第8話 砂上の楼閣
翌朝。
王都のスラム街の入り口にそびえ立つ、悪徳高利貸しギドの本邸は、凄まじい怒号と破壊音に包まれていた。
「ギド! いるのは分かってんだ! 金貨十万枚の返済期限は今日の正午だぞ! とっとと金を出せ!」
ドガァァァンッ!!
分厚い樫の木の扉が、闇金融の屈強な取り立て屋たちによって蹴り破られた。
屋敷の調度品はすでに金目のものから次々と差し押さえの札が貼られ、使用人たちは給料未払いで夜逃げした後だった。
「ひ、ひぃぃぃっ! お、お待ちくだせぇ! 金ならある! 金貨十万枚どころか、その十倍の価値がある『魔力増幅石』の在庫がここにあるんです!!」
シルクのパジャマ姿のままのギドが、寝室から転がり出てきた。
彼は狂ったような笑みを浮かべながら、昨日第三倉庫から運び込ませた木箱の山にすがりついた。
「見ろ! この連邦から極秘に仕入れた最高純度の石を! これを市場に流せば、あんたらの借金なんて——」
バコンッ!
ギドが自信満々に木箱の蓋を開け放った、その瞬間だった。
ヒュオォォォ……。
開け放たれた窓から吹き込んだ朝の風に乗って、木箱の中に詰まっていたただの灰色の砂が、ふわりと舞い上がった。
「ぶぇっくしょん!!」
顔面にもろに砂を浴びたギドが、盛大なクシャミをする。
木箱の中には、魔力増幅石などただの一つも入っていない。あるのは、風に吹かれてサラサラと崩れていく、どこにでもある産業廃棄物の砂の山だけだった。
「…………」
取り立て屋たちの顔から、スッと表情が消えた。
「あ、あれ……? おかしいな。昨日までは青く光って……おい、他の箱を開けろ! きっと下の方に本物が……!」
ギドが半狂乱になって他の木箱をひっくり返すが、出てくるのはやはり虚しい砂煙だけだった。
「てめぇ……俺たちをコケにしてんのか?」
「ち、違う! 騙されたんだ! あいつらに、あの胡散臭い商人と、銀縁眼鏡の女にぃぃぃっ!!」
「言い訳は地下の鉱山で聞かせてもらおうか。連れて行け!」
「ひぃぃぃっ! や、やめろぉぉぉ!」
ギドは慌てて逃げ出そうとしたが、パニックのあまり、自分の等身大ほどもある巨大な黄金の壺の中に隠れようとして頭から突っ込み、丸々と太ったお尻がつっかえて抜けなくなってしまった。
「うおおおっ!? 抜けない! 助けて! 壺が、壺がぁぁぁっ!」
「……お前、本物のバカだな」
ジタバタと足をバタつかせる滑稽な壺男は、取り立て屋たちに呆れた顔でロープをかけられ、そのまま壺ごと荷馬車に放り込まれて、借金奴隷として北の鉱山へとドナドナされていった。
スラムの住人を苦しめ続けた悪徳高利貸しの、あまりにも情けない末路であった。
* * *
「——というわけで、ギドの野郎、最後は壺にケツを挟まれたまま鉱山に売られていきましたぜ! いやぁ、傑作でした!」
黒猫ギルドの地下特別室。
報告に戻ってきた幹部のガロアが、腹を抱えて大爆笑していた。
他の幹部たちも「あの豚野郎、いい気味だぜ!」と、酒を片手に大盛り上がりである。
「砂上の楼閣、とはまさにこのことですね。物理的な意味で」
デスクに座るルチアは紅茶を優雅に啜りながら、極めて冷静に、しかし口元には微かな笑みを浮かべて呟いた。
「さて、ガロア。彼から巻き上げた『スラムの住人の借金証書』の束はそこにありますね?」
ルチアの言葉に、ガロアが分厚い証書の束をデスクに置く。ギドがスラムの弱者から搾り取っていた、血と涙の結晶だ。
「ええ。これさえあれば、スラムの連中は俺たちギルドに頭が上がりませんぜ。たっぷり利息を回収してやりましょう!」
「いいえ」
ルチアは立ち上がると、その借金証書の束を躊躇いなく暖炉の火の中へ放り込んだ。
「なっ……!? 姐さん、何してんだ! それは金貨数千枚分の価値が……!」
燃え盛る証書を見て、ガロアたちが悲鳴を上げる。
「目先の小銭に囚われないでください。そんなはした金を回収するために人員を割くのは、人件費の無駄です」
ルチアは燃え尽きていく羊皮紙を見つめながら、幹部たちを振り返った。
「借金を帳消しにしてやれば、スラムの住人たちは必ず私たちに『恩』を感じます。金で買えない最も強固な資産……それは『絶対的な忠誠心と労働力』です。彼らをギルドの情報網の末端として使役した方が、長期的には金貨数万枚の利益を生み出します。投資の基本ですよ」
「あ……」
ガロアたちはハッとし、そして、自分たちの器の小ささを恥じるように深く頭を下げた。
