第4話 暗躍令嬢、裏社会の帳簿を切る
王都のスラム街を牛耳る情報ギルド『黒猫』の地下には、一般のゴロツキが決して足を踏み入れることのできない、重厚な扉で守られた特別室がある。
本来はギルドのボスであるザイオンが密談に使うそのVIPルームは、現在、強烈なインクの匂いと、羊皮紙が擦れる乾いた音に支配されていた。
部屋の中央に設えられた最高級のオーク材のデスク。
そこに座るルチアは、山のように積まれたギルドの過去三カ月分の帳簿と経理書類を前に、氷のように冷たい視線を落としていた。
「…………」
「あの、お嬢様……いや、新任の財務顧問殿。そんなに恐ろしい顔で睨まれたら、帳簿に穴が空いちまいますが……」
デスクの前で腕を組み、不満げな表情を隠そうともしないのは、顔に傷のある大男——ギルドの幹部であるガロアだった。彼を含め、数名のいかつい幹部たちが、ルチアの周囲を取り囲むように立っている。
「ガロア。そして幹部の皆様」
ルチアは羽ペンを置き、極めて事務的な声で口を開いた。
「この『支出の部』はどういうことですか。酒の仕入れ代として取引先の『赤熊商会』から、市価の三倍の値段で粗悪なエール樽を買わされていますね。次に『情報収集費』という名目の、謎の支出。一晩で銀貨五十枚。……領収書には『裏街の娼館にて』とありますが?さらに、武器の修繕費に、謎の『みかじめ料』の二重払い。計算ミスは百八箇所。どんぶり勘定にも程があります」
ルチアの完璧な正論による指摘。
しかし、ガロアは鼻で笑い、苛立ちを露わにしてデスクをドンッと叩いた。
「紙の上の数字をいじっただけで、偉そうに仕切られちゃ困りまさぁ。いいですか、俺たちはその日暮らしの裏の人間だ。赤熊商会の親父とは昔からの付き合いで、義理と人情ってやつがある。……あんたみたいなお貴族様に、俺たちの血生臭いシノギがわかってたまるか。ゼニを見せてくれなきゃ、俺たちはあんたを顧問とは認められねぇよ」
幹部たちが同調し、部屋の空気が険悪に冷え込む。
「ガロアの言う通りだぜ? いくら頭が良くても、こいつらは金貨の重さしか信じねぇ」
その時、部屋の奥の革張りソファで寝そべっていたギルドのボス——ザイオンが、クスクスと笑いながら身を起こした。
シャツの胸元をはだけさせ、気怠げな色気を振り撒きながら、彼はルチアのデスクへとゆっくり歩み寄る。
「どうする、ルチア? 荒くれ者を大人しくさせるのは骨が折れるぜ。……泣きついて俺の胸に飛び込んでくるなら、今すぐこいつらを黙らせてやるけど?」
ザイオンはデスクの横に立つと、ルチアの顔の真横に自分の顔を近づけ、甘く低い声で囁いた。
ふわりと、上質な煙草と、男の熱を帯びた香りがルチアの鼻を掠める。明確なセクハラであり、大人の男の余裕を見せつけるような口説き文句だ。
しかし、ルチアは瞬き一つしなかった。
「ザイオン。無駄口を叩く暇があるなら、そこの新しいインク瓶を取ってください。……それに、現金が必要なら、今すぐここで生み出してみせます」
ルチアがザイオンの胸板を無造作に手で押し返した、ちょうどその時だった。
コンコン、と控えめなノックの後、下働きの少年が顔を出した。
「ガロアの兄貴、表に『赤熊商会』の親父さんが来てます。今月の酒代と、情報料の支払いをよこせって……」
「あ、ああ。わかった。今行く」
ガロアが舌打ちをして、金庫から金貨の入った袋を取り出そうとした瞬間。
「お待ちになさい。ここへ通して」
ルチアの凜とした声がVIPルームに響いた。
数分後、部屋に入ってきたのは、丸々と太り、全身に悪趣味な宝石をじゃらじゃらとつけた『赤熊商会』の主人だった。
「ひひっ、ガロアの旦那。今月もきっちり金貨三十枚、いただきに上がりやしたぜ。……おや? そちらの美しいお嬢さんは?」
「私はこのギルドの財務顧問です」
ルチアは立ち上がり、商会主の前にツカツカと歩み寄った。
「金貨三十枚? 冗談でしょう。あなたが納品している水で薄めたエール樽十個の市価は、せいぜい銀貨五枚。残りの金貨二十九枚と銀貨五枚は、何の対価ですか?」
「なっ……何をごちゃごちゃと! これは昔からのギルドとの契約でさぁ! 払えねぇなら、もう酒も情報も卸さねぇぞ!」
商会主が顔を真っ赤にして凄む。ガロアたち幹部も「おいお嬢様、厄介事を起こすな」と止めに入ろうとした。
「契約、ですか」
ルチアは冷たく微笑んだ。
「赤熊商会。あなたの商会は、東部の関所を通る際、積荷を『農作物』と偽って申請していますね? しかし実際に運んでいるのは、南部から密輸した高級ワインと、違法な魔力草です」
「……は?」
商会主の顔から、スッと血の気が引いた。
「王宮の関税管理録と、あなたの商会の過去三年の納税記録は、すべて私の頭の中にあります。ざっと計算して、あなたが王室からちょろまかした脱税額は『金貨五千枚』。……立派な国家反逆罪ですね」
「な、ななな、何をデタラメを!」
「デタラメかどうかは、今すぐ私が王宮の財務局に『裏帳簿の隠し場所(商会の地下倉庫の三番目の樽の中)』を匿名で通報すればはっきりします。……査察官が踏み込めば、あなたは明日には絞首台行きですが、よろしいですか?」
静寂。
商会主はガタガタと震え出し、滝のような冷や汗を流してその場にへたり込んだ。完璧な事実と、逃げ場のない論理の刃。それがどれほど恐ろしいものか、彼は本能で理解したのだ。
「ひぃっ……ま、待ってくれ! 悪かった、今までのぼったくりは謝る! だから、通報だけは……!」
「謝罪は言葉ではなく、数字で示しなさい」
ルチアは商会主を見下ろし、極めて事務的に告げた。
「過去三年分、ギルドから不当に搾取した差額、金貨およそ千枚。これを『不当利得の返還』として今すぐ支払いなさい。手持ちがないなら、あなたが今身につけているその宝石類と、商会の権利書で手を打ちます」
「わ、わかった! 払う、払うから許してくだせぇ!」
商会主は泣き叫びながら、慌てて自分の指輪やネックレスを引きちぎり、さらに隠し持っていた金貨の詰まった大袋をデスクの上に乱暴に置き、逃げるように部屋から転がり出していった。
ジャラッ……!
