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第9話 暗躍令嬢のドレスアップ

王都の裏社会を牛耳る情報ギルド『黒猫』の地下特別室。

普段は血生臭い報告や裏帳簿の計算が行われるそのVIPルームは現在、王都中から集められた最高級のドレスと宝石箱で埋め尽くされ、むせ返るような香水の匂いに包まれていた。


「……ザイオン。これは一体、何の冗談ですか」


部屋の中央で、ルチアはこめかみを押さえながら、呆れ果てた声を出した。

彼女の周囲には、王都で最も予約が取れないと言われる一流ブティックの針子やデザイナーたちが、メジャーやピンクッションを手にしてズラリと並んでいる。


「冗談じゃねえよ。今夜の王宮の夜会に『他国の豪商とその秘書』として乗り込むための、立派な必要経費だ」


部屋の奥の革張りソファで、ザイオンは極上のワイングラスを傾けながら、面白そうにルチアを眺めていた。

彼はすでに、ヴァルディス連邦の最新流行である漆黒の三つ揃えのスーツを完璧に着こなしている。少し長めの黒髪は後ろで無造作にまとめられ、モノクルの奥の琥珀色の瞳は、冷酷で知的な大商人の色気を放っていた。


「必要経費、ですか」

ルチアは、ラックに掛けられた一着のドレスのタグを指先で弾いた。


「この深紅のシルクドレス、一着で金貨三百枚。隣の総レースのドレスは金貨四百五十枚。さらにそこに並んでいる宝石類を合わせれば、総額で金貨五千枚は下りません。……ギド商会から巻き上げた資金があるとはいえ、一晩の変装のために投じる額としては、あまりにも費用対効果が悪すぎます。経費の無駄遣いです」


ルチアの完璧な正論によるお説教に、針子たちは「この美しいお嬢様は、スラムのボスの愛人ではないのか?」と震え上がった。


しかし、ザイオンは全く悪びれる様子もなく、クスクスと笑い声を漏らした。

「ルチア。お前は数字には強いが、男の『見栄』ってやつをわかってねえな。表舞台の貴族どもは、相手の着ている服の生地と宝石の輝きで、その商人の『信用度』を測るんだ」


ザイオンは立ち上がり、ルチアの元へゆっくりと歩み寄った。


「俺は今夜、あのバカな王太子に『自分たちとは住む世界が違う、底知れぬ財力を持ったパトロン』だと思い込ませなきゃならねえ。……そのためには、俺の隣を歩く秘書(ルチア)が、誰よりも美しく、誰よりも高価なものを身に纏っていなければならないんだよ」


ザイオンはルチアの銀色の髪を一房すくい上げ、その毛先にそっと口付けを落とした。


「安心しろ。これは俺のポケットマネーから出す。……だから、今夜だけは大人しく俺の着せ替え人形になってくれ。最高の『投資』だってことを、俺の目で証明させてみろ」


甘く、逃げ場を塞ぐような低い声。

ルチアは小さくため息をつき、銀縁眼鏡を外して近くのテーブルに置いた。


「……わかりました。あなたが全額自己負担するというのであれば、文句はありません。その代わり、今夜の夜会で必ず、王太子にこのドレス代の十倍……金貨五万枚以上の『負債』を背負わせていただきますからね」

「ははっ、頼もしい相棒だぜ」


ルチアが針子たちの方へ向き直ると、待ってましたとばかりにプロの集団が彼女を取り囲み、巨大なフィッティング用のパーティションの向こう側へと連れて行った。


* * *


二時間後。

「……ボス。お嬢様のお支度が、完了いたしました」


デザイナーの震えるような声と共に、パーティションのカーテンがゆっくりと開かれた。

ソファで退屈そうに葉巻を吹かしていたザイオンは、視線を向け——その瞬間、指の間から葉巻をポロリと床に落とした。


「…………っ」

言葉が出なかった。百戦錬磨の裏社会のボスが、呼吸の仕方すら忘れたように固まっていた。


そこに立っていたのは、スラムの酒場に現れた『疲れ切った公爵令嬢』でも、デスクで数字と格闘する『冷徹な財務顧問』でもなかった。

まさに、夜の闇を支配する女神そのものだった。


ルチアが身に纏っているのは、夜空をそのまま切り取ったような、深く艶やかなミッドナイトブルーのシルクドレス。

胸元は上品に閉じられているが、背中から腰にかけては大胆に深く開いており、彼女の透き通るような白い肌が滑らかな曲線を描いて露出している。歩くたびに、ドレスの裾に散りばめられた細かい星屑のようなダイヤモンドが、シャンデリアの光を反射して眩く煌めいた。


