第26話 妻の座は、経費で落ちますか
連邦の暗殺部隊との死闘から、五日が経過した。
ザイオンの超人的な回復力は、闇医者すら「化け物か」と匙を投げるほどだった。彼は三日目にはベッドから起き上がり、五日目には包帯姿の上にシャツを羽織り、ギルドの復旧作業の指示を出せるまでに回復していた。
破壊された地下のVIPルームは、ガロアたちによって瓦礫が片付けられつつあったが、まだ土埃の匂いが立ち込めている。
その埃っぽい部屋の中心に、ザイオンはルチアを呼び出した。
「……傷は塞がったとはいえ、まだ安静にしておくべきです。復旧の予算組みなら、私がすべて終わらせていますが?」
ルチアは、手元の帳簿から顔を上げずに言った。
「ああ。お前の完璧な予算管理のおかげで、ギルドの連中は前よりいい給料をもらって喜んでるよ。……だが、今日お前を呼んだのは、帳簿の話じゃない」
ザイオンの、いつもより一段低く、真剣な声。
ルチアが顔を上げると、そこには普段の胡散臭いスラムのボスの姿はなかった。
彼は上質な漆黒のシャツを纏い、銀の仮面を外し、その整った顔立ちを完全に晒している。琥珀色の瞳に宿るのは、一国の頂点に立つべき男の、圧倒的な覇気と決意だった。
「……連邦の親父から、暗号通信が入った」
ザイオンは、片手に持っていた小さな羊皮紙の通信筒をテーブルに置いた。
「俺を殺しに来たあの『猟犬』の部隊長は、連邦の反議長派の筆頭貴族が飼っていた暗殺部隊だった。……奴らがなぜあんな大部隊を送り込んでまで俺を殺そうとしたか、分かるか?」
「……あなたが、彼らの不都合な『真実』に完全に辿り着いたから、ですか?」
ルチアが問うと、ザイオンは頷いた。
「ああ。奴らは横領した莫大な軍事予算を、国際貿易に見せかけてエルディス王国へ流し、資金洗浄していたんだ。俺はそれを裏社会から探るため、死んだふりをしてこの国のスラムと黒猫ギルドに潜伏し、その『受け子』となっている悪徳商会を探していた」
ザイオンは、崩れたデスクの残骸を軽く蹴った。
「そして、その資金洗浄の窓口になっていたのが……お前が序盤で帳簿を監査し、完膚なきまでに叩き潰した『ギド商会』だ」
「……えっ?」
ルチアは目を丸くした。
「お前がギドから巻き上げた裏帳簿の中に、連邦の腐敗貴族と繋がる決定的な不正送金の記録が紛れ込んでいたんだよ。お前はただの債権回収のつもりだっただろうがな。……俺は数日前、その『裏帳簿の原本』を親父のもとへ送った」
ザイオンは、ルチアを見て最高に愛おしそうに笑った。
「俺が何ヶ月もかけて探していた最後のピースを、お前があっさりと見つけ出してくれたんだ。……それに気づいた腐敗貴族どもが、親父が動く前に俺を口封じしようと、焦って放った最後の一手が、あの『猟犬』だったってわけだ」
「なるほど。……では、私が暗殺者に対して放った『連邦の口座の不正送金』のハッタリは……」
「ハッタリじゃなく、ほぼ事実だったんだよ。お前が時間を稼いで俺たちがあの部隊を全滅させたことで、奴らの口封じは完全に失敗した。……そして今日の朝、親父が俺の送った証拠を元に反逆罪と横領の罪を突きつけ、反議長派の幹部連中を一網打尽に捕縛したそうだ」
ルチアは息を呑んだ。
「では……あなたの、連邦の腐敗を暴くという『極秘任務』は……」
「ああ。終わったよ。……お前のおかげでな」
ザイオンは真っ直ぐにルチアを見つめた。
「俺はもう、死んだふりをしてスラムに隠れ住む必要はなくなった。数日後には、連邦の第一皇子として、表舞台に帰還することになる」
