天井裏の妖怪娘
東京都杉並区某所。
神田川まで歩いて五分、可はなく負荷はなくも無い、ごく普通の一般家庭にありふれた二階建て一軒家、僕ら葛木家の住む家の天井裏には、妖怪が住んでいる。
「・・・・・・少年よ」
具体的には今、リビングの天井、僕が座るソファの真上に空いた(或いは開けた)穴から顔を出して僕に話しかけている奴がそうだ。
名前は、天井ハクという。
外見は十代後半の少女、我が家の天井裏に生息していて、時折天井に空いた穴から顔を出すが、その際1メートル以上はあると思われる長さの黒髪が垂れ下がって来て若干、いやかなり鬱陶しい。
外見は人間だが、幾つかの妖怪じみたスキルを所持し、それを加味するととても人間とは思えない。妖怪であることを本人は自称しているが、自分は何の妖怪なのかはさっぱり分からないとのこと。
ちなみに、我が家に生息するようになったのは一年ほど前から。
妖怪のくせにやたら現代風な服(僕の姉の私服)を着ている。
何ゆえ平凡な高校生に過ぎぬ僕が妖怪と同居するにいたったか、その話はまた別の機会に。
「なんだ妖怪娘」
僕はテレビから目をそらすことなく答える。
頬を掠る彼女から垂れた長髪が鬱陶しい。
「おなかがすいた」
「知るか。母さんに言え」
母親を始め、僕の家族はこの妖怪少女を本当の家族であるかのように扱う。
もう一人娘が欲しかった、とかいって若干甘やかしている感はあるが。
「わかった」
ハクは短く答えると、ズズズと引きずる様な音を立てながら穴から滑り落ちてきた。
彼女の移動に伴い長い髪がざわざわとうごめいて気色悪い。
そして彼女はドンという音を立てて頭から床に着地。
「~~~~~~~~~~~~~!!!!」
頭を押さえてひとしきり痛がり、のたうちまわってからふらつきつつ立ち上がる。
「・・・・・・・」
なんというか、なあ。
「なあハク、お前って『天井裏に住む』系の妖怪なんだよな?」
「そうだけど」
「その妖怪があっさり天井裏を出てきてしまっていいものなんだろうか」
「・・・・・何をいまさら」
確かに、一年一緒に暮らしておいて今更といえば今更なのだが、どうも納得いかない。
彼女がウチに来てから、俺はその正体を暴くべく妖怪に凝った時期があった。
凝った、といってもそんな本格的なモノじゃなくて、妖怪を取り扱った小説を読んだとかそういうレベルだが。
ただ、『屋根裏の妖怪』を自称するくせに空腹ごときであっさり出てくる女の話などというのは欠片も発見できなかった。
一体、コイツは何なんだろう。
一年たった今でも、答えは出ない。
本人も含め、誰も彼女が何の妖怪なのか、そもそも妖怪なのか、真相を知らぬままだ。
「どうやら母殿は留守の様だわ」
いったんリビングを出てったハクは、数分後戻って来て言った。
先ほど、僕の母親は『ちょっと買い物言ってくるね』と姉をひきつれて出て行ったのでいないのは当然だし、僕はその瞬間をばっちり目撃してかてて加えて留守番を頼まれたりもしたのだがこれは言わない方がいいだろう。
「それは残念だったな。天井裏に帰れ」
僕はやはり、彼女の方を向くことなく答える。
「一回出てくると戻るの面倒なのよ」
「じゃあなんで天井に住んでんだよ」
「それは私がそういう妖怪だからでしょ」
「説明になってねえだろ」
「でも・・・・母殿がいないのなら仕方ないか」
「そうだ、帰れ帰れ」
「お前、なんか作れ」
「断る」
なんで僕が作る流れになるのか。意味不明すぎるだろ。
「じゃあ、なんか出せ。お菓子とか」
「・・・・・・・」
これ以上論争を続けるのが面倒だったので、僕はソファを立つと、テレビの電源を切ってダイニングに行き、戸棚を漁る。
「ほら、これでいいだろ」
