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人魚の言葉

  ○



 魔女に再び出会ったのは、それからしばらく経ってのことだった。

 一体どれくらい海を彷徨っていたのだろうか。どうやら魔女はレノの様子を見に来たらしい。

 そこは海面からも海底からも遠い海のど真ん中だ。時折魚の群れが通り過ぎていくだけの、石畳のような場所。

 魔女はレノの有様を見るなり、卑屈な笑みを浮かべた。

「おや、まだそれだけしか消えてないのか」

 レノは左腕を右手で隠そうとしたが、既に肘の手前まで溶解が進行していては無駄な行為に過ぎなかった。

「あたしの忠告をちゃんと聞いておけば踏み止まったかもしれないのに。思い込みが激しいのは辛いね」

「…………」

 レノの憤りを知っていて、今度は急に悲しそうに目元を手で拭う真似をする。

「おお悲しい。涙が出そうだよ」

「――どうして、涙なんですか」

「ん?」

「どうして、涙が欲しかったんですか?」

「それはね……」

 もったいぶった口調で、魔女は一旦言葉を切った。ゆっくりとレノを中心に旋回し、再び視線が重なったところで動きを止める。そして、また笑った。だが、それはどこか自嘲的だった。

「あたしもまだ、諦めちゃいないのさ」

「諦めないって、何を……」

「なあ、涙は人間の雌の武器なんだろ? 人魚は涙を流さないんだよ。だから欲しかった。人間に好かれるための武器がね……折角だから話してやるよ。本当は、あたしが誰かに話したかっただけなんだろうけどね」

 魔女は少し間を置いて、ゆっくりと語り始めた。

「人魚には涙がないから、誰かのために泣くことだってできないんだよ。愛する男が悲しみに暮れて、弱音を吐いていてもね。あのとき、どうしてあの人はあたしが泣かないことに怒ったんだろうかね。ただ、あの人からは鼻をつくような臭いがしたってことだけは確かだよ」

 魔女の話を聞きながら、レノは酒に酔ったときのことを思い出した。

 友人達と別れた後、何故か家に戻らず舟に乗ったのだ。その後のことは、あまり思い返したくなかった。

「謝っても、あの人は許してくれなかった。あたしは耐えかねて、つい愛してるなんて言っちまった。そうしたら、あたしの体が急に光り始めて、気がついたらこんな姿になっちまった。あの人は叫びながら逃げ出しちまって、それ以来会ってないよ」

