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鈴の音

作者: 星散カリ

 今夜は近所の河川敷の花火大会がある。成瀬家は今年、子供会での役割に当たっていて、私が子供の付き添いをすることになっていた。

 私は花火大会までの時間を携帯を片手に、風通しがいい廊下に座り、鴨居にかけてある今夜着ていく浴衣を眺めていた。黒地に桃色の花弁が舞い散ったデザインで、二年前に買ったもののまだ一度も袖を通したことがない。その横には誕生日プレゼントで貰った、金魚の風鈴がかけてある。心地良い風に靡かれ、ちりんちりんと涼しげな音が鳴っている。

 あの時もこうしていたなぁ……と、胸の奥がひりひりと擦れるような懐かしい痛みと共に、ひと夏の友人のことを思い出していた。


 始まりは中二の初夏だった。例年通りに梅雨が明け、校門の紫陽花が色褪せてきた頃だ。その時期独特の不快な蒸し暑さに包まれた教室では、事前に知らされていた転校生の存在で話が持ちきりだった。

 朝のホームルームで担任に促されて入って来たのは、万年背の順で一番後ろの私でも背が高いと思えるような女子だった。長身なんて気にせず背筋をぴんと伸ばしていて、凛とした雰囲気を纏っている。仲間かも、と勝手に親近感を湧かせていたけれど、すらりと細長く伸びた手脚に、小さく顔が乗った抜群のスタイルはむしろ敵かなと思った。


「初めまして」


 思っていたよりも高くて、鈴を転がしたような美しい声だった。


「和見 鈴です。これからよろしくお願いします」


 次いで、声にぴったりな名前に驚く。名字まで綺麗な響きでよく似合っていると思った。

 肩で切り揃えられた黒髪は真っ直ぐで、お辞儀をした拍子にさらりと揺れた。


「席は成瀬の隣なー」


 あっち、と担任が指したのは私の右隣の席。座高まで高い私は、無神経な男子の「七瀬がでかくて黒板が見えなーい」という多感な年頃の女子にとってショッキングな一言により、教室の角である窓際の一番後ろが私の指定席となっている。クラスの人数の関係上、最後列――七列目は私しかいなくてずっと一人で寂しかった。隣の席が埋まるのは嬉しい。長身同士で隣の席だ。

 近くで見ると左目の下に涙黒子があって、より大人びた印象を受けた。窓から教室へ真っ直ぐ差し込む光に、真っ白な肌が透けていている。同性の私でも思わず見惚れてしまう程綺麗だった。

 諸連絡を行う担任にばれないようひっそり、


「私、成瀬百。百って呼んでな。よろしく!」

「もも、ね」


 囁くような声が、私の耳を心地良くくすぐる。

 切れ長の涼しげな眼が細められた。笑うと柔らかい印象を受ける。


「あたしのことはすずって呼んで。こちらこそよろしくね」


 同じ日本語のはずなのに、鈴の透明な声で紡がれるそれは、神しか使うことを許されないような神聖な言語のように聞こえた。


 席が隣だということもあり、それから私達はよく話すようになった。転校してきたばかりで右も左もわからない鈴に、元々人の世話を焼くのが好きな私は常に一緒に行動した。

 お互いに背が高いということで、今まで誰も理解してくれなかったことに共感できて、あっという間に距離も縮まった。居心地がよくて、昔からの友人のような感覚だ。

 鈴は私と同じ家庭科部に入った。前の中学ではバレーボール部に入っていて、好成績を収めていたらしい。引き締まってすらりとした長身もその賜物のようだ。しかし完成された輪を乱すように途中から割り込む勇気は出なかったそうで、結局は私が部長を務めている家庭科部に誘った。文化部のゆるくて楽しい雰囲気とフレンドリーさを気に入ってくれたようだった。


 夏休み直前の私の誕生日には、赤と黒の金魚が二匹描かれた風鈴を私にプレゼントしてくれた。不格好な出目金が、可憐な赤の金魚の後を追いかけ、仲睦まじく遊んでいるように見える。まるで私と鈴みたいだ。当然、出目金は私。

 風鈴は風に揺れる度に高く澄み切った音を奏で、鈴の綺麗な声を聞いている気分になれた。


 夏休みには近所の河川敷の花火大会に行こうと約束した。鈴は浴衣を着ていくらしい。花火大会といえば浴衣でしょ! と熱弁され、百も着て来てよ! と最後には念押しされた。

 下駄を履くとより身長が高くなるのが嫌で、浴衣はもう成長期が来てから何年も着ていない。けれど、鈴と一緒ならいいと思えた。デザインを悩み抜いた結果、黒地に鮮やかなピンク色の花が映える、煌びやかな浴衣を新調した。