そして適当に見つくろった菓子をハクに投げつける。
ハクはそれらをすべて器用に片手でキャッチすると(いや、器用なんてレベルじゃなかった。残像で腕が三つに分かれていた)なぜかあきれ顔で呟いた。
「・・・・・・・ラスクか。まあ悪くないかな」
「お前は一体何様のつもりなんだろうな」
「感謝はしている。このうちに来る前の私の主食は鳩と鼠だったし、住処は駅だった」
駅の天井から出て来て、鳩や鼠を捕食する・・・・・。
なかなか妖怪らしい、ホラーな光景だ。
まあ妖怪らしさがない方今のが、同居している身としてはありがたいが。
「甘いもの大好き」
ハクは心にもなさそうなことを言ってラスクを平らげると、僕のあげたラスクだけでは足りなかったのか、戸棚を自分で漁りだす。
そんなハクを横目にポットの熱湯をカップに注ぐ。こげ茶色の顆粒状の物体が熱湯に溶けいき、世間一般で言う所の所謂『インスタントコーヒー』という奴が完成する。
粒だった時はこげ茶だったのに、溶けてしまった後は取り付く島のないくらい真っ黒だ。
それを砂糖もミルクも入れずに、少し啜る。
苦みよりも酸味が強調された味が口内を駆け抜ける。いや、駆け抜けずにだいぶ後味を残して行った。自分で持ってきたものは責任を取って持って行って欲しいものだ。
「というか、自分で漁るくらいなら最初から僕に頼むなよ」
コーヒーを飲んで少し目が覚めたからかどうか知らないが、気がついた事をハクに言ってみる。できれば、飲む前に気が付きたかった。
この年にして若干、脳に老化の兆しが見える。
「面倒くさかった」
「たいへん正直でよろしい」
いや、全くもってよろしくなどない。
ハクは喋りながら(新たに取り出してきた)ポテトチップスを頬張るので、大量の破片がこぼれて床に散る。また、いくつかは彼女の服に付着して汚す。
「あんまりその服汚すなよ、姉さんのなんだから」
ちなみに、彼女が最初に俺と出会ったときはTシャツにジーパンという割と質素だが、近代的な格好をしていた。
しかしそれを僕の姉が容認せず、『女子なんだからもっとこう、ねえ!!』などと殆どないと断言して差し支えないボキャブラリーを絞りつくした言葉を叫びながら、彼女にお洒落の大切さを説き、そしてまさかそれに感化された訳ではないだろうが以来、彼女は姉の服を借りて着ている。
彼女は俺の指摘に、自分の着ているものを一瞥したあと、肩を竦めて言った。
「全く持って大問題ね」
「そこは嘘でも問題ないくらいのことを言っとけよ」
お互い、わかっていてもつくべき嘘ってあると思う。
「だいたい、喋りながら物を食うなよ。行儀悪いし、まわり汚れるし、マナーのなってない幼稚園児でもそこまで周囲を汚さねえよ」
何せ、本当に喋りながら食べようとしている。喋るために開閉している口にポテトチップスを入れるのだ。当然破片も飛ぶし、寧ろきちんと口の中に納まる方が少ないと思うんだがどうだろうか。
「HAHAHA」
「米国風に笑ってごまかすんじゃない」
「お前との会話を中断するのはちょっと惜しかったから、食べながら喋ると言う折衷案を考案したまでよ」
会話を中断するのが惜しかったからって・・・・べ、べつにそんなこと言われても全然嬉しくなんかないんだからね!!!(本音だ)。
強いて言うなら、なんかムカつく。
「たぶん、お前の考案したその折衷案とやらは、最悪に間違ってるぞ」
「いい案だと思ってたんだよ。二秒前まで」
「せめて考えを貫き通せよ」
そういう間も、ハクの手は止まることはない。
せめて喋っている間はその右手を止めろ。
「そう言われても」
「じゃあどういえばいいんだよ」
「知らないよ」
「・・・・・・・・・」
