第二章 井戸端の攻防戦 ※写真付
鵺との同居を余儀なくされた翌日のこと、はつが目を覚ますと鵺の姿がなかった。はつは、昨夜から鵺を見ていない。夕餉をともにしたのちすぐに姿を晦ませた鵺だが、はつが床に就く頃になっても帰ってこなかったのだ。
「遅く帰ってきて、早くに出かけたのかな……」
一人呟きながら布団から抜け出す。きしきしと痛む背を擦りながら立ち上がった。その足で土間に下り、水瓶を覗き込む。
「……顔を洗ったら終わりだね、これは」
瓶の底では、薄く張られた水がわずかに揺れていた。とりあえず顔を洗う。それから辺りを見回した。すぐ近くに桶がある。これを使い、水を汲んでくるのだろう。昨日、頭領の屋敷に向かう途中に井戸を見た気がする。
「……あそこ以外にはないのかな」
井戸まではだいぶ距離があった。鵺の家は、里の奥の奥……多くの里人らの家から離れた所に建っている。井戸は、里人の家が建ち並ぶほぼ中央にあり、はつの足では四半刻(約三十分)ほども歩かねばならなかった。
飲み水にしても食事にしても、また風呂にしても、すべてに水が要る。はつは、二本の水桶を両手に持つと、意を決して鵺の家をあとにしたのだった。
井戸端に着いた頃、体がじんわりと汗ばんでいるのを感じた。
――運動不足かなあ……。
そう思いながら両手に持った水桶を下ろす。
「これが井戸か……」
呟きながら、初めて見る釣瓶を井戸の中に放り込んだ。上部にある滑車を通して張られた綱を、力一杯に引く。想像以上の重さに、ひと引きで手が痺れる思いだった。だが、少しでも力を抜けば、釣瓶はまた井戸の中へと戻ってしまう。はつは、渾身の力でもって綱を引いた。
いくたびか引き、水を一杯に張った釣瓶が暗い井戸の中から顔を覗かせる。はつは最後の力を振り絞るように、左手で綱を引き、右手で釣瓶を引き寄せた。井戸の縁に釣瓶を置くと、ぱしゃりと水飛沫が上がって足元を濡らす。しかし、はつはまったく気になどならない。初めてのことをやり遂げたという、久しく感じたことのない達成感に満たされていたのだ。
釣瓶に張られた水を、持参した水桶に移す。そして、再び釣瓶を井戸の中へと放り込んだ。
二度目は、最初よりも楽にことが運んだ。二本の水桶を一杯にすると、額から汗が流れ落ちる。そこで、ふと気づいた。
――持って行けるかな……。
水桶一杯に張られた水。それが二本もある。まず、一本の水桶を持ってみた。尋常でなく重い。これを二本持ち、なおかつ、歩いて鵺の家まで戻るのはとても無理なことのように思えた。
――一本ずつにしようかな。
それでも充分に重いのだが、二本よりはよいだろうと一本の水桶に手をかける。その時だった。どこからか飛んできた何かが、はつが手にしようとしていた水桶を直撃したのである。
鵺は、土間に置かれた水瓶を前に考えていた。もともと少なくなってはいたが、瓶の中の水が昨夜よりも減っている気がする。それに加えて、水瓶の近くに置いていたはずの水桶が二本ともなくなっていた。また、はつの姿も見当たらない。
鵺はひとつの結論を出すと、溜め息を漏らしつつ引き戸に手をかける。その瞬間、妙な気配を感じて引くのを躊躇った。だが、すぐにその気配の正体に気づき、一気に戸を開け放つ。
戸の向こうに立っていたのは、艶やかな黒髪をひとつに結わえた、細くしなやかな体つきの女である。切れ長の目が印象的だ。
「何か用か、桔梗」
尋ねると、桔梗と呼ばれた女は、まるで花が綻ぶような微笑を湛える。
「朝早くに邪魔をしてすまないね、鵺」
「用件は何だ」
「あんたが目付を任された娘のことでね」
「……何があった」
「井戸の所で見かけたよ」
「ああ、水桶がなくなっていたからな。水を汲みに行ったのだろう」
「一人にしていいのかい」
「俺も今から行くところだ」
「なら、早く行った方がいいよ」
「……なぜだ」
「里人の多くはその娘を受け入れていない。みな、頭領の言葉に一応は従っているというだけのこと。一人になった娘を見たら、過激な者たちがどう出るかわからないよ」
