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レノの夢

  ○



 レノは夢を叶えた。

 二十年前から心の中で思い描いてきた景色の中に、遂に足を踏み入れた。

 小さいけど、二階建ての家。

 街や村から遠く離れた、陸の端っこにある二つの崖、その一方の上に建っている。昔はこの付近も、人々で賑わっていたらしい。二つの崖は入り江を形成しており、もう一方の崖にはもう使われていない灯台がそびえている。

 崖に挟まれた海岸線は弧を描いていて、窓から眺めていると潮の満ち引きによって月の様に砂浜の形を変える。

 しかし、レノがもっと好きなのは西の窓から見える日没だ。

 窓際に置いた小さな椅子に腰掛け、コーヒーを注いだカップを片手に日が海へと沈んでいくのを眺める――それがレノの夢だった。

 海には父と母がいる。父と母の悲しみがある。そこに向かっていく太陽は、自分自身だ。孤独に浮かぶ太陽の拠り所、帰るべき場所。

 レノは熱いコーヒーを飲みながら、過去を振り返った。過去には父と母がいる。父と母の喜びがある。レノは太陽のようにまっすぐ、内側から吹き零れる回想に沈んでいく。


 レノが五歳の頃、父が初めて海へと連れて行ってくれた。太陽が空を真横から赤く染めていて、今にも海の向こうへ落ちていきそうだとレノは思った。

 時間帯のせいか、レノと父以外に人はいない。父が砂浜に腰を下ろしたので、レノもその隣に座った。潮風に前髪が揺れる。太陽が少し眩しくて、レノは海を眺めることにした。ぐらぐらと波打つ海面に、日光が散り散りになって浮かんでいる。沖にぽつんと尖った岩礁が一つだけ飛び出していて、レノが気づくのとほぼ同時に、父がそれを指差した。

「昔あの岩の近くでな、一人の女性が溺れていたんだ。丁度これぐらいの時間で、俺も釣りを終えて帰ろうかというところだった」

 父が母の話をしているのだろうということはすぐにわかった。母は先日、病気で亡くなった。レノは泣きそうになったが、父が涙を堪えているのに気付いた。母を奪った世界から目を背けることで、レノも涙を流すのを我慢した。

「今思うと、どうして助けを呼ばなかったんだろうな。ただ服を着たまま海に飛び込んで、彼女の元まで泳いだんだ。手を掴んで引き寄せて、あの岩に二人でしがみついた。そしたら急に彼女の方が怒り出したのさ。私死ぬつもりだったのにって。目が真っ赤で、どう考えたって泣いてた。彼女が嘘吐いてることぐらいすぐにわかったよ」

 レノがどうして嘘だとわかったのかを尋ねると、「そのうちわかるようになるさ」と頭を撫でられた。

「それから砂浜に戻って、こうして二人並んで、しばらく夕日を見ていたんだ。どうしてだか、俺も未だにわからん。ただ、お互いにそうしたかっただけだったんじゃないかと思う。すると彼女が独り言みたいに身の上を話し始めた。俺は黙って聞いていた。時たま頷いたりしたけどな」

 父がそう言うので、レノも黙って頷いてみせた。しかし父は、先ほどからずっと夕日を見つめている。少しだけ、若返っているように見えた。

「男に騙されたんだとよ。ある日突然、男と金だけがなくなってたらしい。残ってた家も既に売却済みとかだったらしくて、どうしようもなくなったんで海に沈もうと思ったんだってよ。そこまで話して、彼女はまた泣き出した。その後俺がどうしたと思う?」

 そこでようやく父と目が合ったような気がした。帽子を被っているせいか、父の目元がよく見えない。

 しかし口元は笑っていた。レノもつられて曖昧に微笑む。父の笑顔は、どこかいつもと違っていた。うまく見えないせいじゃない。

「どうしたの?」

 レノは父の様子が気になってそう言ったのだが、父は自分の話に乗っかってきてくれたものだと勘違いしていた。

「あろうことか、俺は口説いたのさ。男に捨てられたばっかりの彼女をな。どうかしてたと思う。あのとき、彼女に優しい言葉だけをかけたくなかったんだ。レノ、お前にもいつかくるかもしれない。同情するだけじゃなくて、抱きしめて自分のものにしてやりたいと思うような女性が現れるときが」

