第5話 沈みゆく泥船
王都の中心にそびえ立つ、白亜の王城。
かつてルチアが昼夜を問わず執務に励んでいたその第一王子専用の執務室は、彼女が去ってからわずか一週間で、目を覆うような惨状を呈していた。
「エドワード様ぁ。今度の建国祭のパレード、私、南の島でしか採れない『星珊瑚』をふんだんに使ったティアラが欲しいですわ」
最高級のベルベットのソファに寝そべりながら、男爵令嬢のマリーが甘ったるい声を上げる。
書類の山から目を逸らし、彼女を膝に乗せていた王太子エドワードは、だらしなく頬を緩めて頷いた。
「ああ、もちろんだとも、愛しのマリー。君の美しい金髪には、星珊瑚がよく似合うだろう。すぐに御用商人を呼んで手配させよう」
「殿下! お待ちください!」
その時、執務室の隅で青ざめていた初老の財務官が、悲鳴のような声を上げた。
「星珊瑚のティアラなど、特注すれば金貨二千枚は下りません! 現在の王室の特別予算は、すでにマリー様のドレス代と夜会の連日開催で底を突きかけております! これ以上の無駄遣いは——」
「ええい、うるさいぞ財務官!」
エドワードは不機嫌に顔をしかめ、バンッと机を叩いた。
「たかが金貨二千枚でガタガタ騒ぐな! 足りなければ、平民からの税を少し引き上げれば済む話だろう!」
「そ、そんな無茶な! ルチア様がいらした頃は、一ルピアの無駄も許さず、完璧な予算配分で国庫を潤してくださっていたというのに……っ!」
「あの可愛げのない女の名前を私の前で出すな!!」
エドワードの怒声に、財務官はビクッと肩を震わせた。
「あの女は、いちいち細かい数字を並べ立てて私の自由を縛る、ただの口うるさい小姑だった! 彼女がいなくなって、ようやくこの王宮に息苦しさのない自由が訪れたのだ。……よいか、私の決定に二度と口出しは許さん。さっさとティアラの手配を進めろ!」
「はぁーい、エドワード様、大好きですぅ!」
「はははっ、マリーは本当に素直で可愛いな」
再びいちゃつき始める愚かな二人を前に、財務官は絶望的な面持ちで項垂れた。
(……終わりだ。この国は、遠からず財政破綻で崩壊する)
ルチアという完璧な金庫番を失った王宮という名の泥船は、誰にも気づかれぬまま、ゆっくりと、しかし確実に暗い海の底へと沈み始めていたのである。
* * *
一方その頃。王都の最貧困層がひしめくスラム街の路地裏を、ルチアは真新しい帳簿を抱えて歩いていた。
「いやぁ、今日も見事な手腕だったぜ、お嬢様。あの古狸の悪徳商人を、帳簿の数字一つで追い詰めて借金証書にサインさせちまうなんてな」
彼女の半歩後ろを歩いているのは、黒猫ギルドのボス、ザイオンだ。
彼は機嫌良さそうに口笛を吹きながら、ルチアの肩に自分の上着をふわりと掛けた。
「日が落ちて冷えてきたからな。風邪でも引かれたら、ギルドの利益が落ちちまう」
「お気遣い感謝します、ザイオン。ですが、あなたのその無駄に高い体温とオーデコロンの香りが移るので、あまり密着して歩かないでいただけますか。……ただでさえ、スラムの住人からの視線が痛いのですから」
ルチアがため息をつきながら周囲を見渡すと、路地裏に潜むゴロツキたちが、ザイオンの姿を見るなり蜘蛛の子を散らすように逃げていくのが見えた。
彼がただ歩いているだけで、スラムの空気がピンと張り詰めるのだ。
「ははっ、俺の女に手を出そうとする命知らずを威嚇してやってんだよ。……なあ、仕事も終わったことだし、この後、俺の部屋で極上のワインでも——」
ザイオンがルチアの耳元に顔を寄せ、いつもの軽薄なセクハラ文句を囁こうとした、その瞬間だった。
「——お喋りはそこまでにしておけよ、黒猫の旦那」
チャキッ、と。
暗い路地の前後を塞ぐように、十数人の黒装束の男たちが姿を現した。
彼らの手には、スラムのチンピラが持つような錆びたナイフではない、手入れの行き届いた軍用の短剣が握られている。
「……ほう?」
ザイオンの足が止まった。
「驚いたな。ただの縄張り争いかと思えば、随分と身なりのいい暗殺者様たちだ。どこの貴族の飼い犬だ?」
「冥途の土産に教えてやる。俺たちは王太子派閥の『影』だ。……最近、スラムの資金洗浄ルートが次々と潰されていてな。調べれば、情報ギルドに新しく入った『小娘』が帳簿をいじり回しているというじゃねえか」
リーダー格の男が、油断なく刃先をルチアに向けた。
「悪いが、その女の首を置いていってもらう。お前らドブネズミが、貴族様の金脈に手を出していいわけがねえんだよ」
