第一章 鵺と千手姫
はつは、額にうっすらと汗を浮かべながら、よたよたとした足取りで家路を急いでいた。その両手に持つ一本の水桶の中では、七分目まで張られた水がちゃぽんちゃぽんと音を立てながら、あちらへいきこちらへいきして遊んでいる。桶から飛び出した滴が、昨日貰ったばかりの梔子色の小袖の裾にかかり、はつは慌てて水桶を小袖から遠ざけた。そんな動きを繰り返しながらようやく家の前まで辿り着くと、水桶をおもむろに置く。
植え込みに向いていた鵺の、溜め息を漏らす声が耳に届いた。
「だから言ったろう。お前に水汲みは無理だ」
「そんなことないよ。汲んでこれたじゃないか」
「遅い。刻がかかり過ぎだ」
「それは、まあ……慣れていないだけだよ」
「水をだいぶ零したようだな」
はつは、ぎくりとした。鵺は、いまだ草花に向かい、その手入れに勤しんでいる。
「どうして、そんなことがわかるの?」
「桶を置いた音だ。水の跳ね具合でわかる」
「……」
「水を無駄にするな」
そう言われては返す言葉もない。はつはただ、
「ごめん……」
とだけ言うと、桶の半分ほどまでに減ってしまっていた水を水瓶の中へと移した。瓶を一杯にするにはまだまだ足りないが、はつが汲みに行ってはまた水を無駄にしかねない。渋々ながらも、はつは水桶をあった場所へと戻したのだった。
「なら、それをさ……私が代わろうか?」
振り向いた鵺に、はつが植え込みの草花を指差して言う。
「お前に薬草の知識があるのか」
「いや、ないけれど……」
「ならば、務まるはずがない。余計なことを口にするな」
鵺ははつに冷たい視線を投げかけると、再び植え込みに向き直った。
「それならさ、私にできることは何かないかな」
「ない」
「そんな……。あ、そうだ。薪割りはどうかな」
「水汲みもできない者には無理だな。そんなに何かをしたいというなら、まずは体力をつけろ」
「体力……」
「体力がついたなら、その後は己の身の護り方くらい学べ。そうすれば、俺の負担も多少は減るというものだ」
「……そうだね。わかった、そうするよ」
鵺との話が一段落し、はつは何気なく振り返った。遠くに人影が見える。鵺の家は里の外れにあり、草之助を除けば訪ねてくる者など滅多にいない。
――草之助かな……?
そうは思ったが、見える人影はふたつだ。一人が草之助として、もう一人は誰なのか。はつにはまるで見当もつかなかった。また、その影は確実にこちらに近づいてきている。
「鵺」
はつの声に鵺は顔を上げ、はつを見たあと、その視線を追ってはつの見ている先に目を向けた。
「はつ、お前にできることがあったぞ」
「え?」
「家を片付けろ」
そう言うと、鵺は途中だった草花の手入れを放り出し、家に入る。そして、急いで水瓶の水で手を洗い流した。
「鵺、そんなに慌ててどうしたの? こちらに向かってきているのは、草之助じゃないのか」
「草之助だな。だが、そこはこの際どうでもいい」
「どういうこと?」
「草之助の隣にいるのは、千手姫様だ」
「千手姫?」
「頭領のご息女だ」
「そんな偉い人がなんでここに……」
「さあな。とにかくここに向かっているのは間違いなさそうだ。だから早く片付けろ」
心なしか焦りの色を浮かべている鵺を横目に、はつは掃除に取りかかった。しかし、そうは言っても、片付けるようなものなどたいしてありはしない。もともと鵺の家には、生活に必要最小限の物しか置いていないのだ。はつは、床を箒で軽く掃く。そのうちに戸が叩かれた。次いで声も上がる。
「鵺、入るぞ」
草之助である。返事を待たずして、がらりと戸が引かれた。そこには、爽やかな笑顔を湛えた草之助が立っている。そして、その半歩後ろに控えるようにして立つのは、美しい女だった。
「美しい」という言葉だけでは足りないかもしれない。髪は長く健康的で、艶やかな鴉の濡れ羽色をしている。肌は透き通るように白く滑らかで、前できちんと合わせた手の指はまるで白魚の如き細さだった。
草之助が太陽なら、その女はまるで月のようだとはつは思った。闇の中にあって、静かに、煌々とした輝きを放ち続ける、白い満月を思わせる女だった。
はつは女の身でありながら、草之助の連れてきた女のあまりの美しさに目を奪われ、しばらくの間呆然と見つめてしまっていた。
「はつ」
鵺の声にふと我に返る。はっとして女を見ると、女は少しばかり困ったような笑顔を浮かべていた。
「あ……すみません」
謝ると、女はにこりと笑って言う。
「はつ、ですね? 私は滝野十郎吉政が娘、千手と申します」
「滝野……?」
「頭領の御名だ」
草之助が言う。
「姫様、宜しければどうぞ。お上がり下さい」
鵺が家の中に入るよう促すと、
「はい。ありがたく存じます」
そう澄んだ声で答え、千手姫はそれに従った。草之助もそれに続く。
家に上がると、鵺は千手姫を上座に据えた。その隣には草之助が座し、下座にははつと鵺が座す。
「このような所にわざわざお越し頂かなくとも、ご用とあらば出向きましたものを」
みなが座したところで、鵺が口を開いた。
「久方振りに訪ねてみたくなったのです。ご迷惑でしたでしょうか」
「いえ、そのようなことはありませんが……」