 レノには想像もできなかった。今までまともに女の子と話したこともなければ、好きになった子もいない。

 父は構わず、どんなふうに口説いたかを語っていた。最初は避けられていたが、徐々に二人でいる時間が多くなり最終的には結婚した。

 ひとしきり話し終えた頃には、日は半分以上沈んでおり、だんだんと空の反対側から夜が押し寄せてきていた。

 波の音が、時を見計らっていたかのように二人を現実に帰した。父は思い出に耽っていて、レノは何も考えずに海を眺めながら、彼の話に耳を傾けていた。

「なあレノ」

 その呼びかけには、不思議と力がこもっていた。レノは思わず背筋を伸ばし、父を見た。泣いている。泣きながら笑っている。

「お前はあの太陽だ。俺と母さんの元にやってきてくれた幸せそのものだ」

「うん」

 レノは頷いた。風はいつの間にか湿り気を帯びていて、少しべとべとしていた。

 ――ここで誰かと出会うのかもしれない。

 レノに、一つの目標ができた。いつかこの近くに家を建てて、夕日と海をずっと眺めていたい……。

 働ける年齢になってから、レノは一心不乱に働いた。

 友達も作らず、ろくに誰かと話しもせず、父の言葉だけを信じて働いた。レノにとって父の言葉だけが全てだった。

 五年後に父が馬車に轢かれて亡くなり、以来レノは街を嫌った。レノが仕事を休んだのはその日だけであり、それを境にレノは労働時間を増やした。父が残した言葉だけを頼りに、一刻も早く夢を叶えなければという思いに駆られたのだ。

 その嫌いな街で更に五年働いて、貯まった金で家を建てた。レノは二十五歳になっていた。

 それから一ヶ月が経った。レノは魚を釣り、それを嫌いな街で売って生計を立てながら暮らしている。



 窓の外が夜になると、レノは回想からゆっくりと現実に浮上する。

 太陽がレノの思い出を映す鏡であったかのように、その鏡が没すると同時に席を立つ。壁に立てかけてあった釣り竿と桶を持って外に出る。

 崖の反対側にある傾斜を下り、砂浜に降りる。近くに引き揚げておいた小さな舟に乗って沖へ向かう。

 釣りに関して、レノは自分で決まりを作っていた。尖ったあの岩礁より先には出ないようにする。流されたら、すぐさま引き返す。餌は以前釣った魚の肉を使用する。食用でなければ海へ返す。

 レノはそれらの決まりごとを全て守った上で、淡々と魚を釣る。大漁の日もあれば一匹も釣れない日もあるが、それがレノの感情に左右することはなかった。釣りは金を稼ぐためではなく、生きるためにする仕事だ。昔からの夢を維持するための代償でしかない。

 釣った魚は巨大な桶に海水ごと入れて、早朝に街で売る。レノの魚はほとんどが生きたままであり、時々魚同士で食い合っている。だが新鮮で、値段もおそろしいほど安い。昼頃にはほとんどの魚が売れるが、儲けはほんのわずかだ。レノにはそれで十分だった。魚を売りながら、今日も夕暮れにならないかと待ちわびるだけだ。

 夕暮れが近づくと、レノは店を畳んで家に戻る。売れ残った魚は食料になる。そして窓の外から日が沈むのをただ眺め続ける。

 だから、レノは曇りや雨の日には外に出なかった。窓を閉めて、ひたすら次の日が来るのを待った。何日悪天候が続こうと、レノは青空が広がるまで家に籠り続けた。雨の日は海が荒れる。毛を逆立てて暴れる野獣のような海には、誰もいない。

 父も母も、そこに向かっていく自分自身も。



  ●



 いつも彼のことを見ている。

 岩陰に隠れながら、遠くにいる彼のことを。

 彼は、私の憧れだった。優雅に佇み、じっと何かを見つめている。

 その姿に私は恋をした。それは決して許されなくて、きっと叶わない。ただ心に突き刺さる、永久に引き上げられることのない釣り針のように、私に痛みしか与えない。

 彼が私を見つめてくれたら、どんなに幸せだろう。

 彼の隣にいられたら、散々嫌ってきた自分をどんなに誇れるだろう。

 この醜い(うろこ)がなければ。このみすぼらしい(ひれ)がなければ――そう思う度にどんどん自分を嫌いになって、彼のことを好きになる。

 今日もまた、彼は向こうへと行ってしまう。私が辿りつけない、見ることさえできない向こう、彼の住処に。 

 そして私は、また明日を待たなければならない。

 ひたすらもどかしく、永遠のような時間。まるで広大な海が私の周囲に凝縮したかのように、濃密な独りぼっちの時間。


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