夜会巻きにきっちりとまとめられた銀糸の髪。薄く引かれた紅は、彼女の本来持つ氷のような知的な美貌に、ぞっとするほどの妖艶な色気を添えていた。


「……どうですか、ザイオン」

ルチアが、少し歩きにくそうにドレスの裾を摘んで歩み寄ってくる。


「かつての婚約期間中、王太子(エドワード)は『私には可愛らしいピンクのフリルが似合う』と、自分の趣味のドレスばかりを強要してきましたから……こういったシックな色のドレスを着るのは、実は初めてなのです。変ではありませんか?」


ルチアが首を傾げた瞬間。

ザイオンは弾かれたように立ち上がり、無言のまま大股でルチアに詰め寄った。


「ザイオ——」

「……お前、ふざけんなよ」


ドンッ、と。

ザイオンの大きな手が、ルチアの背後の壁を叩いた。いわゆる『壁ドン』の体勢で、ルチアは完全に彼の腕の中に閉じ込められた。


「……? 何か問題でもありましたか? 投資対効果に見合わない、安っぽい仕上がりでしたら、針子たちにやり直しを——」


「違う」

ザイオンの声は、ひどく掠れていた。

彼はルチアの露出した白い背中に、ごつごつとした大きな手をそっと滑らせた。ビクッ、とルチアの肩が跳ねる。


「……っ、冷たいです、ザイオン」

「お前が……綺麗すぎるのが悪いんだろ。クソッ、こんなドレス選ぶんじゃなかった。お前のその背中、俺以外の男に見られるなんて想像しただけで……今すぐこのドレス、引き裂いて燃やしたくなってきた」


琥珀色の瞳の奥に、冗談ではない、本物の『激重な独占欲』と『獣の熱』がドロドロと渦巻いていた。

普段の余裕のある飄々とした態度は完全に崩壊し、ただ一人の女に狂わされた男の顔がそこにあった。


「……夜会に行くのはやめだ。今夜はここで、俺と——」

ザイオンの顔が、ルチアの首筋へと吸い寄せられるように落ちていく。

その吐息の熱さに、ルチアは自身の心臓が今までになく不規則な音を立てているのを感じた。


(……危険だわ。このまま彼のペースに乗せられたら…)


ルチアは、顔を近づけてきたザイオンの唇を、手首でピシャリと塞いだ。


「……ルチア?」

「却下です。今更予定のキャンセルなど認めません」


ルチアは、必死に平常心を保ちながら、極めて事務的な、しかし少しだけ震える声で告げた。

「あなたが全額自己負担したとはいえ、このドレスと宝石には金貨五千枚以上の価値があります。これを着て王太子の前に立ち、投資の第一歩を踏み出さなければ、初期投資が完全に赤字になります」


「お前……この状況でまだ、損益分岐点の話をしてんのか?」

ザイオンが、毒気を抜かれたように目を瞬かせる。


「当然です。私はあなたの専属財務顧問ですから。……さあ、無駄なセクハラで時間を浪費するのはやめて、出発しますよ。エスコートの準備をなさい」


ルチアがザイオンの胸を押し返すと、彼はしばらくポカンとしていたが……やがて、肩を揺らして低く笑い始めた。

「くくっ……ははははっ!俺がどんだけ発情しても、絶対数字と理屈でぶった斬ってくるんだもんな。……ああ、わかったよ。今夜は大人しく、お前の完璧なエスコート役に徹してやる」


ザイオンはルチアから離れると、ベルベットの小箱から、大粒のブルーサファイアがあしらわれた豪奢なネックレスを取り出した。


「後ろを向け」

彼が背後に回り、ルチアの細い首に冷たいプラチナのチェーンを這わせる。

カチリ、と留め具をはめた後、ザイオンの熱い唇が、ルチアの無防備なうなじに一瞬だけ、触れるか触れないかの距離で落とされた。


「……っ」

「約束しろ、ルチア。今夜、夜会の会場で他の男に話しかけられても、絶対に微笑むな。お前のその顔は、俺だけのものだ」


耳元で囁かれた、強烈な独占宣言。

ルチアは顔に集まる熱を必死に冷ましながら、テーブルに置いてあった黒いレースのヴェールを手に取った。


「……ええ。私の笑顔は高価ですから、タダで他人に振り撒くような赤字行為はいたしませんわ」


顔の上半分を覆う美しいヴェールを身につけ、ルチアは完璧な「謎の豪商の秘書」の仮面を被った。

ザイオンもまた、己の素顔と本性を隠すための、豪奢な仮面をその瞳の上に装着する。


「行くぞ、俺の可愛い共犯者。……バカな王宮の連中に、極上のプレゼント(地獄)を届けに行こうぜ」

「ええ。せいぜい、高く売りつけましょう」


悪党二人は不敵な笑みを交わし、スラムの地下から、王都で最も華やかで、そして最も腐敗した表舞台へと、堂々たる歩みを進めるのだった。

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