第二章 鵺と頭領
「またどこに行ったのだろう、鵺は……」
朝餉をともにしたのちふらりと出て行った鵺だが、もう二刻(約四時間)も経つが一向に戻ってくる様子がない。
「それに、毎晩どこに行っているのだろう」
鵺と同居するようになって以降、はつは鵺が床についている姿を見たことがなかった。
「朝食の時間には必ず戻ってくるんだけどね……」
もしかしたら、鵺は鵺なりに気を遣い、はつを一人にしようとしてくれているのかもしれない。はつとしても、元来は一人でいることが好きな性分だ。しかし、それは馴染みある現代社会での話である。こんな得体の知れない世界に、一人で捨て置かれるのは嫌だった。
「……不安に圧し潰されそう……」
ついに、泣き言までもが口をついて出ていく。そこで、はつはすくと立ち上がり、家の戸に手をかけた。
一歩家を出ると目を細めながら空を仰ぐ。眩いばかりに輝く太陽は、もうじき真上に差しかかろうとしていた。
どこに行こうと決めて家を出たわけではない。ただ何とはなしに歩いていると、どすっという、何かを打ちつけるような音が聞こえてきた。
はつは振り向く。音のする方には一軒の平屋があった。しかし、それはただの家ではないらしい。家と言うよりは、道場と呼ぶに相応しい佇まいである。
はつは、道場らしい建物に身を寄せると、格子戸から中の様子を伺った。そこには、長い棒を構えた白髪混じりの男が、道着を身に纏って汗を流している。男が踏み込むと、的に棒の先が強かに打ちつけられ、先程聞いたものと同じ音が道場内に木霊した。
「すごい……」
その男の動きは、白髪の目立つ年齢とは思えぬほどに勇ましく、かつ機敏であった。思わず見惚れていると、
「入ってはこぬのか」
道場から声が上がる。一度たりとてこちらを見た気配はなかったのだが、男にははつの動向がわかっていたらしい。また、はつは声を聞いて、男が何者であるかを知った。
「……頭領?」
唖然とするはつを横目に、振り向いた頭領は口元を緩める。そして、はつに入ってくるよう再度促した。
はつがおずおずと道場に足を踏み入れると、頭領は手にした棒を壁に立てかけ、手拭いで額の汗を拭いた。その棒はかなり長い。頭領の背丈の三倍はあろうかという長さであった。他にも棒が並んでいたが、それらのどれよりも長く、他の棒の二倍はあるように思えた。
「たんぽ槍じゃ。見るのは初めてかの?」
「たんぽ槍?」
「ほれ。先に『たんぽ』がついておるじゃろう」
「たんぽ……?」
「拓本を取る時などに墨を含ませる道具じゃよ。それを棒の先につけたものをたんぽ槍と言うのじゃ。鍛練用の槍のことよ」
「へえ。初めて見ました」
「たんぽぽという花があるじゃろう。あれは、たんぽに似た穂ということで名づけられたという説がある。まあ、真か否かはわからぬがのう」
「たんぽの穂でたんぽぽですか。面白いですね」
棒の先を見据えながら言う。
「随分と長い槍を振るうのですね」
「実戦で使用するのはこの半分ぐらいの長さなのじゃがのう。これをまっすぐに打ち込むことができれば、戦場において遅れをとることもないじゃろう」
「頭領が、自ら槍を手に戦うのですか?」
「さてのう。しかし、どうなるかわからぬからこそ、日頃の修練が大事なのじゃ。わしが自ら先陣切って戦うことはなかろうが、己が身ぐらい己で守れるようでなければ大将は務まらぬものよ。どうじゃ。そなたもひとつ振るってみるか?」
「え……振るうって、槍をですか?」
「刀がよければ、木刀や竹刀もあるが」
「いえ、私は……どちらも触れたことすらありません」
「記憶がないのに、なぜそう言い切れる。ただ、忘れているだけということもあるのではないかな」
頭領が竹刀を差し出す。はつは、それをやむなく受け取った。
「わしは槍が得意ではあるが、刀と槍とでは刀の方が分が悪い。わしも竹刀を持つとしよう。では、始めようか」
頭領がそう言い、構える。はつも、一応は構えて見せた。だが、頭領が一歩踏み込んだ瞬間にすべてが決した。はつは、頭領の気迫に抗うことができず、自ら竹刀を放り投げてその場にへたり込んでしまったのだ。頭領の振り下ろした竹刀が、こつんとはつの頭に軽く触れる。
「なるほど。竹刀に触れたことがないというのは、どうやら真のようじゃな」
冷や汗に額を濡らすはつに、頭領が手を差し伸べる。
「あ、ありがとうございます」
言いながらそれを取ったはつだが、その直後にあることに気づいてしまった。手を握ったまま動かないはつに、頭領が訝しむ表情を浮かべる。そこで、はつは顔を赤らめながら重い口を開いた。
「あ、あの、私……腰が抜けてしまいまして……」
それを聞き、頭領は含み笑いを零しつつ、はつから手を離す。
「よいよい。ならば、少しの間、座して話そうではないか」
そう言うと、頭領ははつの前に胡坐を掻いた。
「のう、はつ」
「はい」
「鵺は、どうしておる」
「鵺……ですか?」
「うむ。彼奴には其方の目付を任せたのじゃが、しかと働いておるかのう」