 魔女の顔は、今までに見た中で一番穏やかな笑みを湛えていた。

 魔女の身に起こった悲劇が、自分と重なるような気がして、胸が痛んだ。

「だけど、もう平気だよ。あたしはあの人のために泣いてやれる。あとはあの人が喜ぶような姿を手に入れるだけさ。勿論、人間の姿でね。必ずあの人を見つけ出すつもりさ」

 話が終わったのか、魔女は口を閉ざした。満足げな様子に、不思議と不気味さは感じられなかった。

「でも、もしその人が他の誰かを愛していたら……」

 レノはためらいがちに聞いてみたが、魔女の反応は予想と大きく違っていた。目を精一杯見開いて、大声で笑い出したのだ。

「お前は、そんなことを考えて意味があると思ってるのかい?」

「それは……」

「意味なんてないんだよ。でも考えるなら最高の結末の方が楽しいだろ?」

「……そうかも、しれないですね」

 自然と笑いが込み上げてきた。初めて老人と話したときと似ている。まるで知らなかった世界に足を踏み入れ、その不可思議さと愉快さに感動したのを覚えている。

「笑うんじゃないよ。お前とあたしは似てるようで違うんだからね」

「僕が、あなたに利用された身だからですか?」

 レノが笑顔のまま答えるので、魔女は面食らったように口を開けた。細長い魚の群れが、ざわめきながら二人の間を抜けていった。

「それでも、僕とあなたは似ていると思います」

「何だって?」

「僕も、まだ諦めたくないからです」

 レノはもう、消えかけの左腕を隠そうともしなかった。これから、レノは彼女を探しに行かなければならない。もう悲しんでいる暇などない。

 魔女はそんなレノの心境を察したのか、やれやれといった風に肩をすくめた。

「あたしと同じくらい、自分勝手な奴だね。折角だから、もう一度魔法をかけてやってもいいぞ?」

「結構です。でも、一つ聞きたいことが」

「なんだい?」

「もしこのまま僕が消えたら、彼は……」

 レノは不安げに己の下半身と魔女を交互に見た。

「ああ、きっとお前が消えたら魚の方は元通りさ。晴れて自由の身だよ」

「本当に?」

 魔女の言葉に反応したのは、レノではなかった。振り返ると、一匹の魚がレノの脇を通り過ぎて魔女へと迫っていく。彼と結ばれていたという、あの白と茶色の小魚だった。

「本当に、彼は戻ってくるのね?」

「そうさ。わざわざお前が何かを犠牲にしなくても、いずれこいつが消えれば青い魚は帰ってくるよ」

 レノは魚の登場に驚いたが、魔女は気づいていたようだった。

 魚は歓喜に身を震わせているのか、物凄い速度で海を駆け巡っている。興奮が収まってきたところで、レノに近づいてきた。

「私、彼のことは諦めてないから。あのときは納得したつもりだったけど、本当はあんたなんか消えてしまえばいいって思ってた。でもね、あなたと彼女が結ばれたらいいなとも思ってる。私は彼が戻ってきてくれればそれでいいから。消えるならさっさと消えてよね。私は気が短いから」

「わかった。ありがとう」

 魚は、レノの返事がよほど意外だったのか、ぴたりと動きを止めた。それを見た魔女が、小さく笑う。

「……私、あなたに結構酷いことを言った気がするんだけど」

「こいつはね、自分勝手な奴なのさ。都合のいいことしか聞いてないんだよ。思い込みも激しいしね」

 レノの代わりに魔女が答えた。当の本人は微笑むばかりで、都合のいいことしか耳に入っていないようだった。

 魚はレノを無視して、魔女に向き直った。

「そういえば魔法でこいつと彼を元に戻すことってできるの?」

「勿論。まあ、そのときはお前の声でも貰うとしようかね」

「それはご免だわ。こいつに頼んでもらうことにする」

「何か、言った?」

「別に? あんたが気にすることじゃないから」

 魚は楽しそうにゆらゆらと海の中を漂う。

「そう。じゃあ、僕はそろそろ行かなくちゃ」

「行くって、どこに?」

 レノがそれ以上何も言わずに立ち去ろうとしたとき、魔女に肩を掴まれた。少し前までなら恐怖に背筋を凍らせていただろうが、もう気にせず振り返ることができる。

「あの人魚の雌に会いに行くんだろう? 場所を教えてやるよ。見返りは特別に免除してやろう」

「……ありがとう、ございます」

 魔女の指先が海中で踊る。よく見ると、魔女の口が微かに動いている。小声で何かを呟いているのか、レノには全く聞こえない。

 やがて光が発生し、すぐに消えた。

「海岸に近い場所にいる。鋭く伸びた岩礁に手をかけて、崖の上にある一軒家を見つめている。あれは、お前の家だろう?」

 レノは再び礼をして、すぐさま泳ぎだした。魔女がまだ魔女でなかった頃の姿を想像する。きっと美しかったに違いない。しかし、彼女には及ばないだろう。

 彼女に会って何を話すか、既に決心はついていた。



 レノが去った後、しばらく魔女と魚はその場に留まっていた。

 何度か近くを群れが通過する間に、魔女は魚が妙に忙しなく動いているのを見て何かを察したようだった。

「何か聞きたいことでもあるのかい?」

 魚は目に見えて動揺していた。魔女には敵わないと判断したのか、恐る恐る魔女に言った。

「その、あんまり関係ないんだけど……どうして、人魚は魔女になってしまうの?」

 魔女は何も答えない。周辺では幾つもの群れが頻繁に往来していた。魔女は静かになるのを待っているようだった。

 やがて無音の海になり、魔女は魔法をかけるかのように小さく唇を動かして呟いた。



「人魚の言葉はね、魔法なのさ」



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