうな。俺ははつを探して動いていたわけではないから、見落としただけかもしれない。だが、もうひとつ気になることがあってな。里の境で、はつらしい者の姿を見かけたのだ」
「何だと」
「まさかとは思うが、逃げるつもりではないだろうな」
弥助の言葉を聞くか聞かずかのうちに走り出した鵺を見て、
「鵺」
弥助が呼び止めた。急く気を抑えつけながら、鵺は弥助に振り向く。
「浅葱のことだがな。あいつは、お前のことを誤解しているのだ。いずれわかり合える日がこよう」
「弥助、それは今言わねばならないことなのか」
「ああ、今だからこそだ」
弥助は、時折よくわからないことを口にすることがあった。だが、それらがまったく意味をなさなかったことなどは、おそらく一度もない。弥助は無口で思慮深く、常に先の先まで見通す目を持っている。これまでの経験上、その時には無意味に聞こえることも、あとになればよく理解できるということも多かったように思う。
だから、今は走ることに専念した。
腑に落ちない気持ち抱えつつ、そのことについてはあとから考えればよいと、鵺はただひたすらに里境を目指したのであった。
はつが里を抜け出そうとしている?
急ぎ里境を目指す鵺だったが……。
次回は、里の外……赤目渓谷山中からお届けします。




