第五章 花と薬草と花言葉 ※写真付
菊乃の屋敷に出向き、小袖と大根の漬物を譲って貰った日の夕刻のこと。もうじき日が沈もうかという時分に、家の外で物音がしたような気がした。
「鵺?」
呼びかけながら戸を引く。だが、そこに鵺の姿はなく、代わりに川辺で出会ったかすみという少女が、家を出てすぐの植え込みにしゃがみ込んでいる姿を見つけた。
「……何をしているの?」
「草花の手入れだよ」
かすみはこともなげにそう言った。
「ここにある花、かすみが育てているの?」
「私が育ててるってわけじゃないよ。もともと、ここに草花を植えたのは鵺だからね」
「鵺が?」
驚きを隠せないでいるはつを横目に、かすみはわずかに口元を綻ばせた。
「そんなに意外かい?」
「まあね。だって、あの鵺が草花の世話をしているところなんて、想像できないもの」
「ここにあるのはただの草花じゃないんだよ。すべて薬になるんだ」
「ということは、薬草?」
「毒草も混ざっているけれどね」
「え……」
「たとえば、この狐の牡丹」
「キツネノボタン?」
「今は花は咲いてないけれどね。黄色の小さな花をつけるんだよ」
「名前は聞いたことがあるよ。これがそうなんだね」
「狐の牡丹はね、喉の痛みに効くらしいよ」
「へえ」
「けれど、液汁が肌につくと、赤く発泡して膿が出るんだ。だから、決して口に入れてはいけない」
「口にしないで、どうやって喉の痛みを取るの?」
「葉をね、大豆ぐらいの大きさに切って片方の手首に当てるんだ。しばらくしたら外して、発泡した箇所を湯で洗う」
「それで?」
「それだけ」
「それで、喉の痛みが治るの?」
「そうは言われているようだけれどね。私は試したことがないんだよ」
「そうなんだ。ねえ、他にはどんな薬草があるの?」
「……関心があるのかい」
「うん、少し。そういうのを考えながら花の手入れをするのは、なんだか楽しそうだなあと思ってね」
「私は、別に楽しくて手入れをしているわけじゃないんだけれどね」
そう言ったかすみの表情が、俄かに曇ったように見えた。
「……ごめん」
「何がさ」
「えっと、わからないけれど、今、少し怒ったのかと思って」
「……怒ってないよ」
その時、はつとかすみの間をそよ風が吹き抜けていった。そのあとを追うかのように、甘い香りが鼻孔をくすぐる。金木犀にも似た香りを辿って視線を動かすと、その先には一本の小高い木が佇んでいた。葉は青々としていて見るからに硬そうだ。棘の多い葉の中心には、白くて小さな実のような、あるいは花のようなものが伺える。
「あれって、もしかして柊?」
柊は金木犀と同じ、モクセイ科の植物だ。
「そうだよ。こんなに匂いが強いのに、気がつかなかったのかい」
「うん……」
「まあ、仕方ないのかもしれないね。周りのことを気にかける余裕なんて、はつにはなかったんだろうから」
「あれには、何か効能があるの?」
「さあね。強いてあげるなら、邪鬼を払うということくらいかね」
「でも、それって迷信でしょう」
「縁起を担ぐっていうのかねえ。鵺はね、そういうのをわりと好むようだよ」
それは、またも意外な鵺の一面であった。
「あ、たんぽぽ」
柊の木のすぐ根本に馴染みの花を見つけて、心持ち明るい声が出た。綿毛に混じって、一本だけいまだに黄色い花を咲かせている。
「柊やたんぽぽなんかのことは憶えているんだね」
「え、うん、そうみたい。でも、効能はよくわからないんだけれど……たんぽぽにも何かあるの?」
「あるよ。薬としては冷えに効く。あたしは、朝餉に出すけれどね」
「食べるの?」
「食べるよ」
「そうなんだ。私は、花言葉ぐらいしか知らないなあ」
「花言葉?」
「うん。たんぽぽの花言葉は『また逢う日まで』」
「……」
「あれ……?」
はつは、しまったと思ったがもう遅かった。かすみは明らかに不審の目を向けている。
「花言葉っていうものが、はつの国には伝わっているのかい」
「え、あ……うん。そうみたい。でも、それくらいしか憶えていないけれどね」
咄嗟に笑って誤魔化す。はつ自身、かなり怪しい行動だったと思ったが、意外にもかすみは何も追求してこなかった。
「花言葉か。初めて聞いたね」
「そう? もしかして、私の国独特のものなのかなあ」
「たんぽぽが『また逢う日まで』か……おもしろいね。他の言葉も、思い出したら教えておくれよ」
「うん。ところで、かすみはどうして草花の手入れをしているの?」
「どうして……?」
