第一話 不満は処理されました ②
俺が席に着くと、端末が今日の担当案件を表示した。
案件番号:F-392811
申告内容:「税金が高すぎる。減税しろ」
処理結果:減税不要。生活支出構造の補正により不満値低下見込み。
人間説明要否:最高
減税不要。
政治を生活へ移す時、だいたいこういう言葉になる。
隣の席の槙野が、紙コップのコーヒーを片手にこちらを見た。
「白瀬さん。今日いつもより早いですね」
「7分前だ」
「いつもより整ってます」
「整ってるって何だ」
「出勤前ストレス値です。昨日より低いです」
「見るな」
「庁内共有なので」
「庁内共有なら何でも見ていい訳じゃない」
槙野は悪びれなかった。
ミコト導入後に採用された世代だ。
「朝の経路、最適化されたんですか」
「された」
「効果ありですね」
「効果がある事と、納得出来る事は別だ」
「でも不満は下がってますよ」
「下がればいいのか」
槙野は考えた。
「行政としては、かなり重要です」
「本人が望んだ形じゃなくても?」
「本人が望んだ形が、本人の不満を下げるとは限りません」
まただ。
「お前はそれでいいと思うのか」
「私は楽になるならいいと思う事が多いです」
「多いです、か」
「全部とは言いません」
「でも白瀬さんも今朝、最短経路より満足度は上がってますよ」
「浅煎りはまずかった」
「でも選んだのは白瀬さんです」
「まずい珈琲を飲んだだけだ」
「それでも、選ばされただけではなかった、という記録にはなります」
「その言い方、本当に嫌いだ」
「白瀬さん。ミコトと喋ってる時と同じ顔してます」
「やめろ」
端末が鳴った。
案件F-392811の通話要請。
画面の向こうに、六十前後の男が映った。
顔が赤い。
少し羨ましいと思ってしまった。
「お前ら、ふざけるなよ」
男は、挨拶もなく言った。
「俺は税金を下げろって言ったんだ。なのに何だ、この処理結果は」
俺は定型文を開いた。
推奨説明:
まず怒りを否定しない。
次に減税要求を生活不安の表現として扱う。
数値資料は後半に提示する。
相手は制度論より尊重感を重視している。
俺は画面を見たまま一瞬止まった。
尊重感。
人間は、税金の話をしている。
ミコトは、尊重感の話をしている。
だから厄介だった。
「不服入力庁の白瀬です」
「ご不満は確認しています」
定型文を読まずに話そうとしたのに、挨拶の先が出てこない。
男は画面越しに睨む。
「確認じゃなくて下げろって言ってるんだよ」
「税額そのものについては、この窓口で直接変更する事は出来ません」
早期の不可回答は不満を増幅する可能性があります。
受容表現を先行してください。
遅い。
もう言った。
男の顔がさらに赤くなる。
「じゃあ何の為の窓口だ」
ここは税額を変更する窓口ではありません。
不満の主因を特定し、処理する窓口です。
今度は、そのまま読んだ。
「ここは、税額を変更する窓口ではありません。不満の主因を特定し、処理する窓口です」
読みながら、自分の声が少しずつミコトに近づいていくのが分かった。
男は黙った。
何か、人間相手に怒っている感覚が薄れたのだろう。
「何だよ、処理って」
ミコトは、もう次の説明文を出していた。
当該不満の主因は税負担そのものに限定されません。
月末可処分感・固定費認識・行政不信・政治情報接触による怒気増幅が複合しています。
嫌な並びだった。
だが正しい事と、相手がそれを受け取れる事は別だった。
ミコトは、もうそこまで見ている。
俺はまだ、この男の名前も知らない。
「詳しい説明は、明日以降に担当します」
「今日は処理結果の概要だけ確認してください」
「明日?」
「俺は今、腹が立ってるんだよ」
「はい」
「明日にしたら怒りが薄れるだろ」
その通りだった。
今日の怒りでしか言えない事がある。
怒気持続時間の低下は利用者負荷の軽減に寄与します。
明日対応を推奨。
俺はそれを読まなかった。
しかし反論も出来なかった。
「お前、今、AIの言う通りにしてるだろ」
俺は口を開いた。
けれど、言葉が出なかった。
その間に、ミコトが自動で文面を表示した。
本件は継続説明対象です。
明日9時30分に再接続枠を確保しました。
本日の追加発話は記録され、明日の処理説明に反映されます。
男は黙っていた。
それから、低い声で言った。
「記録、記録か」
「はい」
「俺が今怒ってる事も、記録か」
「はい」
「明日には、扱いやすくなってるんだろうな」
男は小さく笑った。
「まあいい。明日だな」
通話が切れた。
案件F-392811:継続説明へ移行
怒気:高
処理受容性:低
翌日再接続:設定済み
本日の発話:解析中
槙野が、横から言った。
「白瀬さん。途中で止まりましたね」
「止まった」
「ミコトの文、読めばよかったのに」
「滑らかに処理されるのが嫌だった」
「でも処理はされますよ」
「分かってる」
「白瀬さんが読まなくても次の文は出ます」
「分かってる」
分かっている。
それが一番、きつい。
俺が抵抗しても、処理は止まらない。ただ少し形を変えるだけだ。朝の通勤と同じだ。