「……鵺は、大抵私の傍にはおりません。夜は遅いし、朝は私が起きる頃にはもういないのですから。私と顔を合わせないようにしているように感じます」
「ほお。では、鵺が姿を見せるのはどういう時じゃな?」
「食事の時か、水汲みや薪割りなどの力仕事が必要な時でしょうか。そろそろ水を汲みに行かないとと思った時など、いつもタイミングよく……あ、いえ、都合よく現れてくれるような気がします」
「ふうむ。それは、真に都合のよいことよのう」
頭領は口元を綻ばせながら頷く。
「はつよ。鵺はあれでいて生真面目な男でな。与えられた役目は必ずまっとうすると、儂は思うておる。その証拠に、其方が困っている時には都合よく現れるのだろう?」
「ええ、まあ、確かにそうですね」
「鵺は愛想もよくない上になかなか胸の内を明かそうとしない奴ではあるが、信じてやってはくれまいか」
「……はい」
頭領の言葉を聞き、はつは千手姫の話していたことを思い出した。そこで、この機にぜひ聞いてみようと口を開く。
「頭領が、鵺をお拾いになったのだと聞きました」
「うむ。誰から聞いたのじゃ?」
「千手姫様からです」
「ほお。千手に会うたのか。そう言えば、この間は随分と機嫌がよさそうではあったが、鵺の宅に行っていたとはな」
「いろいろとお話をお伺いできました。千手姫様は、鵺を慕っておいでなのですね」
「そうじゃな。今も、鵺の話をする時には、『兄上』などと口をついて出るぐらいじゃ」
「鵺の幼少の頃のことなども聞けて、私としては楽しいひと時でした」
「して、鵺に対する印象は変わったかの」
「そうですね。最初に会った時からはだいぶ、変わったように思います。鵺も、結構……いえ、かなり、苦労をしてきているのですね」
「ははは、そうじゃな」
「鵺と名づけたのも、頭領なのですか?」
「うむ。平家物語というのを知っておるか」
「えっと……」
「まあ、知っておったとしても忘れておるか。平家物語とは、今から三百年以上も昔に書かれた軍記物じゃよ。その中に、頭は猿、胴体は虎、そして蛇の尾を持つ鵺という妖が描かれておってな。雷とともに現れるということから雷獣とも呼ばれるそうなのだが、山で鵺を見つけた時にそれを思い出したのだ」
「なぜです?」
「鵺を見つけた夜は凄まじい風が吹いておった。雨は降っておらぬのに、ごろごろと雷が空で轟いておってのう。それが、里の近くに落ちたのだ。風は吹いておるし、火がついてはたちどころに燃え広がってしまうと思って様子を見に行った折、赤子を見つけたのよ。大木の幹に背を預けながら、泣いておったわ。そして、その大木は縦に引き裂かれ、真っ黒に焦げておった」
「まさか、その木に落ちたのですか?」
「うむ。運のよいことに火は点かなかったのだが、儂は天の導きと思うた」
「天の導き……」
「まるで、天が儂に赤子を見つけさせようとしたかのようではないか。そこで、儂はその赤子に鵺と名づけ、里で育てることとしたのじゃ」
「そうだったのですか」
「はつよ、そろそろ立ってもよさそうなのではないか」
言われて腰を上げてみる。抜けた腰がしっかりと元に戻っていた。
「あ、もう大丈夫そうです」
「そうか。先刻は無茶をしてすまなかったのう」
「……いえ」
「儂は、これより用がある故に失礼する」
「あ、はい。私のせいで引き止めてしまって、申し訳ありません」
頭領が立ち上がるのに合わせるように、はつも腰を労わりながらそっと立ち上がる。
「はつよ。鵺との暮らしは苦労も多かろうが、彼奴のことを頼む」
道場を出て行く直前、頭領がはつに向き直って言った。
「里人の前ではあまり言えたことではないのだがな、鵺は儂にとって亀之助や千手となんら変わらぬ。初めてできた、倅のような存在なのだ」
道場をあとにする頭領の背を目で追っていると、
「こんな所で何をしている」
不意に声が上がった。そして、頭上から舞い降りてくるように姿を現したのは、先程まで話の渦中にいた鵺である。
「鵺こそ、一体どこに行っていたの?」
驚きとともに呆れた声を上げるはつに、
「お前には関わりのないことだ」
と、ぶっきらぼうに言い放った。
「関わりあるよ。鵺は、私のお目付役なのでしょう?」
「そうだな」
「なら、どうしていつもふらふらいなくなるの」
「なんだ。お前は、四六時中俺につき纏われたいのか」
「いや、そうは言わないけれど……」
「案ずるな。俺は、常にお前の動きには気を向けている。だから、俺は今ここにいるのだ」
「ふうん……」
頷いてみてから、はたと気がついた。心なしか鵺の頬が赤らんでいる気がする。
「もしかして、鵺はずっとここにいたの?」
「……」
「頭領と私の話を聞いていたの?」
「……行くぞ」
鵺はふいっと顔を背けると、すたすたと先に立って歩き出した。耳まで真っ赤に染め上げたその横顔に、初めて歳相応の青年の姿を鵺の中に見た。そうして、そんな鵺に少しの安堵と少しの愛おしさを抱きながら、はつは急ぎ足で鵺のあとを追ったのだった。
頭領と鵺との間には深い絆があった。
次回、鵺と浅葱の間にあるわだかまりが明らかとなります。