 鈴はどのような浴衣を着るんだろう、紫や紺で大人っぽくきめるんだろうか。

 花火大会当日の夕方、廊下で涼みながら鈴のことを考えていた。鈴の細身な身体に、さらさらの黒髪に、透き通る白肌に、切れ長の瞳に、浴衣が似合わないはずがない。

 そう思いを馳せていると、携帯に一件のメールが届いた。差出人を確認すると鈴からだった。今夜のことかな、なんだろうと思いつつ開くと、


『今日のお祭り行けなくなった、ごめん』


 絵文字も顔文字もない、鈴らしいいつものシンプルな文面が目に飛び込んで来た。


「……なんで」


 乾いた口から漏れる呟き。思わず携帯を落としそうになった。

 当日の夕方にドタキャンだなんて……。楽しみにしていたのに。そんな、今更。二人きりで行く約束をしていたから、もう行く相手がいないじゃないか。私は今日の花火大会に行けないじゃないか……!

 そもそも行けなくなった理由も書かないで失礼な。腹の底から沸々と怒りが湧きあがってきた。

 私は携帯の電源を切って、廊下に寝転んだ。

 鴨居に飾られた浴衣も、持ち主に着てもらえないと知ってか、視界の端で悲しそうに風に揺られていた。


 八月最後の週の平日五日間は我が家庭科部の唯一の夏休み期間中の活動日だ。鈴は連日現れなかった。無断欠席だ。

 メールを送ろうかと思ったけれど、夏休み前の部活中に連絡はしたし、夏休みのしおりにも部活の予定表が載せられている。わざわざそんなことをしてやる必要はないという結論に至り、結局は携帯を閉じた。けれどそれはただの建前で、本当は今更メールを送りづらいだけだった。花火大会のドタキャンのメール以降、一切連絡をとっていないのだ。もうすぐ一ヶ月が経つ。

「鈴ちゃん来ないなぁ」


 ちくちくとフェルトを縫いながら、同級生の部員が呟く。突然出てきた鈴の名前に、思わずどす黒い何かが込み上げてきて、抑えきれずに愚痴が零れ出した。


「鈴にさぁ、夏休みの花火大会ドタキャンされてん。夕方に突然メールで。普通理由とか書くやん? 何もないねんで。酷ない?」


 疑問形にしたものの本当は意見は求めていない。わざわざ確認する必要すらない、自分が正しいからだ。


「そこは自分聞かなあかんねんって!」

「そーそー。知りたいなら聞かな!」


 ただ当然の共感がくるとばかり思っていた私は面食らった。私と同意見の人もいたけれど、かなりの少数派だった。


 時が流れるのはあっという間で、夏休みが終わるまであと数日間。

 日付を決めて約束していた訳ではないけれど、花火大会以外にもプールやショッピングに行ったり、一緒に宿題をやろうと夏休み前に言っていた。しかしそれはもう果たされそうにない。残りわずかの宿題も一人で終えることになるだろう。

 あの日、部員が言うように私が理由を聞いていれば今頃どうなっていたんだろうか。宿題も終わり、充実した夏休みを過ごして満ち足りた気分に浸っていたんだろうか。そんなことを考えていたら、針で指を刺してしまった。


 気まずくても鈴と顔を合わせることを考えると、始業式の日の登校の足取りは重かった。

 いつまで経っても埋まらない左隣の席を、落ち着かない気分でちらちらと見る。そのままチャイムが鳴り響き、心の奥では不安が渦巻いた。担任は諸連絡を終えた後に、

「あぁ、そういえば和見は転校していった」

 とまるで忘れていたかのように、表情一つ変えずに告げた。私は出会い頭に突然殴られたような衝撃を受けた。口の中が急速に乾いていくのを感じる。

 教室は一瞬ざわついたものの、担任のわざとらしい咳払いによって即座に静かに戻った。私はいつまでも呆然としていて、ぽっかりと心に穴が空いたような喪失感だけが、体育館に移動して始業式が始まっても私の体を支配していた。


 あの時メールを送っていれば、夏休みを一緒に満喫できたんだろうか。プールに、ショッピングに、カラオケも行きたかった。あんな変な意地さえ張っていなければ……。怒りが初めて悔いに変わった。

 ドタキャンだってどうしようもない理由だったのかもしれない。転校することも知らされて、笑顔で送り出せたはずだったのではないだろうか。こんな喧嘩別れみたいになるなんて、最悪だ――。


