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「増井さん……」

 魚沼は困惑した表情で言った。この男の名前だろうか。

「こんなところで会うなんて、奇遇だなあ。久しぶりじゃないか」

 男は親しげに魚沼に話しかける。が、魚沼はそっけない。

「それほど奇遇とも思いませんけどね。ここ、市役所の目と鼻の先じゃないですか。またサボリですか?」

「ははっ。手厳しいな。外回りの帰りだよ。そう邪険にすることもないだろ」

 増井と呼ばれた男は頭に手を当てて笑った。年の頃は五十代半ばといったところだろうか。スマートで豊のように下腹も出ていない。スーツを着こなし、いかにも公務員風だ。左手に指輪が光っているのも目に入った。

「もしかして、ここで働いてんのか? それともこの近くに住んでんの? おい、久しぶりに会ったんじゃないか。そうツンツンするなよ」

「働いてもいませんし、近くに住んでもいません。特に久しぶりに会ったとも思いません。では、失礼します」

 親しげに纏わり付く男とは対照的に、魚沼は冷たい対応だ。いよいよ美人局が始まったのだろうか、と、豊が身構える。

「そんなに慌てて席を外すこともないだろ。そうだ。近くの喫茶店にでも入らないか? あれからこっちも色々あってさ。積もる話もあるんだ」

「私には関係ないでしょう。もう、行くんですから離して下さい」

 男は魚沼の腕を掴み、なおも引きとめようとする。豊は男を怒鳴りつけるべきかと思ったが、美人局を心配して会話に割って入れない。また、いつもと違う魚沼の厳しい態度にも戸惑った。

「そうつれないこと言うなよ。あのときのことは俺も悪いと思ってるんだ。反省してる。謝る。でもあの頃は俺もゴタゴタしてたんだ。決してお前をないがしろにしたわけじゃない。分かってくれるよな」

「はい。充分過ぎるほど分かってますから、もう離して下さい。行きましょう、豊さん」

 豊がこっちに話を振るなと思っているのを知ってか知らずか、魚沼が促す。と、増井という男は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。大方、増井は自分のことなど居合わせた無関係のオヤジくらいにしか思っていなかったのだろう。事実、豊もそういう体でいた。

「おい、なんだ? このオヤジ。まさかとは思うが、お前、この人と付き合ってるとか言わないよな? おいおい。きつい冗談はやめてくれよ」

 そう言われた瞬間、魚沼がきっ、と増井を睨みつけた。まるで言ってはいけないことを言ってしまったかというように、増井は軽く両手を上げ、たじろいだ。

「もう行きましょう。豊さん」

 そう吐き捨て、早足でその場を離れた。豊も増井に軽く会釈し、後をついていった。

 去り際、豊はちらと増井の方を見たが、増井は呆然と立ち尽くしていた。それから魚沼は逃げ込むように人気のない階段に飛び込み、二階と一階の間にある踊り場で足を止めた。壁にもたれかかり、左手で胸を押さえ、呼吸を整えているようだった。

 階段を利用する者は一人もいない。店内の音楽も遠くに聞こえる。人気のない場所に来たところで聞きたいことも色々あったが、魚沼の様子からそれもためらわれた。

「ごめんなさい。驚いたでしょう?」

 魚沼が豊を見もせずに言った。そのよそよそしさにああ、まあ、と、言葉を濁すしかできない豊であった。

「私、気分が悪いので、もう帰ります。今日はどうも、ありがとうございました」

「え。いや、しかし、帰りの足はどうするんじゃ?」

「ここならバスが運行してますし、お仕事することになれば毎日通わなければなりませんから。我が儘言って、申し訳ありません」

 豊は心臓がずしんと重くなった。さっきまですぐ傍にいた魚沼が、急に遠くに感じられた。

「ああ、まあ、そうか。そうじゃの。それじゃ、就職、上手くいくとええの」

 まるで頓珍漢なことを言って、逃げるようにその場を後にした。増井が追いかけてきて、美人局になることを心のどこかで警戒もしていた。その間、魚沼が豊を見ることはついになかった。

 地下駐車場に戻り、タプリのシートに座った豊を疲労感が襲った。しばらく何も考えられず、引き出しにタバコを隠していたのを思い出し、一服する。運転席の灰皿は小銭入れにしているので、灰が溜まるとその都度、ドアをすかして灰を捨てる作業を余儀なくされた。

 少し落ち着きを取り戻すと、あれは心配していた美人局などではないような気がしてきた。美人局であれば、あんな公務員風の壮年が出てくるのはおかしな話だ。ではあれはただの偶然だったのか。やっぱり増井をどやしつけて、魚沼によいところを見せればよかったと後悔した。

 それから考え込むこと数分、恐ろしい不安が頭をもたげてきた。魚沼が自分を追い払い、一人になったのは増井と二人で会うためではないのか。そんなことはないと思いたいが、広い店内、一人になった魚沼がまた増井と会う可能性もなくはない。豊は途端に居ても立ってもいられなくなった。タプリを降り、店の正面玄関に向かう。そこにはバス乗り場がある。魚沼が本当に帰るつもりならそこに現れるはずだ。豊は周囲に気を払い、玄関口に出た。するとバス乗り場の屋根の下のベンチに、魚沼の後姿らしき人影があった。服装が特徴的なので嫌でも分かる。幸い増井は近くにおらず、胸を撫で下ろす。豊はそのまま物陰に隠れて観察。やがてバスが到着し、魚沼は元気のない足取りでバスに乗り込んだ。

 増井と会う危険は回避され、豊もタプリに戻り、自宅に帰った。

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