第四章 初めての畑仕事と大根の漬物 ※写真付
「それはどうしたのだ?」
朝餉の時刻に帰ってきた鵺が、はつの姿を訝しんだ。
「昨日、浅葱に貰ったんだ」
答えるはつは、嬉しそうに浅葱色の小袖を見せる。
「ちょうどね、捨てようと思っていたんだって」
「……」
「でも、見たところ、解れたり破けたりしているわけでもないんだよね。サイズが合わなくなったのかな」
「……」
「あ、大きさね。大きさが合わなくなったのかなあって……」
「はつ」
「え、なに?」
「その小袖、大切にしてやれ」
「……うん」
「それからな、もう少しどうにかならないのか」
「え……?」
「着付けのことだ。それでは、少し動いただけで開けるぞ」
実際、鵺に小袖を見せるためにその場をひと回りしただけで、布地が上へ上へと上がってきて胸元が開き始めていた。それに気づいたはつが、咄嗟に胸元を隠す。鵺の溜め息が耳に痛い。
「記憶を失くすとは、そういうことまで忘れてしまうものなのか」
「……」
再び溜め息が聞こえた。それとほぼ同時に、伸びてきた手がはつの小袖の襟を正す。持ち上がってしまった裾を引き、襟が開けないように片手で押さえると、もう片方の手で手早く帯を締め直した。と、その時である。
「鵺、いるか」
戸が引かれた。突然のことに、はつも鵺も戸の向こうに目を向けることしかできない。入ってきた草之助は、中の二人の様子にしばし目を丸くしていたが、何やら逡巡したあとに口を開く。
「……邪魔したか?」
はつの帯に手をかけていた鵺が、それから手を離すとその手を額へと押し当てた。
「……何のことだ」
ぎろりと睨まれた草之助は、慌てて両手を振る。
「冗談だ。そう怒るな」
鵺はそれには返すことなく、はつと草之助を残して家を出て行ってしまった。
「鵺、怒ったのかな……」
はつが呟くと、草之助が苦笑を浮かべる。
「鵺は鉄のような男だからなあ」
「鉄?」
「熱しやすく冷めやすい。そして、頑固者」
「はあ」
「まあ、そのうち戻ってくるだろう」
「ところで、草之助は鵺に用があったの?」
「ああ、手合わせでもしないかと思ってな」
「手合わせ?」
「戦の勘を忘れないためにな、時折やっているのだ」
「ふうん」
「それにしてもはつ、よい小袖を着ているな」
「うん。昨日、浅葱から貰ったんだ」
「そうか。似合っているぞ」
「ありがとう」
草之助のこういうところはさすがだと、はつは感心した。女心に無頓着な鵺にも、多少なりとも見習って欲しいところである。また、この一週間ばかり見ていて気づいたことには、草之助は女だけではなく、人の心を和ませる術に長けているように思えた。
――そう言えば、昔『正忍記』という本を読んだなあ。
中学生の頃のことだ。はつは、歴史好きの祖父の家で『正忍記』という本を目にしたことがあった。それは、藤林保義の『萬川集海』、服部半蔵の『忍秘伝』と並び、日本三大忍術の秘伝書のひとつと言われているものである。ぱらぱらと捲って読んだ中に、「古法十忍」という忍術の基本とされるものが記されていた。はつは、その箇所に興味を持って熟読したのだ。
草之助を見ていると、その中の「順忍」にあたるように思われた。順忍とは、常に人に随い、人を破らない者のことである。相手には逆らわず、下手に出て油断を誘い、情報を収集したり仕かけたりする忍びである。
古法十忍について読んだ時、はつはこの順忍が最も恐ろしい存在のように思ったものだった。
「さて、鵺がいないのでは仕方ないな」
「もう行くの?」
「ああ。はつも、どこかへ行くつもりだったのだろう」
「え、わかるの?」
「なんとなく、というやつだがな」
「うん。出かけようと思っていたところだよ」
「そうか。では、またな。はつ」
