ベテルギウスとぼくのハッピーエンド 別パターン
別パターンです。
前回と違うのはハッピーエンド、というタイトルを回収するためにイベントを追加したところ。それに違和感がないように主人公に感情を追加したところ。
なので面倒だったら夜の島以降から読み始めても大丈夫なはずです。
星の命の終わりを見た。
今日、8月9日。
その日ぼくは幼馴染である彼女との天文部部活動に従事していた。本来閉め切りの、教室ばかりが収められた校舎(通称・東棟)の屋上に侵入し――鍵は顧問の先生が貸してくれていた――、夜空を見上げて他愛ない話をするだけの、日常生活の延長線上にあるような活動だ。メンバーが部長・彼女、副部長・ぼくのみである点が部の私物化を加速させている主な原因だろう(天文部は幽霊部員の巣窟であり、部として成立する最低限度のメンバーは揃っていることを補足しておく)。
でもそれはそれで都合がよかった。目もくらむような優等生である彼女と、目も当てられないような底辺人であるぼくが同じシーンの中にいてはならないからだ。その点この幽霊部員ホイホイという外面は隠れ蓑にちょうどいい。彼女本人としては不本意らしいが――私が誰といても構わないでしょう、とのこと――こちらとしてはそういうわけにもいかない。必ず迷惑がかかると分かっていて実行できるほど、ぼくの度胸は据わっていなかった。
結果、ぼくらはこうして人の視線を避けるように会っている。
掃除の手が入らないため無慈悲に砂埃が吹きつけられている石の床に、家から拝借したヨガマット二枚を敷いて、二人でそこに寝転がっていた。枕はちょっとした事故(居眠り)が起こりそうなので却下、というのがぼくら二人のお約束だ。
「今週には、流星群もあるんですよ」
落下防止のフェンスに囲まれながら、彼女が得意げに言った。空を埋める夜色に似た瞳が星明かりにきらめく。
「そっか」
ぼくはそれに見とれかけて、しかしそれが察せられないように無理矢理視線を逸らした。そのまま星の間をなぞっていく。
ぼくだって、それくらいは知っている。14日の深夜。確か、ペルセウス座流星群の極大時刻だったはずだ。
しばらく声が途切れて、代わりとばかりに蝉が騒ぎ始める。
熱帯夜の空気は多分に湿気を孕んでいて、景色も霞むようだった。加えて都会の夜空は、地上の明かりに翳るように暗い。夏の大三角とか、そういう有名な星々しかはっきりと見えなかった。
だからその光はどんな星々より眩く、夜空を塗りつぶした。
光も息切れするような、零下の果てで起きた星の終わり。
先まで放たれていた真っ赤な光は、藍錆色の極光へとその色を変え、ぼくたちを照らし出す。それはまがうことなき、命の灯火だった。その輝きは熱を持つようで、ぼくの体の真ん中に、そこから手足へ、じんわりとした感触を広げていった。
そしてその瞬間、ぼくは唐突に自分の死期を確信した。何故か、と問われれば返答に窮する。ただ、ぼくは数日後に何か絶対的な力によって死ぬだろう、ということがあの星の終わりに感応して伝わってきた。そういう類の直感だった。
「や、やった! ベテルギウスの超新星爆発、そろそろ起こるって言ってたけど、本当にこの目で見られるなんて!」
彼女はいち早く混乱から立ち直って、小さくガッツポーズをした。読書好きな、おとなしい彼女がここまで感情を顕にするのも珍しい。掛けた黒ぶちの眼鏡のレンズが光を返し白く染まる。
ぼくは隣で歓喜の声をあげる彼女に問うた。
「ねえ、星は光って死んでいくけど、ぼくらは何のために死ぬのだろう?」
突然冷や水を掛けられたような顔で、彼女は首を傾げていた。
変なことを聞いてしまった。
