第29話 報復
黒猫ギルドの地下特別室。
孤児たちの無事を知らせるガロアからの通信を切った直後、ザイオンは自身のコートの内ポケットから、手のひらサイズの漆黒の石を取り出した。
連邦の皇族のみが所持を許される、超遠距離用の『極秘通信魔石』である。
ザイオンがその石に魔力を流し込むと、空中に青白い光の波紋が広がり、やがて威厳に満ちた初老の男の低い声が響いた。
『……ザイオンか。反議長派の貴族どもの一斉検挙は、無事に完了したぞ。お前が送ってきた裏帳簿の証拠が完璧だったおかげでな』
「親父。……いや、議長閣下。そっちの掃除が終わって何よりだ」
通信の相手は、ヴァルディス通商連邦の現トップにして、ザイオンの実父である連邦議長だった。
「親父、一つ頼みがある。……俺の『妻』の逆鱗に触れた、エルディス王国の愚かな王太子を、物理的かつ経済的に完全にすり潰したい。連邦の権限で、あの国への『完全な経済封鎖』を実行してくれ」
『ほう?』
通信越しの議長の声に、面白がるような色が混じる。
「名目はこうだ。エルディス王室は、我が連邦の優良企業である『ザック商会』への莫大な債務を踏み倒したばかりか、商会が支援していたスラムの民間施設(孤児院)を近衛兵で武力制圧し、不当な恐喝を行った。……これは連邦の保護下にある商人への明確な敵対行為であり、重大な国際条約違反である、とな」
エドワードは「ルチアの隠し財産」を狙って孤児院を襲ったつもりだが、国際社会の目から見れば、それは『連邦の商人の正当な投資先への武力攻撃』という、最悪の条約違反に他ならない。
『……なるほど。相手が自ら協定を破り捨てたのなら、こちらが大義名分をもって報復するのに何の問題もないな』
議長は低く笑った。
『よかろう。連邦議長として、エルディス王国との一切の国交および貿易の即時凍結を宣言する。……して、我が息子の愛する『妻』殿は、この封鎖でどれほどの利益を得るつもりだ?』
通信越しに話を振られ、ルチアはスッと姿勢を正し、銀縁眼鏡の位置を直した。
「初めまして、議長閣下。ザック商会の財務顧問を務めております、ルチアと申します。……閣下からの寛大な措置により、あの泥船は『三日』で完全に沈没いたしますわ」
ルチアは手元の帳簿を開き、極めて冷酷に、そして事務的に王国の「死の宣告」を読み上げ始めた。
「現在、エルディス王国の経済は、ヴァルディス連邦への完全な依存状態にあります。具体的に申し上げますと、王国の外貨獲得手段の七割が、連邦への魔力鉱石の輸出です」
ルチアの指が、帳簿の数字をなぞる。
「しかし、その魔力鉱石を不当な高値で買い取っていたのは、先ほど閣下が捕縛された『反議長派の腐敗貴族』たち……つまり、資金洗浄のためのダミー取引でした。連邦が正規のルートで取引を停止し、鉱石の買い取りを拒否した瞬間、エルディス王国の外貨収入は完全にゼロになります」
『ふむ。売る相手がいなくなれば、国庫は干上がるな』
「それだけではありません。最も致命的なのは『輸入』です」
ルチアは冷ややかに微笑んだ。
「エルディス王国は農業技術が乏しく、国民の生活に必要な食料の三割、および医療品・生活必需品の六割を、連邦からの輸入に頼っています。……明日、連邦からの商船が一切エルディス王国の港に入らなくなった場合、何が起きるか」
「……市場からモノが完全に消え失せる、か」
ザイオンが面白そうに相槌を打つ。
「その通りです。連邦という巨大な後ろ盾が激怒して取引を停止したと知れば、他国の商人たちも巻き添えを恐れて、一斉にエルディス王国との取引を打ち切るでしょう。……結果、王都は極端な物資不足に陥り、物価は数時間で十倍以上に跳ね上がります」
王宮の国庫が空になるだけでなく、市井の民衆が食べるパンすらなくなる。