「うん。鵺が植えた草花を、何でかすみが手入れしているのかなあって」
「鵺の育てた植物からは学べることが多いからね」
「どういうこと?」
「たとえば、この山椒。これは、とても扱いの難しい木なのよ」
「そうなの?」
「寒さには強いけれど湿気には弱くてね。枯れやすい植物なの。けれど、鵺はこの木を上手に育て、夏の初め頃にはいつも立派な赤い実をつけさせている」
「そうなんだ。山椒も薬になるの?」
「なるよ。目によく効く。眩暈が治ったり、一日三粒食べると昼でも星が見えるなどと言う者もいるくらいよ」
「それは凄いね。もしかして、鵺は目がいいのかな」
「さあ。それはどうだろうね」
「あとは? 他には何かに効くの?」
「あとは、そうだね……もっぱんの材料になるよ」
「もっぱん?」
「いわゆる、目潰しさ。唐辛子、煙草、胡椒、山椒、砒素、煤、石灰なんかを混ぜ合わせて火薬とともに竹筒に詰めるんだ」
「なんか、涙が出てきそうだね」
「そうだよ。だから目潰しなのよ。けれど、外ではあまり使えなくてね。大体は家屋の中で使用するものなんだけれど……」
「でも、それじゃあ、使った人もその煙を浴びてしまうんじゃないのかな」
「そうなるね。だから、実際にはあまり使えない」
「へえ。それじゃ、この花は……」
「はつ」
次の花の説明を求めて身を乗り出したはつだが、それをかすみの声が制した。
「何か臭うようだよ」
言われて、はつははたと動きを止める。くんくんと周囲を嗅いでみると、確かに臭うようだ。何か、焦げついたような臭いだった。そこで、はたと気づく。
「……鍋っ」
はつは踵を返し、戸を引くと急いで家の中へと戻った。俄かに絶叫が上がる。
「はつ?」
声を聞きつけたらしいかすみが家の中に入ってくる。そこで二人が見たのは、ぐつぐつと音を立てながら囲炉裏にかけられている鍋の存在だった。
「味噌汁かい?」
かすみが尋ねた。香ばしい味噌の香りが家中に漂っている。
「そのはずだったんだけど……」
鍋を覗き込みながら肩を落とすはつを見て、かすみも鍋を覗き込んだ。
「汁がだいぶ少ないようだね」
「うん、半分ぐらいになっている……」
「とりあえず、火を止めたらどうだい」
「そ、そうだね」
水を垂らして囲炉裏の火を消し、お玉杓子をとって鍋にわずかに残った汁を掬い上げてみる。
「……焦げているね」
味噌汁を観察しながら、淡々と言い放つかすみにはつはさらに肩を落とした。
「これは食べられないよね。作り直さないと……」
そう呟いて顔を上げた時、かすみがはつの手にした杓子に口を運ぶのが見えた。
「かすみ?」
わずかに口を動かして何か考えている様子のかすみに、
「美味しい……?」
おそるおそる尋ねたはつだが、
「美味くないね」
ばっさりと切り捨てられてしまった。
「というよりも、不味いよ」
かすみの辛辣な言葉がさらに続く。
「煮詰めてしまったとか焦がしてしまったとか、そういったことを抜きにしたとしても不味いと思う。もしかして、はつは味がわからないのかい?」
「そ、そんなことないよ」
「けれど、料理の腕はなっていないようだね」
それ以上何も言い返せなくなって黙り込んだはつを前に、かすみが小袖の袖口をまくり上げる。
「具材になるようなものはあるかい?」
「え……」
「味噌汁の具材だよ」
「あ、うん。えっと、大根、里芋、ごぼう、あと葱があるよ」
「上等だね。なら、はつはそれらを切っておくれ。私が出汁を作るからさ」
「かすみが手伝ってくれるの?」
「どうやら、鍋を焦がしてしまったのは私のせいでもありそうだからね」
先程は随分と冷たいことを言うと思ったものだが、料理下手のはつに味噌汁の作り方を教えてくれるようだ。おそらく、かすみは冷たいのではなく、物事をはっきりと言い過ぎてしまうだけなのだろう。
「かすみ、ありがとう」
「うん」
そうして二人で作り上げた味噌汁は、風味豊かで、柔らかくも優しい味に仕上がった。
「美味しい……」
味をみるなり思わず呟いたはつに、かすみは微かに口元を綻ばせる。
「そうかい」
「かすみは料理が上手なんだね」
「まあ、一通りはね。幼い頃からやっているからさ」
「へえ」
「はつは料理はまったくしてこなかったようだね。もしかしたら、実はよいところの出なのかもしれないね」
それに対しては何とも言いようがなく、はつは俯くと同時にもうひと口味噌汁を口に含んだ。