ぼくは彼女に忘れてくれと頼み、立ち上がった。尻についた砂埃を払うことも忘れて歩き出す。でも何故だか地面をしっかり踏みしめられなくて、ぼくはバランスを崩し、とっさにフェンスを掴む。ギィ、と鳴った軋みは悲鳴に似ている気がした。金属線から逆立つような錆が掌に擦れて、少し痛い。
「急に、どうしたんですか。部活の終わりまで時間はありますよ」
彼女の声が追いかけてきて、ぼくは慌てて、逃げるように駆けだした。追いつかれてしまったら、きっとぼくは泣いてしまうと思ったからだ。
リノリウムの床を上履きでけっ飛ばし、靴に履き替え外に出た。すぐに、既に暗がりに呑まれつつある見慣れた街並みが飛び込んでくる。目を逸らし、ぼくは視線を持ち上げた。
ただそこにあるだけだったはずの夜空が、より冷然とした表情を浮かべている。まるで世界がまるごと蓋をされ、ぼくら皆、閉じ込められているようだと思った。
その無限に見まがう黒闇は、ぼくの存在を嫌でも認識させる。背後から来る気配から逃げ出すように、ぼくは息を切らし、足を急がせる。
空の上のベテルギウスがぼくをじっと見つめていた。
◆
それからぼくはずっと考えていた。
星は光って死んでいく。自分が滅ぶことも知らずに、一人ぼっちで、不用心に、無邪気に、ちらちら光って、弾けて消える。
ならば彼らは、何のために光を放ち、何の為に死ぬのだろう。
そしてぼくは、何の為に死ぬのだろう。
寿命を知ってから、ぼくの生活は加速した。
「年を重ねる程時間が速くなるのは、過ごした時間と相対的に、その一秒の価値が小さくなるからだ」
頭のいい誰かがそんなことを言っていた。確かに概ね同意だけど、でも厳密には違うとぼくは思う。
終わりが近いほど、時間は加速する。
ぼくはずっと部屋にいるようになった。
夜が来るたびに、ぼくはその暗がりに死に神を幻視する。それを追いだしたくて、ぼくはカーテンを閉め切り、代わりに人工の太陽を部屋に浮かべていた。白い光が輪を描く、病んで細った太陽だ。本物と違って、これは沈まない。かの中国皇帝もご満悦だろう。ぼくも一安心だった。
天文部もサボってしまっていた。何日も休み、彼女からメールが、そして電話が毎日掛かってくるようになったが、ぼくはそれらを全て無視していた。きっと今、夜の下に出て行ったら、ぼくは狂ってしまうだろう。そんな姿を見られたくなかった。
そうして、眠らないまま5日が過ぎ。
ぼくは時間を無為に過ごす恐怖を知った。
ただ見ているだけで、デジタル時計の数字は入れ替わる。砂時計は血を流すみたいに砂を零す。ぼくと砂時計の違いは、いくら逆立ちしたって中身が戻ってくれないことだ。
過ぎた時間はぼくの記憶となり、知らない外の世界で起きたことはそのまま、知らない本の1ページに記されることだろう。
何処かの砂浜に何時か刻まれた足跡みたいに。
サイダーの泡がそれぞれ勝手に弾けるみたいに。
でも、海に棲む魚は自由に元気に泳いでいるし、サイダーは変わらずおいしいままだ。
答えは出ないまま、終わりの時が近づいてくる。
バッドエンドが、一寸先で笑っている。
◆
(……夢か)
ぼくはそう直感した。
夜の中にいた。
空は真っ黒で、色はなく、光もない。安物のインクでベタ塗りされたみたいに、無機質な闇が宙をわだかまっている。耳にはさあっ、と流れる風と、絶えず、周期的に砕ける波の音があった。
この場所にあるのは見える限りではそれだけだった。強いて挙げるなら、今ぼくが寝転んでいる砂浜、そしてその周りを囲う海くらいだ。
体を起こし、果ての見えない海原を眺めるぼくの目の前を、光の粒子が下から上へ通過していく。手に取ると、それは水滴だった。波が寄せ、砕けるたびにその雫を媒体に光が生まれ、浮かび上がっているのだ。そしてそれがこの場にある唯一の光源だった。