「日当も払われず、明日の食料も買えなくなった民衆の怒りの矛先は、当然……この最悪の事態を引き起こした張本人である、エドワード王太子へと向かいます」
ルチアは、帳簿をパタンと閉じた。
「私たちは剣を振るう必要すらありません。……王太子は、自らが飢えさせた民衆の手によって、王宮から引きずり降ろされることになりますわ」
『……くっ、くくっ……あっはっはっはっ!!』
通信魔石の向こう側で、連邦議長が腹の底から愉快そうに大笑いした。
『素晴らしい! ザイオン、お前が血眼になって手に入れたがっていた理由がよく分かった! 一国の王室を、一切手を下さずに経済の理詰めだけで真綿で首を絞めるように殺すとは……なんという恐ろしくも美しい才女だ!』
「だろ? 俺の目に狂いはねえよ。最高の自慢の妻だ」
ザイオンはルチアの肩を抱き寄せ、これ以上ないほど誇らしげに胸を張った。ルチアは「まだ妻ではありません」と小声で抗議しながらも、まんざらでもないように頬を染めている。
『よし。ただちに連邦全土に通達を出し、エルディス王国への商船の出港を差し止めよう。……ザイオン、そしてルチア嬢。残党の処理が終わり次第、本国での盛大な「結婚式」の準備をして待っているぞ』
青白い光が消え、通信が途絶えた。
「……さて。これで外堀は完全に埋まったな」
ザイオンは通信魔石をポケットにしまい、獰猛な笑みを浮かべた。
連邦の強大な権力と、ルチアの完璧な経済計算。
二つの力が合わさったことで、エルディス王国に対する「無慈悲な経済封鎖」が正式に発動したのだ。
* * *
翌朝。
ルチアの予言は、現実のものとなった。
「なんだと!? ヴァルディス連邦の商船が、一隻も港に入ってこないだと!?」
王宮の謁見の間で、エドワードは報告にきた官僚の胸ぐらを掴み、信じられないというように絶叫した。
「は、はい! 連邦政府より公式な通達があり……『エルディス王室による、我が国のザック商会およびその投資先への武力攻撃を重く受け止め、一切の国交と貿易を無期限で凍結する』と……!」
「なっ……!?」
エドワードは顔面を蒼白にさせ、よろめいて玉座に崩れ落ちた。
「わ、私はただ、ルチアの隠し財産を回収しようと孤児院に兵を出しただけだぞ!? なぜそれが、ザック商会への攻撃になるのだ!!」
彼には理解できなかった。
スラムに潜伏しているルチアが、すでにザック商会の中心に収まっており、孤児院への支援も商会の正当な資金で行われていたという事実に。
結果としてエドワードは、自ら連邦の最大の逆鱗に触れ、国を滅ぼす引き金を引いてしまったのだ。
「で、殿下! 大変です!!」
別の文官が、血相を変えて謁見の間に転がり込んできた。
「連邦の経済封鎖の噂が王都中に広まり、市場がパニックに陥っています! 小麦の値段が昨日の二十倍に跳ね上がり、商人たちは暴動を恐れて店を閉めてしまいました! さらに、連邦を恐れた他国の商会まで、我が国からの撤退を表明しており……っ!」
「うるさい、うるさいっ!!」
エドワードは耳を塞ぎ、狂ったように叫んだ。
(なぜだ……! 私はただ、国のために新しい宮殿を作り、愛するマリーのために金を使っただけだ! なぜ、こんなことになってしまったのだ……!)
「殿下ぁっ! 宮殿の外に、暴徒と化した数千人の民衆が押し寄せています! 『飯を食わせろ』『王太子を引きずり出せ』と、正門を突破するのも時間の問題です!!」
「ひぃっ……!」
王太子としての権威も、国庫の財産も、すべてが幻のように消え去ろうとしていた。
愚か者が「暴力」という最悪のカードを切った代償。
それは、自国の首を完全に絞め上げる、圧倒的で無慈悲な経済の鎖だった。
泥船は、ついにその船体を真っ二つにへし折られ、暗く冷たい深海へと沈み始めていた。




