〝魚〟との出会い
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一瞬の悲劇だった。
私の目の前で、彼は何かに吸い寄せられるように動いたかと思うと、その体を魔女に掴まれていた。
ここが魔女の住処の近くだったとは知らなかった。急いで身を隠して様子を窺う。
彼が何をされてしまうのか。最悪の結末は、私が想像するよりも早く、目の前で起こってしまった。
魔女の目の前には人間がいた。魔女はその人間に突き付けた指をゆらゆらと動かしている。すると、もう片方の手に掴まれた彼がふわりと海中に漂い始めた。
しかし体は真横に傾いていて、呼吸しているようにも見えない。そのまま彼は人間に近づいていき、丁度魔女の指先と人間との間で小さな光になった。彼の鱗そっくりの綺麗な輝きは仄暗い海をぼんやりと照らしている。
魔女の指先と口元は絶え間なく動いていた。光になった彼と人間を混ぜ合わせているかのようだった。
やがて、人間の下半身に異変が生じ、徐々に二本足が絡み合って一つになり、鱗に覆われていく。
「だめ……」
自然と声が漏れた。彼と全く同じ色合いをした鱗と鰭が、人間の下半身になってしまった。
そのとき、魔女がこちらに顔を向けた。目が合った。私は何も考えずに反対方向へと逃げ出した。
身の危険以上に、彼がいなくなってしまったことがただ悲しかった。自分ではどうすることもできない事態に見舞われて、恐怖とも憎悪ともつかない感情の波にさらわれて、ただ叫ぶことしかできなかった。
○
人魚はどうやって寝るのだろうと思っていたら、いつの間にか昼になっていた。岩礁に寄りかかるようにして眠っていたレノは上半身だけで伸びをする。太陽は既に海へと傾いていた。
随分と寝てしまったらしいが、ずっと海水に浸かっていたはずだが、指の皮膚はふやけていなかった。小さなことで、昨日の出来事が夢ではなかったと気づかされる。
彼女はまだ来ないだろうと思い、海の中を堪能しようと潜った。海の中でも平然と呼吸ができる。それに、空気にさらされているよりも海水の方がずっと気持ちが良かった。乾いているのが間違っていると思えるほど、水中は快適だ。
目を閉じて身を委ねたくなるほどの潤いは全身を覆っていたが、急に背中を指で突かれた。振り向いてみるとその正体は誰かの指ではなく、一匹の小魚の頭だった。
この周辺にしては珍しく、地味な色合いで無骨な鰭を持っている。茶色に所々白い絵の具を垂らしたようなみすぼらしい鱗に覆われた小魚は尚もレノの腹部目掛けて突進を繰り返している。
「な、何?」
さすがに後ろに下がって小魚を両手で制した。しかしするりと指の間を抜けて、鰓を激しく波打たせながら蛇行してくる。
「やっと気づいてくれたわね」
女性の声で、小魚が喋り出した。
「返してよ。彼を」
「え?」
事態が飲み込めないレノに、魚は迫りながら口を不服そうに曲げた。
「とぼけないで。あんたが魔女に出会わなければ、彼は捕まることだってなかったのよ」
「彼……ああ」
レノは己の下半身を見下ろした。穏やかな海の中、そよ風を受けた草花のように揺れている。青い鱗は角度が変わるたびに日の光を虹色に反射させていた。思わず目の前にいる小魚と見比べるが、その差は歴然としていた。
「その彼が、君と関係あるの?」
レノは面白くなさそうに聞き返した。魚は怒っているようだったが、思い当たる節がない。突然きつい口調で詰め寄られても迷惑でしかなかった。
だが、レノの質問に魚は急に大人しくなった。既に魚は目の前までやってきていて、単に止まっただけなのかもしれないと思ったがどうも様子がおかしい。
「彼は……私の恋人よ」
やがて、重々しく魚が口を開いた。先ほどまでの勢いがなく、搾り出すような声だった。
「恋人……」
その言葉はレノにも圧し掛かる。目の前にいる魚と、下半身となった青い魚の関係こそ、レノが夢見ていたものであった。
「私は彼と違う種族の魚だし、お互いに許されることじゃない私は彼の卵を産むことはできないし、そもそも住処の環境だって違う。何を食べるかだって、何に狙われているかだってね。本当は一緒にいてもいいことなんてないの。でも私は彼のことを愛していたし、彼も私のことを理解してくれて、優しくしてくれた。それに、最初に話しかけてきてくれたのは彼の方よ」
魚はレノの前で左右に行ったり来たりを繰り返している。
レノではなく、その目は青い鱗を鰭を、彼を見ていた。
「なんとなくだけど、あんたの気持ちだってわかるわ。好きなんでしょ? あの人魚の雌のこと。私みたいな魚の間では結構噂になってるわよ。もしあんたが彼女と結ばれたとして一緒に海を散歩してるとき、いきなりその彼女が魔女にさらわれたらどう思う? そして、彼女はあなたの目の前で見知らぬ魚にその上半身だけを奪われるの。顔は一緒だけどまるで別の人魚になって、楽しそうにどこかへ行ってしまったら、どうする?」
「……」
何も答えられないレノを余所に、魚は続ける。ただ、穴の開いたカップに注いだコーヒーのように苛立ちを零している。辺りは驚くほど静まり返っていた。音も匂いもない世界は、レノの逃げ場を作ってはくれなかった。
