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「ほれ、河村ちゃん、おいでおいで。飴ちゃんあげる。飴ちゃん」

「アケさん。もう八十に近い爺さんに、ちゃんはなかろうが」

「なに言いよるん。河村ちゃんなんて、ウチに比べたらまだまだヤングマンじゃないの。ほれ、手え出しんしゃい」

「いや、飴はええよ。子供がきたときにやってくれや」

「そんなこと言うもんじゃないがよ。あげる、言われたら、ありがとさん、言うて気持ちよう受け取らんと、あげる方も気持ち悪かろうがい」

 アケさんと呼ばれる女性は豊の手を握り締め、二つの飴を手渡した。

 アケさんは御歳九十。車椅子に乗っているが、とにかく元気で喋りだしたら止まらない。

 性格は名前のとおり明朗そのもの。みんながアケさんと呼んでいるが、豊は本名を知らない。アケさんはなぜか豊を可愛がって、ことあるごとにお菓子をくれるのだった。

 最近、なぜか豊は政治や社会に興味がなくなった。齢をとって思考力が衰えたということもあるだろう。だが、憩いの家で多くの人たちと関わり、頼り、頼られるうちに、どうでもよくなった。テレビで汚職や背任のニュースを見ても、腹も立たなくなった。それを豊は老いと感じた。自分が特に変わったのではなく、齢を重ねれば皆、こうなるものなのだろう、と。

 半年ほど前、娘の彩子も訪ねてきた。自宅に行っても留守だったので、憩いの家にやってきたのだ。豊と再会した彩子は少し老け込んでいたが、娘をなくしたショックからも幾分立ち直り、今、仕事場の同僚の男性といい関係を築いていると言った。でも、結婚まではさすがに行かないかな、とも言った。豊は彩子に幸せになれることを祈っていると伝えた。それから彩子は憩いの家に預けられた子供達と少し遊んで帰っていった。娘の鞠を思い出したのだろうか。その幸せそうな、しかし少し儚げな、娘の横顔が豊は辛かった。

「それでね、その時旦那がガバーと、私を抱きしめてきたがよ。メリケンさんがジープに乗ってきとるときによ。その時、私ゃ不謹慎にも、ああ、この人に抱かれたいわぁ、って、ドキドキしとった。もう、いややあ」

 アケさんの昔話は止まるところを知らない。それが過去への恨みや悔恨ではなく、幸せな思い出として語るので聞いていて全く苦にならない。むしろ愉快だった。豊は目を細め、うん、うん、と、適当に相槌を打つので、アケさんもますます豊を離さないのだろう。

 あの事故を起してから、豊は思いもかけず人生の終盤に来て、今までなかったほどの穏やかな日々を送っていた。ここにいれば将来に不安を感じることはない。とり残されたと焦燥に駆られることも、他者と自分を比較して、格差に嫉妬することもない。

 ここには労働があり、報酬があり、交流がある。豊が退職してから、久しく触れていなかったものだった。施設の性質上、顔馴染みが次々といなくなることも珍しくはない。それでもここに集まる人たちは卒業と言って、いなくなった人たちを祝福して送り出した。豊もいつか卒業し、祝福されながら旅立ちたいと思ったものだった。

 毎日が充実していた。だが、それも長くは続かないだろうという予感もあった。

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