ほんと、どうしろというのか。
一体、神様は何が目的で、僕にこんなやるせない人生を歩ませているのか。
「人の人生を決めるのは、神様じゃなくて自分自身の選択じゃない?」
「・・・・・・・・・・勝手に人の心を読むな」
物の例えとか偶然ではない。本当に心を読まれたのだ。
あと、ちょっといい感じの台詞で誤魔化そうとするんじゃない。
「ごめんなさい。やむをえなかったの」
すると、目の前のハクが悪びれもせずに答えた。
それにしても、一体何をもってやむを得なかった、などと主張するのか。
ハクの所有する通称『妖怪スキル』その1、テレパシー。
人の心を読んで、尚且つ自分の『声』を飛ばすことのできる便利な能力だ。が、そもそも天井裏に住む妖怪のどこにテレパシーが必要なのかと思う。
あまり深く考えない方が良いのかもしれないが。
「勝手に読むなって言ったろ」
「・・・・・お母さんに自作のポエムを発見された中学生みたいなことを言うのね」
言うよ。てかどっから出てきた例えだ。
被害の規模で言えば、心を読まれるほうがよっぽど酷いわけだし。
中学生の自作ポエムは一時的な症状の場合がほとんどだが、心は何時でも自分が所有している訳だし。
「偏見でモノを言うなら中学生は恥をかくためになる様なものだけど」
「お前、中学生になったことないだろ。青春全盛期の彼らに謝れ」
ただ、恥をかくためになるのではないにしろ、中学生が長い人生の中でも、多くの場合『黒歴史』として語られるため一概に否定できないのは僕もおおいに共感する。
自作ポエムだけじゃない。中学時代には、後々振り返るととてつもなく恥ずかしい落とし穴が無数に広がっているのだ。
とくに、自作シリーズ(ポエムのほかには、映画とか、漫画とか、小説とか、『友情の証』とか)は一生もののトラウマなんかも潜んでるから気をつけるべきだ。
「・・・・・・なんだか、実体験でもあるかのような口ぶりね」
「あるさ。あの頃は僕も若かった」
ここでうっかり、当時を振り返る様な真似をしてはいけない。
ハクに心を読まれたりしたら、洒落にならないからだ。
「今でも若いでしょ」
「昔ほど若くはないさ」
「それはまあ、昔より若い奴なんていないでしょうけど」
思い返してみれば、当時の僕はまだ表情の変化はあった気がする。
少なくとも、今の様に『無表情過ぎて怖い』とか『何考えてんのかわかんない』とか言われた事はなかったはずだ。
否、当時からそう思っていたが声に出してなかっただけの奴がいなかったとは限らないが、声に出されなかっただけマシだったと考えるべきだろう。
「マシなの?」
「マシだろ。正面切って言われる今の現状より、余程楽だった」
「確かに、知らぬが仏、なんて言葉もあるわ」
「妖怪のお前が仏をどうこう言うのも妙な話だと思うけどな」
「妖怪も仏にすがりたいときだってあるのよ」
妖怪云々というか、ハクが仏にすがっている姿が想像できない。
「おなかは満たされた。私はもう寝たいから椅子を持ってこい」
とんでもねえ命令口調で言われた。
ちなみにこれは、彼女が椅子で寝る、という意味ではない。
寝床である天井裏に戻るのに、彼女だけだと身長が足りないので椅子を使わないと戻れないのだ。・・・・・本当に、何で天井裏に住んでるんだろう。
「・・・・・・・・・ほら」
一足先にリビングに戻ったハクに、僕はダイニングから持ってきた椅子を渡す。
「ありがとう」
彼女は意外と素直にお礼を言うと、その椅子を踏み台にして穴の中へと戻って行った。
「・・・・・・・・・」
ちなみに、我が家の天井裏は彼女の生活圏であるということもあって、定期的に掃除がされているので割ときれいだったりする。