「あんたと彼は違う。それはわかってる。実はあんたと一度すれ違ったんだけど、そのとき私の前を素通りしたときに気づいた。でも、あんたのその下半分は彼と全く同じなのよ? 後で魔女に聞いたわ。彼は永遠に眠り続けるだけだって。あんたからまた切り離せば元に戻るって。私はどうすればいいと思う?」
――魔女に切り離してもらえばいい。
口には出さなかったが、レノにはそれ以外の考えが浮かんでこなかった。
同時に恐ろしい結末が、曖昧な想像とは裏腹に息苦しくなるほどの現実感を伴って這い出てくる。
「魔女に頼めば、すぐにでもあんたに魔法をかけて彼を返してくれると思う。でも、私は何かを失うのが怖いし、あんた自身を恨んでいるわけじゃない」
「どういうこと?」
「誰も恨んでいないわ。自分が情けないの。覚悟してたのに。いつかは釣りの餌に引っかかったり、他の魚の餌になったり、群れの仲間にばれたりして……でも、切なくて、感情が昂って、誰かのせいにしたくて堪らない。いくらあんたに当たったって、彼は戻ってこないし、魔女に会う勇気もない」
「……」
「でも、こんな風にそのときが来るなんて思ってなかった。挙句まだ取り戻せるかもだなんて。そんな風に言われたら取り戻したいに決まってるじゃない。でも、私にはどうすることもできないの。だから、あんたに会いにきたのよ」
魚が動きを止めて、正面から向かい合うことになる。魚と視線を交差させるのも不思議な体験だったが、既にレノにとって目の前にいる魚はただの魚ではなかった。
「私は魚だから、人魚や人間みたいに行動で物を言うことなんてでき来ない。実際に話して私の気持ちを知って欲しかった。その上で頼みたいことがあるの」
「……何?」
レノの中で、またぼんやりとした想像が、彼女が何を言うかが、鎌首をもたげる。目を背けたくなるそれは、否応なしに彼女の言葉が現実にしてしまった。
「もう一度魔女に会いに行って。そして、彼を返して。それで元通りじゃない」
「でも……」
「でも何よ? あんただって、私と彼と同じじゃない。許されない恋でも、それはきっと叶う。たとえ人間と人魚だって、誰も許さなかったとしても、あんた達で許し合える。愛し合っているなら、きっと結ばれる。だからお願い、彼を返して」
喋り続ける魚の表情はほとんど変化がない。だが、初めからそれを言うために話しかけてきたことはわかった。それだけに、彼女に迂闊に言葉を返せない。
レノの中であらゆる未来が駆け巡る。この後自分がどんな行動に出ればどんな結果が待っているのか。珊瑚のように枝分かれする選択の中で、レノは既にそのうちの一つを掴んでいた。レノにとって、何よりも大切にすべきものを尊重した未来だ。
「駄目だ。魔女の元には行けない」
「どうして? 言いたくはないけど、元はあんたのせいなのよ」
「僕が魔女に頼んだのは、彼女のためなんだ」
レノは魚に、人魚と人間が愛し合うとどうなるかを話した。
そして、彼女を愛する理由の一つが、彼女の容姿であることも吐露した。出会ったばかりの魚に全てを話すのは妙な気分だったし、自分の感情を吐き出すのは何か間違っているような気もした。
だがレノは後ろめたさをかなぐり捨てて、包み隠さずに真実を述べた。魚は、目に見えて動揺していた。言葉はなくとも、魚の心情を察することができた。
「そうなの、彼女の姿が……」
全てを聞き終えた魚は、更に気が沈んでいるようだった。
「君だってあの近くにいたなら知っているはずだ。魔女の姿を。それに、彼を助けるために僕はまた何かを引き換えにしなければならない。それじゃあ、元通りにはならないし、今度は僕が君に問い詰めるかもしれない」
言いながら、レノはどこか罪悪感を覚えていた。魚に申し訳ないという気持ちが芽生えながら、彼女を優先する自分がひどく情けなく思えた。
「それで、結局私には諦めろっていうの? 彼のことを忘れて生きていけって、そう言いたいの?」
魚は精一杯語気を強めているようだった。レノは何と答えれば魚を傷つけずに済むかを考えたが、結局は頷くことしかできなかった。どれだけ取り繕おうとも、魚に対してレノがしてやれることは残酷な決断だけだ。
魚はしばらく黙っていたが、
「そう、ね……その通りだわ」
魚は、何かを諦めたようだった。
「こういう形でもないと、彼だけじゃなくて私もどうにかなっていたかもしれないものね。私が何事もなかったかのようにするしかない……」
そう思い込むことでしか気持ちの整理がつけられないのだと、レノは痛感した。
しかし、それは仕方がないとレノは気を紛らわせた。
「ねえ、最後に教えて。あんたは何と引き換えに人魚になったの?」
「…………涙だよ」
「涙?」
「そうか、魚は涙を流さないのか。涙は、人間が悲しいときに目から零すものなんだ。今も悲しいけど、僕はもう泣くことができない。ああ、泣くっていうのは、涙を流すことだよ」
そう言ってレノは僅かに微笑んで見せたが、魚は何も反応を示さなかった。
「確かに、もう悲しむ必要もなさそうね。運が良い方なんじゃない? 彼女と、幸せになれるといいわね」
魚は身を翻して、海の向こうへと泳いでいった。声をかける間もなく、凹凸の激しい海底に紛れてすぐに見えなくなってしまった。
心に少しだけ寂しさが募り、肩の荷が下りた。
レノは、魚とは違う方向へと泳いだ。全速力で海を駆けると、自然と気持ちも上向きになっていった。
今回の投稿で、この小説におけるある仕掛けがおわかりになったでしょうか?
つまり、●の正体です。