草之助が去って間もなく、はつも外に出た。
はつは、里の中心に向かっていた。何か目的があったわけではない。だが、いつまでも、里人と関わるのを怖がってひっそりと暮らしているわけにもいかないように思えたのだ。
「私にできることって、何かないのかなあ」
里のためになるようなことを何かできれば、里人の警戒心がわずかにでも薄れてくれるのではないだろうか。そんなことに考えを巡らせながら歩いていると、ふと目の端に引っかかるものがあった。それは、一枚の畑だ。青々としたふさふさの葉が、綺麗に整列している。
「何を植えているのだろう」
近くに寄ってじっくりと観察する。葉の根本には、まだ青みを帯びたものがついていた。
「蕪……。いや、あれは、大根かな」
まだ収穫時期ではないのだろう。頭の青い大根が、風が吹くたびにその青々とした髪の毛を一斉に靡かせるのが、とても美しかった。
ふと、ひょこりと出た雑草に気づく。それを、気まぐれにひとつ抜いてやることにした。もうひとつ見つけた。その向こうにもある。よく手入れされているように見えたが、よくよく眺めてみるとあちらこちらに雑草が散りばめられているようだ。
はつは小袖の裾を捲り上げ、畑の中へと足を踏み入れる。そして、腰を据えると、雑草取りに夢中になったのだった。
どれほど経ったろうか。右手はすっかり泥だらけとなり、額には汗の粒が浮かび、すうっと蟀谷を滴り落ちていく。
はつは、固まった膝と腰を伸ばすために立ち上がった。汚れていない左手を腰に当て、天を仰ぐように腰を伸ばしながら流れゆく白い雲を見つめる。そよそよとした風が吹き抜けた。汗ばんだ肌に、それはとても心地のよいものであった。
「そこで何してるんだいっ」
それは唐突だった。突然に現実へと立ち返らされたような気分で、はつは声の方へと視線を向ける。
「菊乃」
「何をしているかって聞いてるんだよ」
「えっと、畑の雑草取り」
「は? なぜ」
「なぜって、雑草が生えていたから。つい」
菊乃は、畑の中に入ってくると、はつの腕をむんずと掴んで何も言わずに畑の外へと連れ出した。その後、畑の中を熱心に見て回っている。ひと通り畑を見終えた菊乃は、それを呆然と見つめているはつの所にきて言った。
「あんた、ここで何をしていたんだい。言ってみな」
「え、だから、雑草を取っていただけだよ」
「なんで、人の畑の雑草を取ってやろうなんて思ったんだい」
「それは、綺麗だなって思ったから」
「なんだって?」
「青々とした葉っぱがみんな綺麗に並んでいて、風にそよいでいた。陽の光を受けてきらきら輝いて見えて、とても美しいと思ったんだ。そうしたら雑草が気になってしまって、それを抜いたらもっと美しくなるかなって思った……ただ、それだけなんだよ」
「あんたの言うことは、いつもよくわからないね。あたしはてっきり、毒でも仕込んでいるんじゃないかと思ったんだけどね」
「え、毒……? 待ってよ。私、そんなことしていない」
「そのようだね。見た限りでは、そんな形跡は見当たらなかったからね」
菊乃は、取り残した雑草をひと摘まみすると、そっと引き抜いた。
「この畑は菊乃のものなの?」
「そうだよ。もうじき収穫の時期だからね。悪さでもされたらと思ってひやひやしたよ」
「そうか。勝手なことをしたみたいで、悪かったね」
「……ついておいで」
そう言うと、菊乃はすたすたと歩いて行く。その背をしばらく見つめて思案していたはつだったが、特にすることも思いつかない。そこで、菊乃の言葉に従いその背を追い駆けたのだった。
連れてこられたのは、鵺の家とは比較になるべくもなく大きな家だ。頭領の屋敷までとはいかないが、充分に屋敷と呼べる広さを持っていた。敷地の中に、離れ家や庵までが据えられている。案内された縁側から臨む日本庭園は、枯山水という様式であった。飾り気のないさっぱりとした雰囲気が心を落ち着かせてくれるようで、はつは好みであると感じていた。