「ここのところ鵺と話す機会もなく、寂しく思っておりました。父を訪ねてはきても、私にはいつも会いにきて下さらないものですから」
「……」
「もしや、私は避けられているのでしょうか」
「何を仰られるのです。そのようなこと、あるはずがありません」
きっぱりと否定する鵺に、千手姫は口元を綻ばせる。
「ええ、そうですね。ほんの冗談です」
その後、二人の間に妙な刻が流れる。
「あの……」
その間に耐えかねたはつが口を挟んだ。
「鵺と千手姫様とは、親しい間柄なのですか?」
刹那、鵺には睨まれたものの、千手姫は温かい笑顔をもって答えてくれる。
「私と鵺とは、幼い頃にともに暮らしていたのですよ」
「お姫様と鵺が一緒に……?」
「ええ。亀之助が生まれるまでの五年ほどのことです。私の記憶にあるのは、物心ついてからの一、二年ですが……」
「亀之助……様?」
「私の弟です」
「どうして、鵺が頭領の家に……」
「俺が、頭領に拾われたからだ」
鵺が答えて言った。
「赤子の頃、俺は赤目渓谷の山中に捨て置かれていたらしい」
「父と母の間には長らく子がなかったので、鵺を連れてきた折り、我が子と思って育てることにしたのだと聞き及んでおります」
千手姫もそれに続く。
「だが、その後しばらくして千手姫様がお産まれになり、次いで亀之助様もご誕生なされた。そこで、頭領の屋敷を出たのだ」
「ご嫡男がお産まれになったとあっては、そうなるだろうなあ」
草之助の言葉に、鵺は無言で頷いた。
「随分と若いうちから一人で暮らしていたんだね」
はつが言うことに、鵺は首を振る。
「そうでもないだろう。十四と言えば、充分に一人でやっていける歳だ」
「私は、寂しく思って泣いたのを憶えています」
千手姫が照れたように笑いながら言う。
「あの頃、鵺は私にとって兄のような存在でしたから」
「勿体ないお言葉です」
答えた鵺は、はつがそれまでに見たことのない優しい表情をしていた。
「私は、屋敷を出ても一人でやっていけると思っていたのです。ですが、結局のところ頭領や奥方様の手を随分と煩わせることとなりました。この家が建ったのも頭領あればこそにございます。また、私が一人で暮らすようになってからも、奥方様は私のことを大変気にかけて下さっておりました。お二方には、感謝してもし尽くせません」
「奥方様とはどのような方なのですか?」
何気ないはつの一言が、それまでの和やかな空気を凍りつかせた。
「はつ……っ」
焦りを含んだ鵺の声がはつを制する。だが、その直後、
「よいのですよ」
千手姫が穏やかに言った。
「はつ。私の母は、亡くなったのです」
鵺が焦った理由がわかり、俄に言葉を失くしたはつに千手姫は微笑む。
「もう五年も前のことです。それに、この世は諸行無常と言うではありませんか。永久に変わらないものなどないように、生を受けたからには必ず死を受け入れねばならないのが運命。母は、人よりも早く死を受け入れたかもしれませんが、それだけをもって憐れな人生だったとは言えないでしょう?」
「ええ……そうですね。私も、そう思います」
「身内の自慢のようになってしまって申し訳ないのですが、母は短い時の中で、父と、そして私と亀之助に、真に多くのものを与えてくれました。ですから、母の死は辛いですが、あまり悲しんでもいられないのです。天にいる母に叱られてしまいそうですから」
そう言って笑う千手姫の笑顔は、強がりなどではなく、本当に母の死を受け入れているかのように穏やかなものであった。
「強いのですね」
はつの呟きに、千手姫はきょとんとした表情で小首を傾げる。そんな仕草すらも愛らしい。
「姫は、まだ……そんなにお若いのに」
言った瞬間、笑われてしまった。口元に手を当てながら、ころころと愛らしく笑う千手姫は、
「はつとて、私とさほどの違いはないのでしょう?」
と、確信めいた口調で尋ねる。
「ええ、まあ……」
曖昧に返したはつだが、そこについては特に不審がられた様子もなかった。
その後、半刻(約一時間)ほど鵺の家に滞在していた千手姫は、実にたくさんのことを語ってくれた。鵺の幼少の頃の話から始まり、草之助が里に流れ着いた時のことなど、その内容ははつにとっても興味があり、おもしろいものばかりだった。中でも驚いたのが、草之助と千手姫とが恋仲だという点である。そう思って改めて見ると、二人は本当にお似合いの恋人同士であった。
千手姫が、
「そろそろお暇を」
と立ち上がると、草之助もそれに続く。
「草之助」
突如上がった鵺の声に、草之助が振り向いた。
「あ、いや……なんでもない」
珍しく言葉を濁した鵺を見て、
「千手姫、少し待っていては頂けませんか?」
草之助がそう言い残すと、鵺とともに家の外へと出て行く。だが、それも束の間のこと。ほどなくして戻ってきた草之助は、千手姫と連れ立って帰って行った。
そんな二人の後ろ姿をしばらく見据えていた鵺だったが、思い出したかのように植え込みに向かうと、途中だった草花の手入れに取りかかったのだった。
鵺の生い立ちを知ったはつ。
千手姫に向けられた表情は、はつがいつも目にしているような、ぶっきらぼうなものではなかった。
次回、はつが頭領から鵺の話を聞きます。