下手すると、僕の部屋よりも綺麗かもしれない。天井裏のくせにフローリングになってるし。ワックスとかかけてあるし。
その後、僕はハクが食べこぼした(寧ろ食べ散らかした)ポテトチップスの破片を適当に片付け、『ボランティア』とか『責任転嫁』とか『代替行為』という言葉について数分の黙考をしてみたが大した成果も得られず、手持無沙汰になってしまったのでテレビをつけてもみたが、先ほど見ていた番組は既に終わっていたし、チャンネルを何回かかえてみても興味の引かれる番組は無かったので、二階の自室に戻ることにした。
・・・・・・そういえば、姉の服を汚して着たままだな、あいつ・・・・・。
ふと、そう思ったがもう考えないことにした。
そこまで面倒をみてやるほど、僕はお人よしじゃない。
・・・・が、まあ、メッセージくらいは残しておいてやろう。
先ほどハクが天井裏に戻るのに使った椅子に乗り、穴に顔をつっこんで言う。
「とりあえず、汚れた(いや、汚したと言うべきか)服は洗濯カゴに入れて、新しいのに着換えろよ」
うー、だか、あー、だかよくわからないが取り敢えず呻くような返事が聞こえたので、僕は椅子から降りて元の場所に戻すと、再び自室に戻ることにした。
僕の部屋は、まあ雑多なわけでも簡素なわけでもない、ごく普通の部屋だ。
机の上は適度に散らかってはいるが何が何処にあるのか分からないほどじゃないし、本棚にしても漫画と小説が半々くらいの割合で、特に法則も無く適当に入れてある。
ベッドがデカイわけでもないし、箪笥とかも普通サイズ。
唯一奇妙な点と言えば、部屋の天井(ちょうど僕のベッドの真上にあたる位置)に人が一人通れるくらいの穴が開いていることだが、それがハクの出入り用の穴であることは言うまでも無いだろう。
我が家には、ハクの出入り用の穴が何箇所か存在し、ハクはその穴を通じて家じゅうを縦横無尽に駆け巡る事が出来る。一階屋根裏と二階屋根裏の間の移動も、どういうわけかお手の物だ。
『屋根裏間ワープ』(母銘々)はハクの妖怪スキルその2である。
テレパシーに比べれば、だいぶ『天井裏の妖怪』っぽいが、それでも彼らに、屋内を自在に移動できる能力が必要なのかという疑問はのこる。
まあ、文献なんかで登場している場合、時代は殆ど江戸時代以前だから部屋が複数ある家の方が少ないため、そう言った能力の描写の必要があまりなかったという事情はあったろうが。
ハク曰く、『一か所じゃ飽きる』とのこと。
そういうものなんだろうか。
特にやることも無かったので、久しぶりに本棚から妖怪関連の本を引っ張り出して来て、幾つか流し読みしてみる。
・・・・・・・天井裏に関係する妖怪の数自体は、けして少なくない。
が、やはり彼女と合致すると思しき妖怪は見つけられなかった。
まあ、期待していたわけではなかったから、落胆はしなかったが。
『ただいまー』
どうやら、母親達が帰ってきたようだ。
僕は先ほど広げた書籍を適当に本棚に戻すと、再び一階へと降りる。
恐らく、最初に取り出した時とは場所も順番も全く異なっているだろうが、そんなことは全く気にしない。究極的に、書籍の場所は僕一人が把握できればいい訳だし。
「おかえり」
「あ、ただいま。いろいろ買ってきたよ」
リビングに戻ってみると、母親と姉が大量の紙袋をテーブルに置いて、一息ついているところだった。
「今晩のおかずとか明日の朝食とか雑誌とか、洋服とか、色々買ってきたよ」
聞いてもいないのに、姉が色々と喋る。
僕の姉は確かに血のつながりのある姉のはずなのだが、性格には大きな隔たりがある。
無感動が基本の僕と違い、姉は鬱陶しいくらいに感情豊かだ。あと、よく喋る。