はつを縁側に通すと、一度奥に引っ込んだ菊乃が小皿を手に戻ってくる。
「ほら、食べてごらん」
差し出されたのは、透き通るように白く輝く大根の漬物だった。
「あたしが育てた大根を、あたしが漬けたものだよ」
「綺麗だね」
「見た目だけじゃないよ。味だってどこの大根にも負けやしないんだから」
はつはくすりと笑うと、左手で一枚摘まんで口に放り込んだ。ほのかな甘みと酸味が口の中に広がっていく。
「美味しい」
それは、心から出た言葉だった。それを聞くと、菊乃も口元を綻ばせる。
「全部食べていいよ。なんならお代わりもあるからね」
「ありがとう」
はつは、さらに一枚、摘まんでは口に放り込む。ぱりぽりという小気味よい音が響いた。
「なあ、はつ」
菊乃が白湯を淹れてくれながら言う。
「その小袖さ」
「うん?」
「それで畑仕事のようなことをするのは、ちょっといただけないね」
「どういうこと?」
「汚れるじゃないか」
「……?」
「その小袖、汚して欲しくないんだよ」
「ああ……そうだね。折角、浅葱がくれたものだものね」
菊乃は、はつの傍に白湯の入った椀を置くと、
「待ってな」
そう言い残して再び奥へと引っ込んだ。間もなく戻ってくると、白湯を啜るはつに梔子色の小袖を広げて見せる。
「どうだい?」
「美しい小袖だね」
「そうかい。なら、あげるよ」
「くれるの?」
「ああ。その小袖一枚だけじゃ大変だろう? それにさ、その小袖は大切に着てやって欲しいんだよ」
「鵺もそんなことを言っていたけれど、この小袖に何かあるの?」
「まあ、ちょっとね」
「……」
「この小袖は安物だけどさ、どこも傷んでない上物だよ。畑の手入れをしてくれた礼も兼ねて、あげるよ」
「ありがとう、菊乃。それなら、その、ついでに教えて欲しいことがあるのだけれど……」
そうして、はつは菊乃から小袖の着付けについて教わった。初めは盛大に呆れて見せた菊乃であったが、教え方は実に細やかで丁寧なものであった。幼い妹がいるらしいのだが、菊乃は元来、面倒見のよい性分なのかもしれない。
「この漬物、本当に美味しいよ」
着付けを教わって再び一服に入る。大根の漬物をぱりぽりと齧りながら言うと、気をよくしたのか、菊乃が丼一杯にそれを詰めてくれた。
「持っていきな」
「こんなに?」
「本当は鵺の所になんか持たせたくないんだけれどね」
「鵺のこと、嫌いなの?」
「ああ、嫌いだね」
鵺は確かに好かれる性分ではないと思うのだが、ここまで嫌われるものであろうか。はつには、そこについてはまだわからないことが多い。だが、折角菊乃とよい雰囲気を作れたというのに、鵺のことでそれを壊したくはなかった。だから、はつは鵺のことについてはそれ以降口を噤む。
「はつ、あんたが間者でないというなら、もう疑いを招くような余計なことはしないことだね」
「余計なこと……?」
「畑の手入れをしてみたり、さ。あたしみたいに、毒を撒いているのかなんて勘違いする奴もいるだろうから」
「……そうだね。もう余計なことはしないようにするよ」
「まあ、畑仕事がしたくなったなら、その畑の持ち主に一声かけてからやるようにするんだね。あたしの所なら、声をかけてくれればいつでも歓迎するよ」
「その時は宜しくね」
はつは、菊乃に手を振って別れた。そして、家路を急ぐ。日光のように温かみのある梔子色の小袖と、丼の中で白く輝く大根の漬物とを両手に携えながら。
浅葱に次いで菊乃とも、ほんの少しだけ距離を縮めることができたはつ。
次回は、かすみと花や薬草について語り合います。