「あの者を生かしたのは頭領だ。それに逆らうと言うのか」
「頭領は、娘を生かすも殺すも言ってないだろう? ただ、一応の決定として、鵺を娘の目付に据えただけさ。それは、娘に勝手な真似をさせないためなのだろうね」
「それは、俺もわかっている」
「それともうひとつ、娘の身を守らせるためでもあると私は思っているよ」
「……」
「もしも娘が死ぬことがあったとしたら……」
「おそらく、俺も罰せられるだろうな。それを狙う者がはつを屠ろうとするかもしれないと、そういうことか」
鵺は家の敷居を跨いで外に出ると、後ろ手に戸を閉めた。
「桔梗、すまないな」
「何がだい」
「知らせてくれたことに対して、だ」
「なら、違うんじゃないのかねえ。こういう時は、謝るのではなく、礼を言うものだよ」
「……ありがたい。感謝する」
桔梗はふと笑う。
「いや、いいよ。礼は要らない。ただ、私の望みも聞いて欲しくてね」
「望み?」
「浅葱のことさ」
桔梗は鵺へと向き直る。まっすぐに鵺を見据えて言った。
「鵺、妹を許しておくれ」
「……」
「左ノ助の死から、浅葱はまだ立ち直れていないようでね」
「ああ……」
「左ノ助と浅葱……あの二人は、仲がよすぎたのかもしれない」
「兄妹仲がよいことに、過ぎるということがあるのか」
「さあ。どうだろうね」
「桔梗。お前が何を気にしているかは知らないが、俺はもとより、浅葱に対して何も思うところはない」
「そうかい。それならば、よいのだけれどね」
「……」
「そうそう。はつという娘だけどね、井戸端で里の者らに絡まれていたよ」
「何だと。それを早く言え」
鵺は口早に話を切り上げると、急ぎ井戸端へと向かったのだった。
倒れた桶からは迸るように水が零れ、足元には俄かに水溜まりができていた。何が起こったかわからず、倒れた水桶を呆然と見つめていたはつ。その目に入ったのは、水桶に穴を開けた四方に刃を持つ平たい鉄の塊……四方手裏剣である。
「おい」
背後から声をかけられ、振り向くとほぼ同時に周りをぐるりと囲まれた。見覚えのない四人の女が、はつを睨みつけるように見据えている。
「お前だね。鵺が連れてきたという女は」
「見るからに怪しいね」
「目的は何だい」
「答えなよ。あんたが山の中をうろついていた事情を聞いているのさ」
口々に女たちがまくし立てる。あまりにも突然のことに、はつは女たちの表情を目で追うのがやっとだった。
「答えられないのかい」
「やはり、あんたは間者……」
表情が一斉に険しさを増す。一人が懐に手を差し入れるのを見て、他の女たちも小柄や懐剣、苦無などの得物を手に、はつへとにじり寄った。
「ま、待って……」
喉の奥に張りつくような、かすれた声がはつの口から漏れる。だが、女たちが動きを止める気配はない。何もできずにただ身を竦めて構えたはつだったが、その耳に、
「やめなっ」
と鋭い声が届いた。それと同時に姿を見せたのは、日に焼けたように赤みがかった、癖の強い髪を靡かせた若い女だ。浅葱である。浅葱は、はつを背に庇うように女たちの前に立ちはだかった。
「あんたたち、一体何をしようってんだい」
「浅葱っ。あんた、そんな余所者を庇おうっていうのかい」
女の一人が喚く。
「誰が庇ったりするものか。あたしは余所者が嫌いなんだ」
「じゃあ、そこをどきなよ」
「けれど、同じ里の者が罰せられるのを見過ごすのは気分がよくないからね」
「どういうことだい」
「わからないのかい? あたしが庇ってやっているのは、あんたたちの方なんだよ。この女のことは鵺の預かりとすると、頭領は確かにそう仰った。それを、あんたたちが早まって手にかけたとしたら、どうなると思う」
それを聞き、女が黙った。すると、脇から別の女が口を挟む。
「鵺が罰せられるだけじゃないのかい。こいつが死んだなら、それは鵺が目付としての役目を怠ったということで収まると思うけどね」
「本当に、それだけで終わると思うのかい」