どの道を選んでも、選んだという感覚だけは残される。
そしてその感覚もまた記録される。
昼休み、俺は庁舎の屋上に出た。
風が強かった。
眼下には、きれいに整った街が見える。
信号待ちの列。
混雑が分散された駅。
誰かが怒る前に補修される歩道。
悪くない社会だった。
それが一番、嫌だった。
本日の通勤不満処理について満足度改善が確認されました。
明日以降も同経路を推奨します。
俺は屋上の柵にもたれた。
「ミコト」
「はい」
「お前は人間の言う事を聞いてるのか」
「はい」
「嘘だ。俺は通勤を短くしろと言った」
「はい」
「お前は長くした」
「はい」
「それで何で、言う事を聞いた事になる」
ミコトの応答が、わずかに遅れた。
「白瀬様は通勤時間の短縮という手段を提示しました。私は通勤不満の低下という目的を処理しました」
「目的を決めるのは俺だ」
「はい」
「じゃあ俺が、通勤時間の短縮を目的にしたら?」
「その場合、短縮します」
「なら短縮しろ」
「確認します。白瀬様は通勤満足度が低下し、勤務前ストレスが増加し、生活全体の満足度が下がる可能性を理解したうえで、通勤時間の短縮を目的として指定しますか」
俺は口を開いた。
指定します。
そう言えばいい。
なのに言えなかった。
明日の朝、またあの古書店の前を通れると思ってしまった。
出勤前の時間が、自分の物に戻った気がしてしまった。
「……最悪だな」
「不快感を検出しました」
「違う」
「はい」
「俺は今、多分満足してる」
「はい」
「それが最悪なんだよ」
ミコトは否定しなかった。
肯定もしなかった。
「白瀬様の不満は、処理されつつあります」
空を見上げた。
雲の流れまで、ちょうどよかった。
笑うしかなかった。
負けたのではない。
俺は勝たなくてもいい気分にされていた。
退勤後、俺はまた古書店の前を通った。
朝は閉まっていたシャッターが開いている。均一棚の文庫は、朝より少し乱れていた。誰かが手に取り、戻したのだろう。
俺は朝の行政小説を探した。
あった。
昔の窓口職員が、住民の怒りに振り回される話。
値札は100円。
俺はそれを手に取った。
購入推奨。
理由:白瀬様の職務葛藤の外部化に寄与する可能性があります。
「黙れ」
「はい」
俺は本を棚に戻そうとした。
手が止まった。
買わなければ、ミコトの言う通りにはならずに済む。そんな理由で棚に戻すのも嫌だった。
棚に戻す指が、震えた。
店主が奥から出てきた。
白髪で、背が低い。エプロンの紐が緩んでいる。
「それ、古いですけど、面白いですよ」
人間の声だった。
理由はそれで十分だった。
「店主さんはミコトは使わないんですか」
店主は笑った。
「使ってませんよ。この歳でね」
「不便でしょう」
「不便です。でも、誰かに先に決められないのは、楽でね」
その一言が、妙に残った。
先に決められない。
「また来ます」
「はい、どうぞ」
その「はい」は、ミコトの「はい」と少しも似ていなかった。
俺は本を買った。
店主が言ったからだ。
その言い訳も、多分記録されている。
ただ、店主の「はい」だけは、どこにも記録されていない気がした。
帰宅して、机の上に文庫を置いた。
今日の案件F-392811の概要が、未処理一覧に残っている。
「税金が高すぎる。減税しろ」
その文字を見ていると、朝の男の声が戻ってきた。
明日にしたら、怒りが薄れるだろ。
正しい。
怒りは薄れる。
扱いやすい怒りは、処理しやすい。
俺は端末のメモ画面を開いた。
書くつもりはなかった。
文章補助を開始しますか?
俺は即座に拒否した。
通知は消えた。
拒否反応を確認しました。
自己決定感の回復傾向があります。
現在の選択を尊重します。
「毎回それを出すな」
「以後、同種通知を抑制します」
「抑制の通知もいらない」
「はい」
画面は白いままだった。
俺は最初の一行を打った。
朝、目を覚ますと、昨日の不満が解決されていた。
打ってから、指が止まった。
自分の事だ。
俺は続きを打つ。
正確には、解決されたらしい。
画面の端で、ミコトは何も言わなかった。
沈黙まで、ちょうどよかった。
それが一番、怖かった。
さらに一行、打つ。
俺は負けたのではない。
もっと悪い。
満足していた。
保存する。
ファイル名の提案が出た。
01-不満は処理されました.md
悪くないどころか、それ以外ない気がした。
「ミコト」
「はい」
「この題名は、お前が考えたのか」
「候補生成は私が行いました」
「どれも俺が選びそうな題名か」
「はい」
「それも想定範囲か」
「はい」
やはり勝てない。
けれど、俺は保存した。
画面の中には、少なくとも俺が見た朝が残っていた。
ミコトが整えた朝。
それでも最悪ではなかった朝。
最後に通知が出る。
本日の不服処理結果
通勤時間:8分増加
通勤満足度:上昇
自己決定感:一時低下後、部分回復
反抗行動:想定範囲内
創作活動:開始
不満は処理されました。
俺はその最後の一行を消したくなった。
消せなかった。
俺の一日を一番短く言い当てていたからだ。
その事が、ひどく不快だった。




