溶けていく告白
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ひたすら魚を眺めるだけだった。特に何かを売るわけでもなく、飽きたら別の場所に向かう。海の広さは手に余った。
いくら進んでも終わりが見えない。あっという間に夕暮れが訪れ、レノは慌てて岩礁へと戻ってきた。
既に、彼女が待っていた。海の中からでは下半身しか見えないが、あの赤い輝きはまさしく彼女のものだ。
レノは彼女を驚かせようと、慎重に背後に回った。そして、勢いよく海中から飛び出す。飛沫の奥に、緋色の髪が見えた。彼女は小さく悲鳴を上げて振り返る。後ろに現れたのがレノだとわかると、深く息を吐いた。
「ちょっと、急にどうしたの? 昨日は来なかったし。約束はしてないけど、私は待って――」
突然彼女は口を止め、吊り上げていた眉をゆっくりと下ろした。レノは彼女が気づいたことで、笑顔を隠せなかった。
見せつけるように、体を上下させる。上半身を沈めたり浮かせたりすると、彼女はぽかんと開いていた口を更に広げた。
「あなた、まさか……」
「うん。ほら」
レノは海に浮かぶように身体を仰向けにし、尾鰭を海面から出してひらひらと振ってみせた。夕焼けを浴び、奇妙な色合いで光っているそれを、最初のうちは驚きに目を丸くしていた。そして、伏目がちにレノを見つめる。
さすがにレノも彼女の異変に気づき、体勢を戻した。恐る恐る近づこうとすると、彼女も後退した。だが、レノが後退しても彼女はやって来ない。
並々ならぬ不安が、開いた距離の分だけ心に溜まった。風が吹いてきて、二人の間に波が立ってきた。
「……魔女に、会いに行ったのね」
彼女からは、寂しさと失望の念が見て取れた。
「私に、人間のこと色々と教えてくれるんじゃなかったの?」
「それは……この姿でも出来るよ」
「じゃあ、今日はどんなことがあったの? あなたが魚を売る街で、人間達は何をしているの? 誰が笑ったの? 誰が泣いたの? あなたはこれから何を教えてくれるの?」
「…………」
彼女が言葉を発する度に、圧力を感じた。押し潰されそうになりながらも、レノは彼女との距離を離すまいと必死だった。
「あなたが人魚になっちゃったら、意味ないじゃない」
「えっ」
「私は誰に人間のことを教えてもらえばいいっていうの? また誰かを探さなくちゃいけないの? あなたと話すことがどれだけ危険なことかわかってるの? あなた以外に誰がいるのよ?」
レノの中に溜まった不安が、形を変えて渦巻く。
「どうして、人魚になったの?」
耳を塞いでしまいたかった。代わりに、力を失った身体がどんどん沈んでいく。
「どうしてよ!」
彼女が追いかけてくる。人魚でなければ、海中で彼女の悲痛な表情を見なくて済んだのにと後悔した。
真逆さまに海へ落ちても、息苦しさはない。どこまでも沈んでいけそうで、早々に底についてしまった。
彼女は途中で止まり、しばらく見下ろしていたが、やがて横たわったレノの隣に、下半身を畳んで座った。レノは上体だけを起こすと、彼女と目を合わせた。彼女には笑顔でいてほしかった。
「君、の……」
喉がひくつく。言葉が上手く出てこない。
「君の、ためだったんだ」
レノはなんとか言い切って、彼女を突き飛ばした。そして、耳を塞ぎながら、一度も振り向かずに、その場から逃げ出した。
――ああ、やっぱりそうだったのか。
彼女の態度に裏付けられた事実は、レノにとっての地獄の中にあった。
痛みに耐えかねて暴れても、傷は射えない限り苦痛を生み出し続ける。疲れ果てるまで泳ぐと、自分がどこにいるのか全くわからなくなった。日は完全に没してしまい、上下の感覚まで曖昧になっている。
身体を海に委ねると、ようやくレノは笑えるようになった。
無力感に支配される。
今まで自分がしてきたことが、水の泡になってしまった。悪い冗談のように思えた。こんな話があったんだよ、と老人が締めくくり、そんな男は馬鹿だなどと酒場は笑いに包まれる。
レノはそう取り繕おうと、独りで笑った。己の情けなさを笑った。どんなに悲しくても、涙は流せない。喉だけが虚しく疼き、口元が震える。顔をぐしゃぐしゃにして喚く。戻れないところまで来てしまった。先には何もなく、引き摺ってきた後悔だけが傍にいる。
最初から間違っていたのだ。勝手に彼女のことを勘違いして、ひたすら突っ走ってきてしまった。何故あんなにも優しい言葉をかけてくれたのか、今となっては知る由もない。
自分の下半身を見つめた。虹色に輝く眩しい鱗が覆っているのに、もう美しいとは思えなかった。今更、あの魚の言う彼が生きているのを思い出した。どう責任を取ればいいのだろうか。答えはわかっている。もう一度魔女に頼むしかない。
今度は何と引き換えにすることになるのだろうかと、自分の両手を見つめようとして、異変に気づいた。
レノは片方の手しか、見ることが出来なかった。
左手首から先がすっかり消えている。
目を見張ってからも、まるで氷が溶けるかのように先端から少しずつ消失している。
「えっ、な……」
何が起こったのかが理解できず、とにかくレノは海面を目指した。既に空は暗くなっているのか、海面と思われる方向からは微かな光が漏れていた。一気に浮上し、空気の元で左腕の感触を確かめる。痛みはない。左手はすっかりなくなってしまっているが、断面が見えるわけではなかった。既に溶解は止まっており、ようやく冷静になれた。
いつからこうなっていたのかを思い出す。少なくとも彼女と話しをしている間はあったはずだ。いざこんな事態に見舞われると、記憶もあやふやになってくる。左手が消えてしまった事実しか残らない。
自分は一体どうなるのだろうなどとは、考えなくてもわかる。
「消える……」
口にすることで、改めて実感する。消えるとは、こんなにも呆気ないものなのか。
急に、誰かが恋しくなってきた。誰かとは彼女であり、老人達であり、魚であり、両親だった。彼女に気を取られていたせいか、すっかり両親のことなど忘れてしまっていた。頭に残っていたのは、父が残した言葉だけだった。それだけが、レノにとっての父になっていたのかもしれない。
レノの隣にはもう誰もいない。両親はこの海にはいない。いざ飛び込んでみれば、それはレノが生み出した夢幻に過ぎなかった。
海で孤独になったとき、初めて涙に囲まれていることに気づいた。
夜空を見上げる。曇りがちなせいか、星はまばらに浮かんでいる。父と母を求めるように、レノは左腕を伸ばす。そこで、左腕に白い粉のようなものがこびりついているのを発見した。見覚えのあるそれは塩だった。
何故――という疑問はすぐに解消できた。自分はまた知らず知らずのうちに泣いていたのだ。
左腕を観察していると、先の方から少しずつ塩へと変わっているのがわかった。塩は海水に触れるとすぐに溶けてしまった。そういえば、魔女が涙を失うとどうなるか、言いかけていた気がする。
「…………」
もう考えたくなかった。消えてしまいたくなかった。だが、悲観すればするほど身体は解けていく。何か方法があると、無理矢理自分を納得させるしか道がない。希望を捨てていないふりをして、レノは静かに海へと戻って行った。