闇夜に揺れる光の粒々。幻想的な光景だったが、ぼくにそれを見ている余裕はなかった。
(夜……闇、暗い、あ、あいつがいる。ぼくの後ろにいる……)
背中に金属に触れたような無機質な冷気を感じる。
ぼくは胸をぎゅっと握られるような錯覚を覚えた。焦燥に似たそれに押し出されて逆流してきたものを、海面に向かって吐瀉する。喉が胃酸に焼かれ、爛れて痛む感覚はやたらとリアルだった。
その中で、寄せる波間に軽やかな音が転がった気がした。それは砂を踏む音だった。サク、サクとそれは連続し、音の主は楽しげに近づいてくる。
「こんにちは、おにーさん。顔を真っ青にして、大丈夫?」
ぼくは口から垂れる胃液を拭い、その声の方へと振り向いた。
夜に映えるひまわり色のワンピースが似合う、髪の短い女の子だ。その肌は幽霊か何かみたいに真っ白で、夜でもはっきりそこに存在していると分かる。放つ心配そうな声色と裏腹に、顔には満面の笑みがあった。
「いきなりゲロゲロ吐き始めたから、びっくりしたよ。何かあったの?」
「……夜が嫌いなんだ。夜は、ぼくを焦らせるから」
「その心は?」
ぼくは女の子に、これまでの顛末を語った。ベテルギウスが爆発したのを見て、同時に自分の死期を直感した。それから時間が経つことが怖くて、ずっと眠らないままでいたら、いつの間にかここにいた。そんな内容だ。
すると女の子は納得したように、「そういうパターンもあるのか」とつぶやき、そのまま言葉を続けた。
「ここは生死の境にあたる場所。あたしは『夜の島』って呼んでる。ここには立てるだけの陸と、周りを囲う海と、月もない夜しかないから、とりあえずそう名付けたの。……まあ、ここが現世じゃないってことが分かってくれればいいかな。
それで、おにーさんはここに流れ着いた異邦人」
「異邦人?」
それなら君は現地人? と聞きたくなったが、一先ずスルー。
「うん。ここには本来、死に行く人しか来られないはずだから。それなのにおにーさんは生きたままここに来た。その原因は、自分の死期をはっきりと知覚しているせいだと思うけど」
「……それじゃあ、君は死んでいるの?」
女の子は柔らかく微笑んで、頷いた。その所作はやけに大人びていて、ぼくは胸にちくりとした感触を覚える。
「あたしはね、生まれつき頭がおかしかったの」
女の子はそう言った。
「見るもの聞くもの全部が写真みたいに見えたんだ。数字も言葉も直線も、カラフルな景色に変わったの。あたしは楽しくて、それらを夢中で形にした。最初は漢数字の『二』、だったかな。綿毛が絡んだような、ふわふわした二重螺旋」
女の子はぼくの隣にしゃがみ込んで、指で砂を抉っていく。さらさらと、留まることなく描き出した螺旋の先には、ちょこんとひまわりの花が添えられていた。それが妙に女の子らしくて、ぼくは思わず唇の端で笑った。
そんなぼくにつられたか、女の子も笑っていた。しかしすぐにそれは曇っていった。不服そうに唇を尖らせている。その顔に、先のような大人っぽさはない。年頃ちょうどの表情に見えた。
「お母さんたちもね、初めは楽しそうに見てくれたんだ。でも年を重ねるうちに、あたしはどんどんおかしくなった。喋ろうとするだけでね、頭の中に絵が浮かぶの。そこに相手の言葉が重なると、綺麗だったその絵にノイズが混じる。波一つない、鏡みたいな湖面にガソリンがドバドバ流し込まれるみたいにね。あたしはそれが許せなかった。
馬鹿みたいだよね。あたしと話していると、あたしが急に怒り出すんだから、きっとお母さんたちも困っていたと思う。あたしの一喜一憂を見るたびに、みんなの顔は疲れていった。
それでね、折れちゃったんだ」
何がとは聞かなかった。彼女は微笑む。