男たちが一斉に殺気を放つ。
ルチアは帳簿を胸に抱きしめ、冷静に彼らの戦力を分析した。
(十対二。相手はプロの暗殺部隊。ザイオンがどれほど喧嘩慣れしていても、彼を庇いながら逃げ切るのは不可能に近いわね……。ここは私が交渉して——)
「ルチア。俺の背中から一歩も出るなよ」
低い、地を這うような声だった。
ルチアがハッとして隣を見上げると、そこには、普段の「胡散臭いバーテンダー」の面影は微塵もなかった。
琥珀色の瞳は、あらゆる熱を失った極寒の氷のように冷たく澄み切り、その口元からは一切の笑みが消え失せている。
「俺の可愛い財務顧問に刃を向けたこと、三途の川で後悔しな」
ザイオンが、ゆらり、と動いた。
ルチアの目には、彼の姿がブレて消えたように見えた。
「なっ——!?」
暗殺者のリーダーが驚愕の声を上げる間もなかった。
ザイオンは一瞬で五メートルほどの距離をゼロにし、袖口から滑り出させた漆黒のナイフを、リーダーの右手首に寸分の狂いもなく突き立てた。
「ギャアァァァッ!!」
短剣が落ちる音と、絶叫。
「殺せ! そいつを殺——」
残りの暗殺者たちが一斉に飛びかかろうとするが、ザイオンの動きは、もはや「人間の格闘技」の域を超越していた。
舞を踊るように身を翻し、敵の急所となる膝裏、アキレス腱、手首の腱だけを正確かつ無慈悲に切り裂いていく。致命傷は与えない。ただ「完全に戦闘不能になる痛み」だけを緻密に計算して叩き込んでいるのだ。
ザクッ! ゴキッ!
「ぐあぁっ!」
「ひぃっ、こいつ、見えな——」
わずか十秒。
ただの十秒の間に、王宮が誇るプロの暗殺部隊十数名が、一人残らず路地裏の泥水の中に転がり、呻き声を上げていた。
ザイオンの服には、返り血一滴すら飛んでいない。
「……おい、貴族様の飼い犬」
ザイオンは、手首を抑えて震えるリーダーの首元を、靴の底で容赦なく踏みつけた。
ギリッ、と喉仏が潰れる寸前の音が鳴る。
「ヒッ……!!」
「次はない。お前らの雇い主に伝えろ。俺のギルドと、俺の女にこれ以上ちょっかいを出すなら……明日の朝、お前らの主人の寝首が綺麗に切り落とされてるだろうな、ってな」
絶対的な死を約束する、魔王のような冷酷な宣告。
リーダーは恐怖のあまり白目を剥き、その場で泡を吹いて気絶してしまった。他の暗殺者たちも、ザイオンの異常な殺気にあてられ、這いつくばったまま一歩も動けない。
「……ふう。まったく、せっかくのデートが台無しだぜ」
ザイオンはナイフの血振るいをして袖口に仕舞い込むと、くるりとルチアの方を振り返った。
その顔には、いつもの飄々とした、胡散臭い笑顔が戻っていた。
「悪かったな、ルチア。血生臭いもん見せちまって。ドレス、汚れてないか?」
「…………」
ルチアは、息を呑んだままザイオンを見つめていた。
(今の動き……ただの喧嘩殺法じゃない。体重移動、急所の把握、無駄の一切ないナイフの軌道。まるで、幼い頃から専門の訓練を受け続けた、帝国の特殊部隊のそれに近い)
スラムのゴロツキの親玉という肩書きでは、絶対に説明がつかない圧倒的な実力。
この男は、何か決定的な「秘密」を隠している。
だが、ルチアはそれを深く追及することはしなかった。彼が自分を完璧に守り抜いてくれたこと、それこそが今の彼女にとっての「最大の利益」だからだ。
「ええ。ドレスは無事です」
ルチアは一つ咳払いをして、いつもの冷静な声を取り戻した。
「素晴らしい費用対効果ですね、ザイオン。プロの護衛を十名雇えば月額金貨百枚は下りませんが、あなたがいれば護衛費はゼロで済みます」
「ははっ! お前、この状況でまだ金の話をしてんのか? マジでイカれてるな!」
ザイオンが腹を抱えて笑い出す。
「ですが、先ほどのあなたの発言は訂正させていただきます」
「ん? なんだよ、惚れ直したかって?」
「いいえ。『俺の女』ではありません。『俺の有能な財務顧問』です。事実と異なる発言は、商取引において誤解を招きますので控えてください」
「……っはははは!! 了解だ、俺の“最高に可愛い”財務顧問殿!」
ザイオンはルチアの強がり(と彼には見えた)に大層ご満悦な様子で、彼女の頭をポンポンと乱暴に撫でた。
圧倒的な武力と、底知れぬ素顔を持つ男。
そして、どんな修羅場でも決して数字と論理を忘れない女。
二人の共犯関係は、この血生臭い路地裏での戦闘を経て、単なるビジネスの枠を超えた「背中を預け合うバディ」へと、確実な一歩を踏み出したのだった。