 ハッと目を覚ますと、私は廊下に転がっていた。昔のことを思い出している内に、私は眠ってしまっていたようだ。口の中は苦い苦い後悔の味がした。


「百ちゃん、これで何か好きなもん買っておいで」


 祭りの喧騒の中、子供会のおばちゃんに三〇〇円を差し出される。家を出る前に夢を見て汗をぐっしょりとかいた上、ずっと子供の相手をしていて疲れた。ほとんど何も口にしていなかったから丁度いい。ありがとうございます、とお礼を言って有難く受け取った。

 何を買おうかと歩き回っていると、風に乗って風鈴の音が聞こえてきた。辺りを見回したら風鈴を売っている屋台を発見した。珍しいと思いつつ近づいて行く。お土産にどうですかー、という売り文句が聞こえた。

 花火が描かれた風鈴の他に、金魚のものもいくつか屋台に吊られている。赤の金魚や黒のデメキンが一匹で水の中を寂しそうにたゆたっている。それを見るとなんだか胸が締め付けられる思いだった。

 そうだ、私達はもう一緒にいない。離れ離れなのだ――。


「はーい、ありがとねぇ」


風鈴の音色とは対照的なガラガラと潰れた声の屋台のおっちゃんは、すらりとした浴衣姿の女性に風鈴を手渡していた。それは私が誕生日に鈴から貰ったような、赤の金魚と黒のデメキンが描かれた風鈴だった。


「ありがとうございます」

 声を聞いた瞬間、体に電気が走った。風鈴が喋ったのかと思った。この声は、鈴を振ったように澄んだ綺麗なこの声は、私がずっと聞きたかった、あの声じゃないのか――。まさか、まさか――。


 小走りで追いかけ、前へ回り込む。気配を感じたのかはっと顔をあげ、提灯の灯りを映した瞳と視線がぶつかる。あぁ化粧をしているなと思った。まつ毛が長く伸びていて、頬も唇も紅く染まっている。二年前より顔は大人っぽく、華やかに変わっているけれど、それは紛れもなく鈴の顔だった。

「鈴……」


 名前を呼ぶとキレ長の眼が見開かれた。


「百……百なの!?」


 信じられない、という様子で声が歓喜で弾ける。相変わらず透き通った声だった。


「うん、久しぶり、鈴。なんか変わったな、髪も伸びた」


 鈴の暗闇に溶ける黒髪は頭上でまとめられていて、刺してある簪の花がゆらゆらと揺れている。肩までの長さだったのに、会っていない間に結い上げられる程長くなっていた。

「そう? 百は全然変わらないね」


鈴は柔らかく目を細め、ほっと安心するような笑みを浮かべた。懐かしさが湧きおこって、どうしようもなく泣きたい気持ちになったところで、花火の打ち上げ時間が近いことを知らせるアナウンスが流れた。


「百は一人? 花火、一緒に見ない?」


一人ではなかったけれど、子供会の人に無理を言って抜け出させてもらった。子供に邪魔されず、どうしても鈴と二人きりで花火を見たかったのだ。河川敷に二人並んで立った。

「百……ごめんね」


 色とりどりの花火の光で浮かび上がった、人形のような鈴の横顔に目をやった。声と瞳には哀しみの色が揺らいでいた。言葉は花火を打ち上げる音にかぶっていたけれど、鈴の声は濁り一つなくてよく通った。鈴と話していると自分の声と関西弁がみっともなく思えてくる。私は何のことを指しているのかあえて聞かなかった。


「二年前の、この花火大会の日」

「何があったん」


 私が震える声で聞くと、鈴はおもむろに言葉を紡いだ。


「あたしがこっちに引っ越してきたのは、お母さんがおじいちゃんの介護をするためだったの。でも花火大会の日、一人で家に残っていたお父さんが倒れて、急いで戻らないといけなかった。結局お父さんは入院したから、おじいちゃんの介護は人を雇うことにしてまた元の家に住んでいるわ」

 そんなことがあったのか……。ドタキャンされたと私は怒り、愚痴を零している時に和見家は大変なことになっていたのだ。鈴も辛い思いをしただろう。自分が恥ずかしくなってきて、ここから消えたくなった。鈴の顔を直視できず、視線を自然と下駄の鼻緒に落とした。


「今は法事で大阪に来ているのよ。あと二週間くらいいるわ」


 二週間、という言葉に私は顔をあげた。二週間もあれば私達は色々なことができる。


「じゃあ遊ぼう。プールに行こ、セールもまだやってるで。宿題も一緒にしよ――!」


 二年前の夏休みをやり直そう。果たせなかったことを今果たそう。私達の夏休みはまだまだこれからだ。


 花火が高く咲き誇る空の下、浴衣の隙間を、二人の間を通り抜ける風は、どこか新しいもののような気がした。





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