「あたし、切り絵もやっていたからさ、ちょうど近くにカッターナイフがあったんだ。その綺麗な切っ先を見ていると、妙に幸せな気分になったの。目が離せなくて、いつの間にかそれは、あるべきところに収まったように、あたしの手の中にあった」
まさか、と思ったぼくは息を呑み、女の子の顔を見た。しかし、ちょうど持ち上がった光の粒子で影が出来て、どんな表情をしているかまでは見えない。
「あたしの手首で赤色が弾けた瞬間、体中をあったかい快感が走ったの。この世界には、こんなに温かくて、綺麗なものがあったんだって、驚いた。
それでそのまま眠っちゃって……」
「気づいたら、ここにいた?」
女の子は元気に頷いた。
ぼくはいつの間にか、女の子の辿った人生に同情していた。生まれ持った感性の違いが、そして女の子自身の優しさが、きっとこの子を殺したのだ。
ふと、ぼくは追いかけていた疑問を思い出した。彼女なら、ぼくにその答えをくれるかもしれない。
「ねえ、君は、もっと生きていたかった?」
女の子は目をぱちくりとさせた後、苦笑いした。
「ううん、どうだろう。遅かれ早かれ、って気もするから、あたし自身にも分からないや」
「なら君は、自分が何のために死んだか分かる?」
女の子は、今度はぽかんとした顔で首を捻った。
この会話と反応はどこかで見たぞ、と思いながら、ぼくは慌てて言葉を付け足す。
「さっき言ったけど、ぼくは夜が嫌いなんだ。でもそれは最初からじゃない。実はぼく、元々は天文部でさ。むしろ夜空は好きなくらいだった。
でも、爆発するべテルギウスを見てぼくは思った。
星は光って死んだ。なら星は何の為に光っていたのか。何の為に死んだのか。そしてぼくは何の為に死ぬのだろうか、って」
「それで、もう死んでいるあたしなら何か分かるかも、って思ったんだ?」
ぼくは真剣な表情で頷く。
女の子は大笑いした。波の音が掻き消えるくらいの大音声。彼女の口元に流れ着いていた光の粒子が吹っ飛んでいく。
あんまりすがすがしく笑うものだから、ぼくも少しイラッと来て言葉を継ぐ。
「何がおかしいの? ぼくだって真剣に悩んでいた。それをまるで、馬鹿にするみたいに」
「アハハ、そりゃ、私じゃなくたって、誰だって笑うよ。だって、本当に馬鹿なんだから」
思っていたより、ぼくはひどい顔をしていたらしい。女の子はぼくの目の前に指を突きつけ、また大笑いした。
しばらくして女の子は笑顔を引っ込め、あの優しい顔をして言った。
「君が何の為に死ぬのか。そんな答え、ある訳がないよ。だって、その人が今まで何をしていたって、心臓は勝手に止まっちゃうんだから。そこから先は、全てを見通す神様の領分だよ。
前提が違うんだ。何の為に死ぬのか。そんな難しい問題の答え合わせは、哲学をするライオンとかに任せちゃえばいいの。
あたしたちが考えなきゃいけないのは、何の為に生きていたいか、だよ?」
その瞬間、ぼくはふと、星が光る理由を諒解した。
そして同時に、夜ばかりだった世界に、爆発的に光が満ちた。暗闇に目が慣れていたぼくは思わず目をかばう。白い靄のような残像が視界にこびりつく。瞬きを繰り返し、それを追い払った。見ると彼女も同じような動きをしている。
落ち着いたぼくらは揃って、周りを見回した。
「う、わぁ……」
声をあげたのはどちらだったか。
満天の星空があった。星たちがおしくらまんじゅうするみたいに、ちらちら、きらきら、笑い合って、ぼくらに向かって輝いていた。そこには確かにぼくと、彼女が大好きな夜空があった。
何故だか泣きたくなった。
「ね、ねえ、君、それ!」
ぼう、としていたぼくを女の子が指さす。それにつられて視線を動かしていくと、そこには光があった。ぼくは反射的に目を細める。