だが、料理をまったくしてこなかったという点においては当たっている。はつは今まで一人暮らしなどしたこともなかったし、ずっと実家暮らしなのだ。包丁すらろくに握ったことがない。しかも、この時代にきてからは特にわからないことだらけだった。何せ、道具の使い方もよくわからず、火を起こすことからしてまったくの未経験であったのだから。
「ねえ、かすみ。また、料理のことを教えてくれないかな」
「いいよ」
「本当に? よかった」
「はつ、鵺には黙っていてもらえるかい」
「味噌汁のこと?」
「そうじゃなくて、私が草花にちょっかい出していたことだよ」
「ちょっかいって、手入れをしてくれていたのでしょう?」
「手入れなんて、たいしてしてないよ。あたしは、ただ観察していただけさ」
「観察?」
「うん。鵺が、どんなふうに育てているのかをね。見て、学ばせてもらっていたんだよ」
「そうなんだ。でも、別に隠さなくたって……」
「まあ、隠す必要はもしかしたらないのかもしれないけれどね。でも、なんとなくね、鵺には言わない方がいいような気がするんだ」
「ふうん」
「その代わり、あとで私のもあげるよ」
「何を?」
「小袖。浅葱と菊乃から貰ったんだろう? もう一枚ぐらいあった方がいいだろうからね」
「いいの?」
「浅葱や菊乃みたいな上物ではないけれどね。私の母の物なんだけれど、私には大きくて合わないから」
「かすみの、お母さん?」
「うん。昔、流行り病で亡くなったのよ」
「え……。そんなの、貰えないよ。かすみはまだ成長途中なんだし、もっと大きくなってから着たらいいじゃない」
「……いいんだよ」
「どうして……」
「今、必要としている者の手に渡った方がいいじゃないか。母もね、きっとそう言うと思う」
「……ありがとう。かすみ、大切にするよ」
はつがそう言うと、かすみはわずかに口元を緩めて微笑む。
そうして、日が暮れた頃にかすみは帰って行き、入れ替わるかのように鵺が戻ってきた。
家に入るや否や、鵺はその様子に目を丸くする。この七日ばかり、一汁一菜という質素な食事風景であったのだが、この日はもう二品ほど多かった。菊乃からもらった漬物にかすみと作った味噌汁。あとの二品は、煮物と山菜の和え物であったが、いずれも「ついでだから」とかすみが作っていってくれたものであった。
「この漬物は菊乃に貰ったんだよ。それと、他の物はかすみと一緒に作ったんだ」
「そういうことか。かすみが作ったのだな」
「一応、一緒に作ったのだけれど……」
「お前は作れないだろう」
ぐっと言葉を呑む。料理の話では責められるような気がして、はつは半ば無理矢理に話題の方向を変えた。
「かすみって凄いね。あんなに若いのに、料理も洗濯も手際がいいんだもの」
「……そうだな。昔は、そうでもなかったと思ったが」
「そうなの? 鵺は、かすみを昔から知っているんだね」
「まあ、かすみはこの里の出自だから、多少はな」
「なら、かすみがいくつなのかもわかる?」
「は?」
「年齢だよ」
「そんなことが気になるのか」
ここではつは、ずっと気になっていた浅葱たち三人の年齢を知ることができた。二十代前半から半ばぐらいに見えた浅葱と菊乃だが、浅葱は十九、菊乃は十八だという。かすみに至っては、まだ十六だとのことだ。しっかりとしたかすみを考えるに、三十路の己の不甲斐なさが恥ずかしくなる。
俄に俯くはつに、
「また、小袖が増えているな」
と、室の隅に置かれた梔子色と萌黄色の小袖を見て鵺が言った。
「それは、菊乃とかすみのか」
「うん」
「早くも里に馴染んだものだな」
「みんなよくしてくれるからね」
「あまり気を許さないことだ」
「どういうこと?」
「お前は、里の者に襲われかけたのをもう忘れたのか?」
「……」
「俺を貶めようとする里人は多い。お前を狙ってくる里人は他にもいるかもしれない」
それは、はつもこの七日の間に感じてはいた。どうやら、里の中での鵺の立ち位置はあまりよいものではないらしい。
それについてもう少し深く尋ねたいと思ったのだが、その時、鵺が味噌汁を啜った。その一瞬、普段の不愛想な表情が少しばかり和らいだのを見て、つい思いとどまってしまう。
――今は、まだ聞かなくてもいいかな。
そう思いながら、はつは湯気を立ち昇らせる味噌汁の椀を持ち上げると、それに口をつけたのだった。
浅葱、菊乃、かすみの三人から小袖をもらったはつ。
これからはつは、この三人と深い繋がりを持つようになる。
次回からは、第三部に突入します!