浅葱に凄まれると、その女も押し黙るしかなかった。
「何だい、組頭の娘だからって……」
さらに別の女が呟く。
「あんたなんか、たいした腕もないくせにさ。呼ばれてもないのに、組頭についていつも評議の場に出向いて……家柄だけの小娘が、あたしらを庇ってやっているだって? 思い上がりも大概にしなよっ」
言うが早いか、女が浅葱の首筋を目がけて苦無を伸ばした。
「やめな……っ」
女の傍らから別の女が制止の声を上げたが、伸ばした苦無は今にも浅葱の首筋に届こうとしていた。
ばきっと、俄かに鈍い音が上がる。それと同時に、みなの視線が一斉にはつへと向けられた。
「や、やめて……っ」
はつは、水を滴らせた桶を手に、女の繰り出した苦無が浅葱に届く寸でのところで受け止めていたのだ。木片を浴びながら声を張るはつに一同が驚愕していると、
「何をしている」
男の声が聞こえた。はつが振り向く。そこにいたのは鵺だった。鵺は、女たちが手にしているものを瞬時に見て取り、
「お前たち、里での私闘は……」
と口を開く。だが、それに被せるように、浅葱を襲った女が苛立ち紛れに言い放った。
「わかっているよっ」
女が苦無を収める。それを見た他の女たちも、それぞれに得物を収めた。そして、きた時と同じように、音もなくその姿を眩ませたのだった。
呆気に取られていたはつは、視線を感じてそちらを向く。浅葱だ。浅葱が、睨むようにはつを見つめていたのだ。
「あの、浅葱……」
「あんた、やはりどこかの忍びなのかい」
「え……?」
「今のさ、忍びの速さについてこれるなんて、忍びじゃなかったら何だって言うんだい」
「私は、ただ、浅葱が危ないと思ったから……」
「わけがわからないね。あたしが危なかろうが、あんたには関係ないだろうに」
「浅葱はそんなつもりなかったかもしれないけれど、私は浅葱がきてくれて助かったと思っているもの。だから、危ないと思ったから、つい体が動いてしまっただけなの」
浅葱の訝しむような表情は変わらない。だが、溜め息混じりに顔を背けると言った。
「あんたが間者じゃないと言うなら、もう二度とあんな真似はしないことだね。あんた、確実に疑いを増したよ」
それから、浅葱は鵺を睨みつける。
「お前は、頭領から目付を言い渡されていながら、今までどこに行ってたんだい?」
「……」
「目付なら目付らしく、しっかりと面倒を見てやるんだね」
そう言い残すと、浅葱も去って行った。鵺は、一人になったはつのもとへと歩み寄り、はつが握りしめるように手にしている水桶を取り上げる。底の真ん中に大きな穴が開いていた。
「お前は……」
「わからないのっ」
鵺が何かを言うよりも先に、はつは叫んだ。
「私、本当に体が勝手に動いてしまって……。そしたら、たまたま女の人の武器がその桶に当たったってだけなの」
はつにとって、それは事実であった。苦無を持つ女の動きが見えていたわけではない。ただ、浅葱が危ないと思った刹那、体が勝手に動いたのだ。これは、最早勘に近いようなものだ。どうしてそういうふうに動けたかなどと、説明のつけようもないことであった。
はつの必死さが伝わったのか、鵺はそれについてはもう何も言わなかった。ただ、
「これはもう使えないな」
そう呟くと、水が一杯に張られたもう一本の水桶を片手で軽々と持ち上げる。
「鵺、私が持つよ」
「お前では無理だ」
はつの言葉を鵺が一蹴する。
「そんなことないよ。私だってやれる」
「お前の腕の筋肉のつき方を見ればわかる。その細腕では、瓶を一杯にする前に日が暮れるだろう」
そう言われてしまえば、はつも言葉を呑むしかなかった。
「水を汲むのは俺がやる。お前は、壊れた水桶を修繕しておけ」
「水桶の修繕……」
「やり方は教えてやる」
そうして、水を一滴も零すことなく軽快に歩いて行く鵺の背を、はつは小走りで追ったのだった。
はつの咄嗟の行動に不信感を募らせる里人たち。
だが、誰よりも驚いているのは、実ははつ自身なのだった。
次回も女たちの話です。




