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その後も魚沼は口汚く増井を罵り続け、ときに矛先は増井とはまったく関係のない世間や社会にも向けられた。豊は途中で口を差し挟むことも許されず、延々と魚沼の恨み言を聞かされ続けた。
結局、一時間あまりも魚沼は毒を吐き続けただろうか。言うこともなくなったのか、俯いて黙り込んでしまった。それでも魚沼の目にはまだ狂気が宿り、興奮冷めやらぬといった風だ。部屋の中に気まずい沈黙が続く。豊はこの沈黙に耐えられず、なにか語ろうと思ったが、なにを言えばいいか分からない。
すると、魚沼はふいと席を立ち、さっさとふすまを開け、薄暗い寝室らしき部屋に入るとふすまを閉めた。なんのことやらさっぱり分からない豊だったが、ふすまの向こうで電気をつける音、次いでなにかゴソゴソと物色する音が聞こえ始め、魚沼はなにか見せたい物でもあるのだろうなと思ったが、それがなにかは見当もつかない。
部屋に一人、放置された豊の元に魚沼が戻ったのはものの数分。魚沼の手には膨らみのある茶封筒があった。魚沼は座るとその茶封筒を飯台に置いた。封筒の中身は現金でも入っていそうな雰囲気だが、なにがなにやらさっぱり分からない。
「豊さん。なにも言わず、受け取って下さい」
魚沼は封筒を豊の前に差し出した。わけも分からず豊は封筒を手に取り、口を開け中身を覗いた。予想したとおり、中は現金だった。段差があるのですべてが万札ではなく、千円や五千円札も混じっていそうだ。あと、袋の底に小銭も少々、入っている。ざっと見て百万あるかないか。豊は暗澹たる気持ちになった。これは手切れ金ということなのだろうか。この金を渡して、魚沼はなにかの踏ん切りをつけ、豊とは縁を切ってしまうつもりなのか。そんな考えが漠然と浮かんだ。
「淀水ちゃん……これは?」
「今の私に用意できる、精一杯のお金です。いえ、こんなお金でどうにかなるとは私も思ってません。ただ、豊さんに受け取って欲しいんです。私の、ほぼ全財産ですから」
「いや、だから教えてくれや。そんなものを俺に渡して、俺にどうせい、言うんぞ」
「私、嬉しかった。豊さんが私の話を黙って聞いてくれて。普通の人なら途中で私の話を遮って、そんなことを言うもんじゃないとか、常識がないとかお説教をするんでしょうね。でも、豊さんはそんなことはしなかった。私が思ったとおり、豊さんはそんなつまらない人じゃなかった。やっぱり私にも、少しは人を見る目があったんだって」
魚沼の表情は幾分、穏やかになり、豊と目は合わせなかったが、微笑を浮かべて穏やかに語り始めた。だが、それが現金を受け取ることとどう繋がるのか。やはりこの女は少し頭がおかしいのだろうか。豊に疑念が湧く。
すると再び魚沼は視線を飯台に落とし、険しい顔つきになった。
「豊さん、以前言ってましたよね。いじめるような奴はいじめ返せって。いえ、確かに言った。言いました」
豊はまたもその気迫に面くらい、思い出したように頷くしかできない。
「あ、ああ。確かに言うた。言うたが、あれはそのう……」
豊はしどろもどろで弁解しようとしたが、魚沼が遮る。
「私も同感です。いえ、言われるまでもなく、ずっとそう思ってきました。なにも私に限った話じゃないでしょう。人は誰しも、やられたことはやり返したいはずです。それをしないのはしないんじゃなくて、できないだけなんです。私もそうです。できるものならやり返したい。私をこんな境遇にまで追い込んだ奴らに、同じ思いを味わわせてやりたい。許すことなんて絶対できない。私は異常じゃない。みんな同じです。私の言ってるのは、至極当たり前のことなんです。豊さん。私、間違ってますか? 私の言ってること、どこかおかしいですか?」
魚沼はまた豊を睨みつけた。その目には有無を言わさぬ意志が宿っている。否定でもしようものなら、なにをしでかすか分からない気配があった。
自分は間違っていない。そう断言できる者は大抵大きな間違いを犯している。豊はこのとき、そんな真理に気付いた。




