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 自宅に戻り、リュックを畳の上に放り投げ、コタツのスイッチを入れて腰を下ろす。いまだ豊は夢見心地だった。が、急に怖くなり、慌ててポケットから携帯を取り出し電話帳を開く。最初のページに間違いなく、魚沼さんと書かれた番号があり、ほっと安堵の息を吐く。

それから何度もその名前と番号を確認する。これが魚沼と会ったことが夢ではない証拠だ。

 携帯の画面を眺めていると、そのまま魚沼の番号に発信したい衝動に何度も駆られた。だが、今しがた別れたばかりで電話をするというのはいかにも節操がない。

 また都合がつきそうなときに連絡を入れると魚沼は言っていた。それが明日か三日後か、それともひと月向こうかは分からないが、魚沼の方から連絡を入れてくれるのだ。それまで自分から連絡を入れるような、はしたない真似はすまいと思う。自分を頼ってくれる若い娘を失望させたくなかった。

 魚沼の目の前では憚られたタバコに火をつける。もっとも、コーヒーショップは恐らく禁煙であるからして、タバコなど吸えないのだが。確認したわけでもないが、ああいう若い年齢層向けのチェーン店は大抵禁煙だ。豊があの手の飲食店に入れない理由のひとつだ。だが、そうでなかったとしても、やはり魚沼の前ではタバコは吸えないだろうと思う。魚沼は見た目の印象からしてタバコは吸いそうにない。実際、吸うのならあんなコーヒーショップに誘ったりはしないだろう。喫煙しない若い娘はタバコの煙を殊更嫌う。いや、自分でさえ他人の煙は嫌なものだ。ベンチで見かけたあの男のように、人目を避けるようにタバコを吸うみじめな姿を魚沼に見られたくなかった。

 魚沼と会う数時間前から吸っていなかったのだから、かれこれ半日近く禁煙していたことになる。近年では最高記録だ。もっとも、老い先短いのだからタバコぐらい好きに吸わせろと心の中で言い訳しているので禁煙する気などさらさらないが。

 天井に向かってふーと煙を吐く。煙が無軌道な動きで天井に広がってゆく。こんなに旨いタバコは久方ぶりだ。長時間吸っていなかったというのもあるだろうが、やはり心の持ちようだろう。つい昨日まで、世界はどこか死んでいた。目に見える光景がモノクロに見えていたようだった。

 だが、魚沼に会ってから色彩が差した。別れてからも帰路の風景が美しく見えていた。世界中が自分を祝福してくれているような、そんな高揚感を覚えた。

 魚沼が自分に語ったことを何度も頭の中で再生する。ついつい頬が緩み、一人、部屋の中でニヤニヤしてしまう。いかんと思い、照れを隠すようにテレビをつける。が、昼のワイドショーは終わり、いつも見る時代劇までまだ一時間はある。チャンネルを回せばショッピング、若者向けの恋愛ドラマの再放送。ぼんやり見ていたが全く頭に入ってこない。電気代の無駄だと思い、電源を切った。

 いつの間にか眠っていたらしい。突然、携帯の着信音に驚いて目を覚ました。慌てて携帯を探す。見つからない。携帯はなおも着信音を鳴らす。豊は落ち着けと自分に言い聞かせ、音の方向から携帯の位置を割り出す。なんのことはない。雑然とした飯台の死角になる場所に置きっぱなしにしていただけだった。携帯が見つかると、魚沼が早速連絡をよこしてきたかと思うと心臓がドクンとした。豊は小さく息を吸って、携帯を掴み上げ、背面ディスプレイを確認。豊は激しく落胆した。そこに表示されていたのは娘の名前だった。落胆はしたが、孫娘と話せると思うと気を取り直し、カバーを開き通話ボタンを押す。

「あ、おとん? 元気してた? あの話、ちゃんと考えといてくれた? 私の言うとおりにしとったら間違いないけん、言うこと聞いてくれるよね」

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