「もーねえ、今日たまたま入ったお店でハクちゃんにぴったりな洋服見つけちゃってテンション馬鹿上がりで思わずその場で叫び出しそうになったくらいだったんだけど次に入った店で今度はすごく可愛い小物見つけちゃってもうこの時点でやばいじゃん?かなりやばいじゃん?とか思ってたらもう最後にたまたま寄った本屋にほら!!!これ!!!なんだかわかる?さあ何でしょう?正解はARASHI(今、全国的に売れているアイドルグループの名前・・・・・らしい)のインタビュー特集雑誌でしたイェエエエエエエエエエエ!!!もう私テンションMAXでヤバいのなんのってその場で叫んで踊って半狂乱に喜んで・・・・・って流石にそこまではしてないけどもうヤバいテンションあがっちゃって!!!ヤバくないコレ凄くない!?」
「・・・・・・ああ、そうだな」
僕は一言だけ返して、買ってきたものを整理する作業の手伝いに戻る。
このテンションを相手にするのは、正直キツイ。僕でなくてもキツイに違いない。
それにしても最後の『凄くない!?』は一体なにが凄かったんだろう。
姉はまだ横で喋っているが、僕はもう意識を全くと言っていいほど向けていない。
「はい、卵」
買い物かごの中から卵を取り出し、冷蔵庫前で待機する母(なぜ構える)に手渡す。
「へい卵入りまァす!!!」
まあ、姉に意識を向けずとも母親もこのような有様なので、心労の度合いとしては大差ないかもしれないが。
もう年齢的にも若くないだろうに、葛木家の母は動悸息切れ、そう言ったものとは無縁だ。
『救心』に救われるまでも無い。
その元気ぶりからして姉の性格は完全に母親譲りと言っていいだろう。
ちなみに、僕のは父親譲りだ。彼についてはまた後で話す機会があるだろう。
手伝いの内容は至ってシンプルで、買ってきた荷物の中から食材だけ取り出して冷蔵庫前で待機している母親に渡すだけだ。
「パセリ」
「へいパセリ入りまァす!!!」
「トマト」
「へいトマト入りまァす!!!」
「キャベツ」
「へい半玉入りまァす!!!」
「キュウリ」
「へいキュウリ入りまァす!!!」
「豚肉」
「へいバラ肉入りまァす!!!」
「・・・・・・・・・・」
が、買ってきた食材が全て冷蔵庫に入るまでずっとこの調子なので、付き合う側の心労はなかなかのモノだ。大体、何でいちいち叫ぶんだ。
普段からうるさい母娘であるが、どうやら今日は一段と調子が良いらしい。
騒音で頭がわれそうだ。
「大体整理はできたわ。ありがとう息子よ」
「・・・・・・どういたしまして」
どうも耳の調子が悪い。
母親と姉、二方向からの大声を聞かされ続けたからだろうか。
あと、頭もちょっとぐらぐらする。
「・・・・・ちょっと寝てくるわ・・・・・・」
一言いい残して、僕は二度目となる、自室へと向かった。
その後、僕が眠ってしまった後の我が家の盛り上がりは相当なものだったらしい。
僕は眠ってしまい、父は会社で帰宅が遅かったので、母親に姉、そしてうっかり起きてきてしまったハクを交えた三人での夕食(何故僕は起こされなかったのか、疑問ではあるが)は主に母親と姉が相当な盛り上がりを見せたらしく、それに付き合ったハクは僕以上の心労を味わうことになったらしい(本人談)
翌朝、なんだか顔中がくすぐったいなと僕が目を覚ますと目の前に逆さづりになった黒髪の少女が目の前にいて、心臓が止まりそうになった。
冷静になってみればなんのことはない。ただのハクである。
「・・・・・・・朝からどうした」
幾ら見慣れていてもやっぱり寝起きにみると驚くものなんだなぁ、とか割と覚醒してきた頭で考えながらハクに言う。
僕のこの一年の経験則から言うなら、朝から僕の部屋にハクがいるのは割と珍しい。
というか、初めてじゃなかろうか。