ザイオンの言葉に、ルチアの胸の奥が、ズキリと痛んだ。
任務が終わった。それはつまり、彼がこのスラムを去るということ。
元の『皇子』という絶対的な権力者の座に戻れば、彼には相応の婚約者が用意され、華やかな王宮での生活が待っている。
追放された傷物の公爵令嬢であり、ただの『財務顧問』でしかない自分が、彼の隣に立つ理由など、もうどこにもないのだ。
「……そうですか。それは、素晴らしいですね」
ルチアは、胸の痛みを必死に隠し、極めて事務的な、冷たい声を作った。
「あなたの投資は完璧な成功を収めました。第一皇子への復帰、おめでとうございます。……私の財務顧問としての契約も、これにて満了ということになりますね。退職金とこれまでの未払い残業代は、後ほど請求書を送らせていただきますわ」
ルチアは背筋を伸ばし、完璧な淑女の礼をとって、きびすを返そうとした。
これ以上ここにいれば、みっともなく泣きついてしまいそうだったから。
しかし。
「……誰が、契約満了だと言った」
ルチアの腕が、背後から力強く引かれた。
振り返ると、ザイオンが彼女の細い手首を掴み、そのまま瓦礫と土埃にまみれた床に、片膝をついていた。
「え……?」
「お前は本当に、数字と理屈で武装しないと生きていけねえ不器用な女だな。……だが、俺はそんなお前の防壁を、力ずくでぶち壊すって決めてるんだよ」
ザイオンは片膝をついたまま、ルチアの右手を取り、その薬指にそっと口付けを落とした。
王族としての、最大級の忠誠と求愛のポーズ。瓦礫の山という最悪のシチュエーションで、彼は誰よりも気高く、美しく、ルチアを見上げていた。
「俺は連邦の次期トップとして帰還する。だが、俺の隣に立つ女は、温室育ちの退屈なお姫様じゃダメなんだ。俺が背中を預けられるのは、金貨の雨を降らせて暗殺者を笑いながら理論で殴り倒す、世界で一番恐ろしくて、最高に美しい悪女だけだ」
「ザイ、オン……」
ルチアの声が震える。
「ルチア。俺と一緒に連邦へ来てくれ。……俺の有能な財務顧問としてじゃなく。俺の、生涯の『妻』として」
直球すぎる、本気のプロポーズ。
瓦礫と土埃にまみれた地下室で紡がれたその言葉は、どんな宝石よりも眩く、ルチアの心に突き刺さった。
「妻、だなんて……」
ルチアは顔を真っ赤に染め、パニックを起こしそうになる頭を必死に回転させた。
「あ、あなた、自分が何を言っているのか分かっていますか? 私はエルディス王国で婚約破棄された、いわくつきの女ですよ? そんな人間を連邦の次期トップの妻にすれば、あなたの政治的な価値が下落します!」
「お前の価値を理解できねえバカな国など、俺の連邦の経済力で一ヶ月以内に更地にしてやる。……お前が俺の隣にいれば、俺の価値は無限大に跳ね上がるんだ」
ザイオンはルチアの手を握る力を強め、琥珀色の瞳で彼女を真っ直ぐに射抜いた。
「どうだ、ルチア。……俺の人生という最大資産を、お前が一生かけて『独占管理』してくれないか?」
その熱い瞳と、嘘偽りのない言葉に、ルチアの心の中で積み上げられていた「理屈」という最後の壁が、完全に音を立てて崩れ去った。
ああ、負けだ。
この男には、どんな理論も計算も通用しない。
彼と一緒にいれば、間違いなく私の人生は予測不能なリスクだらけになる。
だが……これほど魅力的な『投資先』は、世界中のどこを探しても存在しない。
ルチアは、こぼれそうになる涙をグッと堪え、ふっ、と不敵で、最高に美しい笑みを浮かべた。