「って、何で光って……え?」
ぼくの体が星もびっくりなくらいギラギラ光っていた。それだけではない。海で弾ける光のように、ぼくの体が粒子になって、空中に解けていっている。
ぼくが叫び出しそうになるのを、いつの間にか近くにいた女の子が制した。唇に当てられた人差し指の感触と近づく瞳の距離に、ぼくは顔が熱くなるのを感じる。
「多分だけど、君がここに迷いこんだ理由がなくなったんだと思う。だから、今から現世に帰るんだ」
女の子がそのまま、ぼくの頬をなぞっていく。病的に細く、白い指の上に、一つ雫が乗っかっていた。
「――君の人生に幸運を。ここに戻ってこないことを祈っている」
ぼくの視界と意識が光に染まる。
最後に見えた女の子の笑顔は、今までのどの笑顔とも違って、あの日のベテルギウスに似ていた。
◆
目を覚まし、ぼくはベッド上の体を起こす。
時計を見た。8月14日、午後10時15分。最後に見たのが確か午後7時くらいだったから、結構眠ってしまっていたようだ。夜が怖いとか言いつつぐっすりしていたのか、なんだか情けない。
窓が開きっぱなしだった。外からは夏特有の温く、青臭い空気がどこかの蝉の鳴き声と一緒に流れ込んできている。
ぼくは立ち上がって、まずつけっぱなしだった照明の電源を落とした。そして窓の傍へと歩み寄り、網戸を開く。目の前に夜が飛び込んできた。地球に蓋をするような暗闇が、何かを示すわけでもなく、ただそこにあった。それだけだった。
ぴぴぴ、と軽い電子音が静かな部屋に響く。
ぼくは近くに転がっていた携帯を手に取った。時代遅れなガラケーを開くと、形があれば山盛りになりそうなくらいの着信履歴、未読メールがあった。多分、さっきの音でメールが一通増えている。それら全ての送り主は、我ら天文部部長である彼女だった。
ぼくは一番新しいメールに対して、中身も見ずに、一通のメールを返した。
『今から一緒に、流星群を見に行こう』
送信を完了しました、というお決まりのメッセージが表示されたのを確認して、ぼくはすぐ携帯を閉じ、ポケットに突っ込む。そして、それ以外は持たず、ぼくは部屋を飛び出した。
塞いでいた闇をけっ飛ばすように廊下を走り抜け、階段を一段飛ばしに駆け降りる。お気に入りのスニーカーを、踵を潰しながら無理矢理履いて、半ば転がりながら外に出た。
すぐに、夜中に浮かぶ街並みがぼくの前に現れる。ぼくはすぐに駈け出そうとする――が、体が重たい。睡眠不足の体は、まるで全身に錘が巻き付けられているみたいだった。バランスが崩れる。でも、今度こそぼくは地面をしっかり踏みしめて、体を前へ、前へ。心臓が嬉しそうに脈を打ち、昂る体を運んでいく。
皹の入った寺の外周の壁、星明かりよりよっぽど明るい光を放つ古びた電灯を過ぎ、昔通った小学校の前の交差点を左に……ぼくは我らが天文部の活動場所への最短ルートを辿っていく。
ふと周りを見回すと、見慣れた街並がまるであの夜の島のように光の粒子を放っていた。と思ったが、違った。それはぼくの体から放たれていた。
夜の島に戻るのかもしれないし、このまま死んでしまうかもしれない。詳しくは分からないけど、たった一つ間違いないのは、もうすぐぼくがこの世界から消えてしまうことだ。
でも、怖くなかった。
だって、ぼくはまだ生きているから。
「はぁ、はぁッ――」
ぼくの体が酸素を求め、喘ぐ。まるで体の中で溶岩がうねっているように、かぁっとぼくの真ん中が熱くなる。ぐるぐる回る頭と反対に、体はどんどん重たくなる。自然と浮かんでくる涙を押し流すように、ぼくは足を止めず、走り続けた。
走れや走れ! ぼくはここだ! ぼくはここで生きている!
飛び散る光も気にならない。ぼくの胸は逸り、急いでいく!