「おはよう」
ハクは僕の問いに答えることなく、短く言った。
「・・・・・・・おう」
本当にどうしたと言うのか。ハクが僕に対して挨拶をするなんて。
昨日までとんでもなく雑な扱いだったのに(母さんは母殿で姉さんは姉殿、父さんは親父殿なのに僕だけお前呼ばわりだ)。
戦々恐々とする僕の胸中を知ってか知らずか、ハクは無表情だ。怖いよ。
「母殿が朝食を準備している」
「・・・・・・・おう」
なんだ、何をたくらんでいる。
母親が朝食を作っていることなど、分かっている。
毎朝、僕が起床して制服に着替えてリビングに行けば大抵朝食が用意してあり、そこから時間を逆算すれば僕が起床する時間帯には母親は既に朝食の準備をしているという結論に至るのは非常に容易だ。今日は日曜なので母親もいつもよりは遅い時間に準備をはじめたことだろうが。
いや、そういうことではなくて。
余りにも前例のなさすぎるせいか、上手く思考がまとまらない。
「今日はいい天気だな」
「・・・・・・おう」
なんだ、急に話が飛んだぞ。
本当に目的が見えなくなってきやがった。
他人からよく『動じない奴』と言われ、その自覚もあった僕だが、正直自分がポーカーフェイスを保てているか自信がなかった。
ここまで精神的に動揺したのは人生で三度目くらいかもしれない。
ちなみに一度目は小学校の頃体育の松崎先生(三十五歳男。筋肉の塊のようなボディをしたヒゲダルマだった)を間違って『お姉ちゃん』と呼んでしまった時、二度目はハクに初めて会った時だ。
今気がついたが、今回含めると僕のこれまでの十数年の人生の中の、貴重な『動揺した瞬間』のうち三分の二はハク絡みということになる。ろくなもんではない。
今回含めなければ二分の一だ。ますますろくなもんではない。
「今日も、お前は学校はないのか」
「・・・・・・・・・おう。に、日曜日だからな」
今度は僕の予定を聞きだした。
とうとう僕を喰う為のスケジュールでも組み始めたか(いや、喰う為のスケジュールってなんだよ)。
「そうか・・・・・・・」
呟いたきり、ハクは黙りこんでしまう。
彼女がぶら下がったままだと、僕が体を起こせないので出来れば考え事は天井裏に戻ってからしていただきたいのだが、彼女にその気配はない。
というか、さっきから垂れ下がった髪が僕の顔面にかかってくすぐったいやら鬱陶しいやら。割合としてはくすぐったさが3に鬱陶しさが7だ。
そもそも、前々から思っていたのだが彼女はあんな逆さ吊りになっていて頭に血が上ったり、気分が悪くなったりしないのだろうか。
我慢しているのか、慣れているのか、それとも妖怪特有のメカニズムが働いているのか。
最も有力な説は最後のだ。
「そうか、ありがとう。じゃあな」
突然、ハクはそう言い残すとまたねぐらである天井裏へと帰って行った。
結局彼女の真意は分からずじまいではあったものの、取り敢えずこの場を切り抜けることはできたようだった。いや、切り抜けるとは言わないか。命の危機にさらされていたわけでもあるまいに。
ただ、異様に緊張したのは事実だ。
のちに、ハクのこの不可解な行動は僕の母と姉が彼女に施した、『一夜限りの特別講習』が原因であると言う事が判明し(また余計なことを)、ああ、だから昨日はあんなにテンション高かったんだなあと非常にどうでもいい部分で納得した僕だったが、結局最後まで(いつまでだ)、その特別講習とやらの内容は知らずじまいのままであった。
まあ、そちらの方が僕にとってはよかったかもしれない。
知らぬが仏、などという言葉もあることだし。
どの道、それから十分と経たないうちに、そんなことは気にしていられないほどの非常事態に巻き込まれることになる訳だし。