「……随分と、重たい不良債権を押し付けるのですね」
ルチアは空いている方の手で銀縁眼鏡の位置を直し、わざとらしくため息をついた。
「一国のトップの『妻』という役職。……それは、ただの財務顧問とは比較にならないほどの重労働ですわ。他国との外交、連邦の派閥管理、そしてあなたのような大馬鹿者の手綱を握るリスク。……これらすべてを引き受けるとなれば、私の労働対価は天文学的な数字になります」
「……」
ザイオンは息を呑んで、彼女の次の言葉を待つ。
「教えてください、ザイオン。……その『妻の座』にかかる経費は、あなたの愛で全額落ちますか?」
ルチアの、経済用語全開の、不器用すぎる「YES」の返事。
その言葉の意味を理解した瞬間。
ザイオンは瓦礫の上から立ち上がり、ルチアの腰を抱き寄せて、そのまま彼女の身体をふわりと宙に抱え上げた。
「……っははは!! あーっはっはっは!! 落ちる! 経費だろうがなんだろうが、俺の全財産と一生を懸けて、お前を満たしてやるよ!!」
「ちょっ、ザイオン! 降ろしなさい! まだ傷が完治していないのに、無理な動きをすると——んっ!」
ルチアの理屈っぽい抗議は、彼の熱い唇によって完全に塞がれた。
土埃の舞う地下室で、二人は深く、何度も口付けを交わした。
もう、ビジネスパートナーとしての距離はない。雇い主と秘書の境界線もない。
ただ、互いの魂の形が完璧に噛み合う、世界最強のバディが誕生した瞬間だった。
「……愛してるぜ、ルチア。誰よりも、何よりもな」
唇を離し、ザイオンが熱に浮かされたように囁く。
「……私もです。あなたのその圧倒的な資産価値ごと、一生愛して差し上げますわ」
ルチアもまた、彼の広い胸に顔を埋めながら、真っ赤な顔で正直な気持ちを伝えた。
スラムの地下で結ばれた二人の時間は、甘く、いつまでも続いていくかのように思えた。
* * *
翌朝。
黒猫ギルドの地上階にある酒場は、異様な熱気と活気に包まれていた。
「……さて。甘い時間はここまでです。私たちには、まだ片付けなければならない『大きなゴミ』が残っていますからね」
ルチアは、真新しい漆黒のドレスに身を包み、手元にある分厚い羊皮紙——エドワード王太子がサインした『金貨二万五千枚の借用書』をテーブルに叩きつけた。
「ああ。ついにこの日が来たな」
ザイオンもまた、ヴァルディス連邦の第一皇子としての最高級の三つ揃えのスーツを着こなし、ルチアの隣で不敵な笑みを浮かべていた。
「本日の正午。エドワード王太子の『利息支払い』の期日です。……現在の王室の国庫は完全に空っぽ。つまり、今日の正午をもって、エルディス王室は確実かつ合法的に財政破綻を引き起こします」
ルチアの瞳に、極寒の絶対零度の光が宿る。
連邦の次期トップという圧倒的な武力と権力を手にした今。
もはや、逃げ隠れする必要はない。
「担保に設定された王室の直轄領と税収権利を、容赦なく差し押さえに行きます。……泥船の底を完全にぶち抜き、あの愚かな王太子を、絶望のどん底へと叩き落として差し上げましょう」
「あぁ、そうだな。俺の恐ろしくて可愛い『妻』殿」
ザイオンがルチアの腰に腕を回し、優雅にエスコートする。
暗躍令嬢と、身分を取り戻した最強の皇子。
二人の標的は、己の破滅が迫っていることすら気づかずに王宮でふんぞり返る、哀れな王太子エドワード。
国家買収劇はいよいよ最終局面へ。
完膚なきまでの復讐劇の幕が、今、高らかに上がろうとしていた。
ついにくっつきました!!!




