古谷 千紘は死んだ
とある世界の片隅に、今日もいつも通りの朝がやって来た。
眩しい朝日が分厚い遮光カーテンの隙間から差し込んだ。瞼を直撃したそれは、眠る男の意識を暗闇から引っ張り上げる。
ぴく、と微かに動いた指先が緩慢な動作で頭上を探り、目当てのものを掴んだ。
何度か瞬きをして視線を彷徨わせ、ようやく瞳が焦点を結ぶ。艶消し加工を施された、黒の目覚まし時計の盤上を滑り、時刻を確認した瞬間、男は機敏な動きで跳ね起きた。薄手のタオルケットをベッドの足元にぐちゃっと寄せ、慌てて立ち上がろうとした。が、ある事を思い出して、パタリと後ろに倒れ込む。
「今日、定休日やん………」
独特のニュアンスを伴って吐き出された言葉は、彼の出身地である大阪、その中でも特に河内辺りのものだ。
あわや遅刻かと焦った脳は完全に覚醒してしまった。もう一度眠る気にもなれず、男は布団から這い出した。フローリングの冷たさに足を引っ込めかけて、再度下ろす。
「いい加減スリッパ買わなあかんな、コレ」
ひとりごちて、寝室を後にした男であった。
さて。
ダイニングテーブルに朝刊を広げ、珈琲を啜るこの男。
名を、古谷 千紘という。
三十路手前の独身男性で、職業パティシエ。
経営している洋菓子店はそこそこに繁盛している。駅前という立地条件の良さも相まって、連日客足が絶えない。
華やかな肩書きの響きとは裏腹に、パティシエというのはかなり過酷な仕事だ。朝から晩まで立ちっぱなしなのは勿論、繊細な作業から力仕事までこなす必要がある。
まあつまるところ、一生懸命仕事をしていたら、恋愛など二の次になっていた訳だ。
そんな言い訳じみた大義名分が通用するのも、あと数年かなと踏んでいる。彼の頭に、帰省する度にマシンガントークを繰り広げる母親の姿が浮かんだ。彼女とはどうなん、また別れたんか、と根掘り葉堀り。なんとも下世話な大阪のオバチャンである。
もっとも、息子に過干渉というような性格の母ではなく、どちらかといえば元来さっぱりした人なのだが、いかんせん話し好きなのだ。日々の生活の中に面白さを求めてナンボやろ、とはその母の言である。
それはさておき、今日は定休日なのだ。有効活用しないでどうする。
ということで、まずは腹ごしらえだ。
こんがり焼いたトーストにマーガリンを塗り、贔屓にしている養蜂場からお取り寄せした、蜂蜜を二匙。トロリと煌めく琥珀色が、自然光を反射する。
齧り付くと、外はサクサク、中はふんわり。至高の朝食である。
関東に来てからというもの、食パンの4枚切りを探すのに果てしなく苦労した。売っていないのである。8枚切りってなんやそれ、カリカリの煎餅か何かか。5枚切りも見つからず、6枚切りで妥協する生活を続けている。4枚切りに慣れた彼にとって、この事は非常に遺憾であった。
食パンへの想いを巡らせつつ朝食を終え、男は後片付けを済ませた。
彼の城である、マンションの一室。
広くはないが住みやすく整っているそこを丁寧に掃除した後、男は買い出しに出ることにした。玄関を出る前に郵便ポストを確認すると、母からハガキが届いていた。
友人と温泉に行ったらしき写真がプリントされており、少し癖のある字が近況を綴っている。何故だかこういう古典的なやり取りが好きな母親なのだ。
返事を書くのは、即断実行でやらないと後回しになるのは目に見えている。
そう思って男は、近況と体に気をつけてという趣旨の手紙を書き、店の常連客たちと撮った写真数枚を封筒に入れた。そして、かねてより送ろうと思って取り置いていた焼き菓子を見繕い、梱包していく。
郵便局にて小包みとして配送して貰い、改めてショッピングモールへ向かうのであった。
だが、買い出しを済ませた後。
交差点で信号を渡ろうしていた彼は、信号無視で突っ込んで来た乗用車が右折しようとしているトラックに派手に衝突する音を聞いた。振り向いた彼の目に映る、衝撃がぶつかり合う光景。
飛び散るフロントガラスの破片。
そして次の瞬間、コントロールを完全に失ったトラックが、こちらに向けて迫って来るのを捉える。
彼の前には、間の悪いことに、手押し車を押す年嵩の女性の姿。呆けたように立ち止まってしまい、一歩も動けずにいる。
反射神経は、昔から良い方だ。
男は走り出し、そして間に合った。
女性を抱え上げ、歩道に押し出して……____
だが、彼自身は間に合わず、その体はトラックに掠め取られ、攫われることになる。
女性の驚愕と恐怖、焦燥が入り混じった瞳に、自分の顔が映り込んでいるのが、スローモーションのように見えた。
響く悲鳴と衝突音。
息が詰まるような重い衝撃と、揺らされる脳。
ぐちゃりと肉が潰れる音。
全身を襲う痛みと薄れゆく意識の中で、男は女手一つで育ててくれた母親を想う。
(オカン、悲しむやろなあ……。でもお年寄りと女子どもには優しくせえ、って言いつけは守ったしな。あの人やったら誉めてくれるんやろな。達者で長生きしてくれたらええねんけど……)
走馬灯と言うには悠長な、呑気な思考を巡らせながら。
古谷 千紘の短い人生は、幕を閉じた。
________はず、だった。