一寸先のバッドエンドがぼくが放つ輝きに怯んでいて、それがとても滑稽に見えた。
◆
まるで導かれるように、信号や踏切に一度も止められることなく、事故もなく、ぼくは通う高校にたどり着いた。酸欠でガンガンと痛む頭を振って、ぼくは彼女が来る前にと急ぐ。
3つある校舎の間を巡るロータリーから外れ、闇がそのまま立っているような黒々とした木々の間を抜けて、ぽつんと佇む小さな石の小屋のような所に入る。そこはもう使われていない倉庫で、先生が鍵を隠してくれている場所でもあった。
舞い上がる埃を思いっきり吸い込んでむせ返りながら、ぼくは右奥に置かれた、脛に届くくらいの高さの木箱を開く。やけに目立つ真新しい本体の中に、簡単なホルダーでまとめられた二つの鍵が入っていた。校舎の扉を開けるものと、屋上の扉を開けるものだ。拾い上げ、箱も扉も閉めないまま小屋を飛び出す。
走ってきた道を戻り、いつもくぐる東棟の扉の前に立つ。うまく刺さってくれない鍵に苛立ちながら、ぼくは中へ入った。
「はぁ……ッ……はぁ」
そこで、動いていた足が止まる。
限界が来ていた。足は勝手に震え、頭は白く霞むようで何も考えられない。何よりぼくの体の消失が深刻だった。既に左の二の腕が消えかかっている。まるで魔法のようだ。空っぽになったように見える袖だけがひらひらと動いていた。
ぼくは玄関で靴を脱ぎ捨てて、靴下のまま歩き出す。壁を、階段では手すりを頼りに、でも足取りは確かに。シャキッ、シャキッと音を立て、リノリウムの床を爬行するように体を進めていく。
自分本来の姿を思い出したように、世界には静けさが戻っていた。昼間ここを埋める喧騒を聞いている分、この静寂は空虚で、それ故に純粋なものに感じた。そしてその純粋さ故に、生物の気配は微塵もない。
外は熱帯夜のはずで、証拠とばかりに顎から汗が滴っては、光になって消えている。しかしここは隔離されているかのようにすっきりとした涼しさに満たされていた。汗も、少しずつだが引き始めている。
そうして階を一つ、二つ、上がっていく。
最後にぼくは短い階段と向かい合った。
その時、小さな鈴が鳴るような、軽やかな音が転がった。音源は左。首だけで見る。左腕が完全に、ぽっかりと喪われていた。その残滓の光がふわり、舞い上がってぼくの体を包んでいく。体が軽くなったような気がして、ぼくは笑った。
ゴールはもうすぐだ。
ぼくはポケットに入れた鍵を取り出しながら、階段を一気に駆け上がった。そして鍵穴に鍵を差し込み――今度はうまく入った――、勢いよく扉を開ける。
見れば見るほど、どこまでも遠くなるような空があった。瞬く無数の星と、輝き続けるベテルギウスがぼくを見下ろしている。そしてその下には既に寝静まった街並みが佇んでいた。やっぱり、いつも通りだなと一人で勝手に納得する。
ぼくはそのまま、一番奥のフェンスに、足を滑らせるように歩み寄り、ほうと息をついた。同時に体が重たくなって、背もたれにしながら座り込む。心臓が破れそうなくらい脈を打っていて、少しうるさいな――と汗をぬぐいながら思った。
その後、ぼくを襲ってきた眠気にしばらく身を任せていると、夜も休まず響く蝉の声の中に、階段を上る足音が混ざる。それが石を叩く軽い音に変わった時、ぼくは彼女が息を呑む気配を感じた。
彼女が何かを言う前に、ぼくがその上から声を掛ける。
「ねえ、ぼくが聞いたこと、覚えてる?」
「……あなたが、何の為に死ぬのか、という話ですか?」
「そうそう、それ。ようやくその答えが分かったんだ」
「な、何を、不吉なことを言わないでください。まるで、もうあなたがもう、死んでしまうような言い方……」
いつも冷静な彼女の慌てぶりがおかしくて、ぼくは笑った。
ぼくは腫れぼったい瞼を持ち上げ、右手を宙へと伸ばす。
透けはじめた掌の向こう。今も元気なベテルギウスの輝きを、無数の光線が彩っていく。
ペルセウス座流星群が始まっていた。
空に満ちる夜は、迫る滅びを見せつけるようだった。
でも、今は怖くない。
1分でも、1秒でも長く光っていたいと思う。
大きく深呼吸をして、ぼくは言った。
「いつ死ぬとか、死なないとか、そういうのは関係なかった。
星がただそこで輝くように、人もそうやって、ただ生きていて。
だから、その生き方を後悔しなければ、それでいいと思うんだ。
えっとその、だから…………。
君に。聞いて欲しいことがあるんだ――」
そしてぼくは彼女に告げる。
ぼくの生きた声が、ぼく自身をハッピーエンドに導くと信じて。
星新一賞にも応募しようかと思っています。