夜明け
これで中編(短編?)『人魚の夜明け』は完結します。ここまで読んでくださった方がいましたら、最上の感謝を捧げます。では、最後までお楽しみください
○
「……ここでなら会えるんじゃないかって、思ってた」
空模様は夜の峠を越えていた。うっすらと白んだ空を、数羽の海鳥が流れていく。
随分と長い時間海から顔を出していたのか、彼女の緋色の髪は潮風に靡いていた。
逆に、レノは先ほどまで全速力で泳いできたため、びしょ濡れだった。彼女はレノの左腕を見て最初は悲鳴を上げたが、事情を話すと納得したようだった。彼女は気を落ち着かせてから、悔いを開いた。
「ねえ、最後に会ったときに、あなた言ったわよね? 君のためだったんだって」
レノは頷く。
「あれって、つまり、どういうことだったの?」
彼女は言い辛そうだったが、既に答えに察しがついていると、レノは感づいた。
だが、レノもまた口に出そうとして言葉が詰まった。無駄だとわかっているだけに、余計に情けなくなる。
「……つまり、君のことが、好きだから。今だって、そうだよ」
精一杯振り絞ったつもりだったが、自分でも消え入りそうだなと思えるくらい小さな声だった。
彼女の反応は、レノの予想通りだった。彼女は顔を逸らしながら、必死に言葉を探っている。そして、彼女は開き直ったのかいきなり頭を下げた。
「ごめんなさい。私、別にあなたのことが好きだったわけじゃないわ。ただの興味本位。人間なら誰でもいいって思ってた。たまたまこの海の近くにあなたが住んでたから、ずっと眺めていただけ。そしてあなたが溺れてたから、いい機会だって思ったの」
彼女は淡々と事実を述べた。レノは黙って続きを待つ。
覚悟していたことだが、いざ言われると心にずっしりと圧し掛かってきた。徐々に踏みにじられていく感覚に、目眩までする。
「本当はあなたの気持ちだってわかってた。この人、私のこと好きなんじゃないかって。それに付け込んで、あなたを介して人間のことを知ろうと思ったの」
「……うん」
レノは努めて穏やかに、俯き加減に話す彼女に相槌を打った。
「本当にごめんなさい。私のせいで、あなたの手だって……せめてそれだけでも、私が魔女に頼んで、何とかしてもらうから」
「これ? いいよ別に。これは、僕の責任だから、僕がなんとかしなくちゃ」
左腕の溶解は、肘の手前で止まったままだ。だが、このままだとまた進行するかもしれなかった。レノは平静を装う自分自身に、だんだん嫌気がさしてきた。
「でも――」
「僕の方こそ、君のことを何も知らなかった。君の気持ちも知らないで、勝手に勘違いしてた。君のためにと思って魔女に魔法をかけてもらったけど、それも本当は自分のためだったんだ。僕は今まで、ずっとそういう生き方をしてきたから。他の生き方を教えてもらわなかったし、知ろうともしなかった」
今までの人生がどれだけ寂しくて、愚かな生き方だったのか。ようやくレノは気づいた。いつまでも自分で誇張した両親の――特に父の幻に縋りついて、何もしてこなかった。
父と母二人のように、自分にも何かがあるだろうと待つことしかしていなかった。そして来たものは必ず自分のものになるだろうと、確信していた。
「だから、僕のために何かをする必要なんてないよ」
彼女ははっと表情を強張らせた。レノの表情に、諦観が宿っているのがわかった。
レノ自身、己の中で決着を付けていた。初めから、彼女と結ばれるつもりで会いに来たわけではない。
「それに、僕が君のために何かしようとすると、結局は全部僕のためでしかなくなっちゃうんだ。僕が君に人間について教えるのも、本当は僕が君と話すためでしかなくて、だから……僕は、何もできない。そうしないと、また誰かに迷惑をかけることになる。この人魚の体だって、他の魚が一匹犠牲になってるんだ。彼の恋人だって、悲しませてしまった」
口にすればするほど、後ろめたさと罪悪感が心を痛めつけた。それでもレノは耐えた。これで終わりなのだと、そう言い聞かせて。
誰にも迷惑をかけることもない。今度こそ完全に世界から目を背ければいい。レノは横目で崖の上に立つ白い家を見やった。改まってみると、
「でも、僕が消えればこの魚は元通りになる。そして、最初から君と僕は出会わなかった。これで全部元通りだ」
全てを言い終えて、レノはひどく憔悴していた。同時に、気が楽になった。これで元通り――終わりだと思うと。
しかし、彼女は険しい顔つきをしていた。
「腕」
「え?」
「腕に白いのがついてる。左の方の先っぽに」
レノが慌てて確認すると、そこには塩がこびりついていた。先ほどまではなかったはずである。
「さっき話を聞いたからわかるわよ。涙を流せないあなたは、代わりに体が消えていくって。ねえ、それも自分のためなんじゃないの?」
レノには返す言葉がなかった。呆然と、溶けていく左腕と彼女を交互に見つめる。
「それに、泣いてるってことは悲しいってことでしょ? 何が悲しいの? はっきり言って、目の前で悲しまれるのはかなり迷惑よ。あなたが自分のために勝手に消えようとしてるのが、私にとって迷惑でしかないわ」
「…………」
「大体、私のためにすることが自分のためにすることになっちゃうって何? 意味わかんない。私のこと好きなんでしょ? あなたがそれに満足するのって、当然じゃないの? あなたが私に人間について教えてくれたのは、二人のためなんじゃないの?」
「二人……?」
記憶が、音も立てずにレノの頭に浮かび上がる。
どうして父は母を口説いたのだろう。
どうして一緒に暮らして、結婚したのだろう。
どうして父は、自分に優しくしてくれたのだろう。
老人は? 酒場で知り合った人達は? 自分は?
「二人の、ため」
「そうよ。あなた、ずっと独りぼっちだったから知らないだけなのよ。変に考えなくたっていいの。あなたみたいに考えてたら、誰かと誰かが愛し合うことなんて絶対無理」
彼女は熱をこめてまくし立てながら、どんどん距離を詰めてきた。
「じゃあ、僕はどうすれば……」
「言っておくけど、あなたが消えるのは私のためにならないからね」
レノはますます混乱し、思わず頭を抱えた。考えなければならないことが山ほどある。彼女のために消えることは許されないし、魚のために彼を切り離さなければならない。どちらも綺麗に解決することなんてできる気がしない。それこそ魔女に頼むしかないだろう。
悩みに悩むレノを見かねたのか、彼女は手を叩いて注意を向けた。
「そうやってあなた一人で考え込まないでよ。ちゃんと話し合いましょ? あなたと私と、あと彼の恋人の魚と、あと魔女と一緒に」
「ええ?」
「正直私だって何も思いつかないのよ。だから話し合うんじゃない。一緒に探しましょうよ」
「わ、わかった」
そこでようやく、意外と彼女も強引だということをレノは知った。
二人は急いで海に潜ろうとして、海面が赤くきらめいているのに気づいた。
空を見上げると、いつの間にか夜空ではなくなっていた。
海とは反対の、陸の方から、日の光が空を照らし始めている。
それは、レノが初めて見る夜明けだった。
いかがでしたでしょうか。これにて完結です。
打ち切りみたいじゃねーか!と思われるかもしれませんが、そのつもりはありません。もしそう思われた方がいましたら、少し私とお話してみませんか?