デスクの上に、まばゆい光を放つ宝石と、大量の金貨が散らばった。
「…………」
ガロアたち幹部は、ただ口を開けて、その光景を呆然と見つめていた。
暴力も脅しも使わず、ただ「知識」と「正論」の口先一つで、自分たちを長年食い物にしていた悪徳商人を震え上がらせ、一瞬にして莫大な現金を巻き上げたのだ。
「さて、ガロア。そして皆様」
ルチアは散らばった金貨を指先で弾き、幹部たちに向き直った。
「義理や人情で、この金貨が手に入りますか? ……これが『数字』の力です。私が提供する知識は、あなた方の暴力よりも遥かに効率的に現金を稼ぎ出します」
ルチアは、徹夜で書き上げた「新しいギルドの予算編成表」を、金貨の山の上にバンッと広げた。
「先ほどの不当利得をギルドの資産に組み込み、私が組み直したこの新しい予算案を実行に移せば……来月には、あなた方全員の基本給を『一・五倍』に引き上げることが可能です。さらに、三ヶ月後にはギルドの総利益が三十パーセント増加します。文句はありますか?」
「…………っ!」
ガロアの太い腕が、ブルブルと震えた。
彼は次の瞬間、床に両膝を突き、深々と、まるで神に祈るように頭を下げた。
「姐さん……!!」
「……は?」
「俺ァ、今まであんたのこと、ただの世間知らずのお貴族様だと思ってました! 大間違いでした、申し訳ねぇ! 今日からあんたは、俺たちの『姐さん』だ! なんなりと命令してくだせぇ!」
他の幹部たちも、ガロアに続いて次々と平伏し、ルチアに絶対の忠誠を誓う。
「……姐さん、という呼び方は趣味ではありませんが、統率が取れるなら構いません。さあ、立って仕事に戻りなさい。私の残業をこれ以上増やさないように」
「おうっ! 任せてくだせぇ、姐さん!」
目をキラキラと輝かせ、幹部たちは足取りも軽く部屋から飛び出していった。
わずか一日。王都最大の情報ギルドの荒くれ者たちは、ルチアの手によって完全に「調教」され、その軍門に降ったのである。
「……いやはや、恐れ入ったぜ。うちの猛犬どもを、アメと鞭で手懐けちまうとはな」
パチパチと拍手をして、ザイオンが再びルチアの背後へと歩み寄ってきた。
彼はルチアの背中越しに腕を伸ばし、彼女が座る椅子の背もたれに手をついて、完全に彼女の逃げ場を塞いだ。
「たまんねぇな。マジでお前、最高だよ。その冷たい目でゴミを見るように罵られると、ゾクゾクするぜ」
耳元で、甘く、そして微かに熱を帯びた吐息が掠める。
ザイオンの大きな手が、ルチアの細い腰にそっと添えられ、その距離はもう唇が触れそうなほどに近い。彼の琥珀色の瞳には、紛れもない「一人の女に対する執着」がドロドロと渦巻いていた。
だが。
「ザイオン」
ルチアは一切動じず、手元の書類に視線を落としたまま、羽ペンの後部でザイオンの額をコツンと突いた。
「近いです。私のパーソナルスペースから出てください。……あなたのその脈絡のない発言と距離感は、職場のセクハラとして減給対象に値しますよ」
「いっ……ははっ! セクハラって! 減給されたら俺、お前に養ってもらうしかねぇな!」
ザイオンは全く悪びれる様子もなく、大層ご満悦な様子で肩をすくめた。
(この女、俺の色仕掛けが全く通じねぇ。……マジで計算と数字のことしか頭にないのか。面白すぎる)
ザイオンはルチアから少し距離を取ると、ニヤリと野心的な笑みを浮かべた。
「で? これで内堀は完全に埋まったわけだ。……さあ、ルチア。次はどうする? お前をコケにしたあのバカな王宮の連中に、どうやってこの最強のギルドの力を見せつけてやる?」
ルチアはデスクの上の金貨を一瞥し、最高に悪辣な笑みで応えた。
「簡単ですわ。……王太子派閥の末端で資金洗浄を行っている『悪徳高利貸し』がいます。まずはそこから、合法的に身ぐるみ剥がして差し上げましょう」
数字と正論で武装した暗躍令嬢と、彼女に底知れぬ執着を抱き始めた胡散臭いボスの、華麗なる「国家買収」の第一歩が、今ここに幕を開けた。