「姐さん……あんた、本物の女神だ。冷酷に見えて、一番デカい絵を描いてやがる」
「私たちは、姐さんに一生ついていきまさぁ!!」
幹部たちの瞳には、もはや恐怖ではなく、狂信的なまでの忠誠の光が宿っていた。ルチアは完全に、このスラムの心を掌握したのだ。
「……おいおい、俺のギルド員をすっかり洗脳しちまって。恐ろしい女だぜ」
奥のソファから、ザイオンが楽しげな拍手をしながら歩み寄ってきた。
彼はガロアたちに「お前らはもう下がって、今日の宴会の準備でもしてろ」と顎で指示を出し、部屋から退出させた。
重厚な扉が閉まり、VIPルームにはルチアとザイオンの二人きりになった。
「さて。まずは第一段階クリアってことで、乾杯といこうか」
ザイオンはキャビネットから年代物の極上ワインを取り出し、二つのグラスに注いだ。
「ええ。王太子派閥の資金洗浄ルートを一つ、完全に潰しました。あちらの資金繰りは、これで二割は悪化するはずです」
ルチアはグラスを受け取り、コツン、と澄んだ音を立てて乾杯した。
芳醇な葡萄の香りが、二人の間を満たす。
「……で、次はどうする? お姫様。スラムの掃除が終わったからには、いよいよ表舞台にご復帰か?」
ザイオンがソファに深く腰を下ろし、ワイングラスを傾けながら琥珀色の瞳を細めた。
「復帰、などという生易しいものではありませんわ。……『買収』です」
ルチアは銀縁眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、デスクの上の王都の地図を見下ろした。
「ギドからの上納金が途絶え、私の予算管理もなくなった王太子エドワードは、遠からず国庫を空にします。馬鹿は無計画に金を使いますからね。……金がなくなった王太子が次に取る行動は一つ。新しいパトロンを探すための、盛大な夜会の開催です」
「なるほどな」
ザイオンが口角を吊り上げる。
「そこに、行くんだな。……素性の知れない、莫大な資金を持った『他国の豪商』として」
「ご名答です、ザイオン」
ルチアは最高に悪辣な、そして知的な笑みを浮かべた。
「エドワードはプライドが高いですから、自国の貴族には頭を下げられません。しかし、金払いの良い謎の外国商人になら、喜んで尻尾を振るでしょう。……そこで私たちが、彼に『絶対に返せない額の借金』を背負わせてあげるのです」
「……っははは!! マジでえげつねぇ!!」
ザイオンは腹を抱えて笑い、グラスのワインを一気に飲み干した。
「最高だ、ルチア。お前が描くシナリオは、いつでも俺の期待を遥かに超えてくる」
ザイオンは立ち上がり、ルチアの正面に立つと、彼女の手からそっとワグラスを抜き取ってテーブルに置いた。
そして、大きな両手でルチアの華奢な肩を包み込み、その赤い唇が触れそうな距離まで顔を近づけた。
「……仮面の豪商、か。表舞台に出るなら、俺の隣を歩く女には、世界で一番美しいドレスを着せねぇとな」
甘く、独占欲に満ちた低い声。
ザイオンの琥珀色の瞳が、ルチアを絡め取るように熱く見つめている。
「覚悟しておけよ、俺の可愛い共犯者。お前を捨てたあの愚かな王子が、血の涙を流して後悔するくらい……極上の女に仕立て上げてやるからな」
「……衣装代は、経費で落としていただきますからね」
至近距離での危険な色香にも、ルチアは一切動じず、ただ不敵に微笑み返した。
* * *
ルチアが部屋を去り、室内にはザイオン一人が残って、ギドの隠し金庫から押収した大量の『裏帳簿』の山をパラパラと無造作にめくっていた。
「……ん?」
ザイオンの手が、一冊の黒革の帳簿の前でピタリと止まる。
そこに記載されていたのは、スラムの小悪党が扱うにはあまりにも桁が違いすぎる「不自然な魔力鉱石の取引記録」と、見覚えのある『ヴァルディス連邦の暗号口座』の羅列だった。
「……マジかよ。こんなにあっさりと……」
ザイオンの琥珀色の瞳から、一瞬だけ胡散臭いスラムのボスの色が消え、獲物を見つけた肉食獣のような……いや、絶対的な権力者のような鋭い光が宿った。
「これは、金貨なんかより、ずっと価値のある特大の収穫だ。……まさか、俺が何ヶ月も探してたモンを、あのお姫様が初日で引きずり出してくるとはな」
ザイオンは喉の奥で低く笑うと、その黒革の帳簿だけを抜き取り、スッと自らのコートの内ポケットに隠した。
ザイオンはルチアのことを思い出し、最高に面白くてたまらないというように口角を吊り上げた。
(……とんでもねえ『勝利の女神』を拾っちまったらしいな、俺は)




