表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
61/83

61

「豊さんには知られたくなかったけど、昔、彼と付き合ってたんです。二十歳の頃、働いていたお店で彼に声を掛けられて、それでその時は大好きになって、あの頃は幸せでした。うわべだけの幸せだったけど、そうだと分かっていても、向こうは遊びだって知ってても、それでいいやって思ってたんです。本当、悪いことってできませんね」

 自分も魚沼に嘘をついていたが、魚沼はもっと後ろめたい気持ちがあったのか。そんなことを考えつつ、豊は紅茶をひと口飲んだ。

「私、彼と不倫してたんです。彼が独身じゃないってことは薄々感づいてたけど、その時は彼が大好きで、嫌われたくなかったから、気付かないフリしてやり過ごしてたんです。でも、一年も付き合ってると彼の奥さんに会ってしまうこともありますよね。私はそれでもいいって思ってたんです。でも彼、もう結婚生活は破綻している。離婚に向けて協議してる、なんて言うんです。不倫相手への常套句ですよね。そんなことは分かってたけど、馬鹿だから一パーセント以下でも、彼と結婚できるかも、とか思っちゃうんですよね。今考えればそんなことあるわけないって普通に思うんですけどね。やっぱり、引きました?」

 魚沼の言う引く、という言葉の使いどころは知らないが、あまりいい意味ではないことは分かる。豊はいや、と、軽く首を振るだけだった。

「やっぱり豊さんは優しいですね。でも私って、そこまで優しくされる価値もないんですよ。三人も赤ちゃん、堕ろしましたから」

 そんな気もしていたが、実際に聞くとさすがにショックを受けた。

「最初に妊娠したときは私も困ったし、彼も今だけはやめてくれ。今子供が出来たら離婚協議が不利になる、とか、もっともらしいこと言って、結局堕ろしたんです。協議なんかしてないのは私にも分かってたけど、彼と別れることの方がずっと受け入れられなかったんですよね。お金ももらってたし、デートもできたし。今考えれば最低なんですけどね。で、一年も経たないうちにまた妊娠して、また堕ろして、三度目の中絶の後、お医者さんにもう産むのは無理だって言われました。そのときになって、やっと自分の馬鹿さ加減に気付いたんです。人並みの結婚すらできない体になって、今までの幸せはただの思い込みだったんだって」

 魚沼は俯いたまま。その表情は豊からはうかがい知れなかった。

「以前、豊さん言ってましたよね。ちゃらちゃらした男が女を泣かせる。そんな男を相手にする女も見る目がない。全くそのとおりです。正論過ぎて、私みたいな馬鹿な女には言い訳さえできません」

「いや、あれは、その……」

「でも、少し、言い訳させてください。私みたいな馬鹿な女は、本当の幸せなんか得られなくってもいいって思ってしまうんです。そんなものは手が届かないって分かってるから。思い込みの幸せでも、短い間の夢でも、それで妥協して、嘘の幸せで自分をごまかしてでもいないと、寂しくってやってられないんです」

 豊には気の利いた慰めの言葉も浮かばなかった。まさか魚沼に虫が付かないように言った言葉が魚沼を追い詰めていたとは。なぜ、自分の言動はいつも裏目を引いてしまうのか。

 魚沼が不倫していようが、子供を産めない体だろうが、そんなことは豊にはどうでもよかった。魚沼さえ傍にいてくれればそれでいい。前に付き合った男を気にするほど若くはないし、今更子供など欲しいとも思わない。だが、そんなことは口が裂けても言えない。自分は気にしていなくとも、魚沼にとっては人生がかかるほどの重大事だ。軽々に気にするななどと言おうものなら、今度こそ魚沼に軽蔑されてしまうのは明らかだ。

「豊さん、ごめんなさい。今まで騙してたみたいで。でも、あのスーパーにクレームに行った豊さんを見て、私もああなりたいって思ったのは本当です。それで豊さんに近付いて、少し横道にそれちゃったけど、これでよかったんだと思います。不純な動機で何かを変えようとしたって駄目ですよね」

 魚沼が飯台に手を付いて立ち上がった。豊はやめてくれ、まだ立たないでくれと心の中で叫んだが、それがなんの意味もなさないことは分かっていた。

「お邪魔しました。あと、今まで随分ご迷惑をおかけしました。もう豊さんに迷惑はかけられません。かけたくありません。だから私は、しばらく一人で頑張ってみるつもりです」

「淀水ちゃんよ。俺は迷惑とは思うてなかったんぞ。淀水ちゃんと仕事を探すのは楽しかったし、これからも付きおうてやりたいと思うとる。あの増井とかいういけすかん男が現れたら、今度は俺が追い払うてやるけん、だから……」

「やめてください! そんなことされたら、私が迷惑なんです! 大きなお世話なんです! だからもう、私に構わないでください!」

 魚沼の剣幕に豊は言葉を失った。また裏目に出てしまった。ここ二週間ずっと考えていた言い訳だったが、最後まで言わせてさえもらえなかった。

「じゃあ豊さん、さようなら。もう、二度と豊さんのお宅にお邪魔することはないと思います。もし私が一人前と認めてもらえるような人間になったら、またいつかお会いしましょう。その時はお互い、笑って会いたいですね」

 玄関で魚沼は靴を履きながら別れの挨拶をした。豊に背を向け、引き戸に手を掛ける。

 豊はこのまま魚沼を帰してよいものか、考えを巡らせ続けた。本当にこのまま見送るのが最善なのか。魚沼が望んだような善人を演じて、自分の下心をひた隠しにするのは正しいことなのか。魚沼の腕を掴み、無理矢理家の中に引き戻し、力ずくで押さえ込んだ方がいいのではないか。魚沼自身、心の奥底ではそうなることを望んでいるのではないか。それを望んでいるからこそ、こうして自宅まで訪ねてきたのではないか。

 そうだ。そうに違いない。

 またいつか会う? そんなのは別れ際の決まり文句だ。もう会うことなどないに決まっている。自分の寿命はもう十年もないかもしれない。その間、ずっと健康でいられる保証もない。自分に残された時間はあとわずかだ。今しかないのだ。今、魚沼に傍にいてくれなければ、自分はもう生きていけないのだ。豊は決意した。

 簡単だ。魚沼の腕を掴んで部屋に引っ張り込む。口を押さえて声を出させないようにする。少々抵抗されても構うものか。魚沼はまだ自分に好意を持っているはず。本気で拒絶などしないはずだ。後は布団の上に押し倒し、上から体重をかけて押さえ込めばいい。女の抵抗など高が知れている。

 が、豊が実行に移ろうと覚悟を決めたとき、すでに魚沼の姿は玄関から消え、引き戸も閉められていた。

 決断が遅かった。もう遅い。今から追いかけて軒先で魚沼を捕まえようものなら、大声を出されて終わりだ。すべては遅きに失した。その事実を痛感すると、豊は玄関口でそのまま腰を下ろし、がくりと項垂れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