第25話 甘すぎる特効薬
血と硝煙の匂いが充満していたスラムの夜が明けようとしていた。
黒猫ギルドの地下深く、隠し通路の先にある闇医者の診療室。
カチ、カチ、という古い柱時計の音だけが響く薄暗い部屋で、ルチアは粗末な丸椅子に腰掛け、ベッドに横たわる大柄な男の寝顔を見つめていた。
「……致命傷には至っていませんが、失血が酷すぎます。三日は絶対安静。熱が下がれば峠は越えるでしょう」
数時間前、緊急の手術を終えた闇医者が告げた言葉が、ルチアの頭の中で何度も反復していた。
ベッドに横たわるザイオンの巨体は、痛々しいほど何重にも白い包帯が巻かれている。特に右脇腹と背中の傷は深く、彼の浅い呼吸に合わせて、真新しい包帯にはすでにうっすらと赤い血が滲んでいた。
(……私のせいだわ)
ルチアは、自らの膝の上でギュッと両手を握りしめた。
彼女が着ている金貨三百枚のシルクドレスは、引き裂かれ、泥とザイオンの血で赤黒く汚れきっている。
もし、ザイオンが自分を庇わなければ。あの爆発を彼一人で避けようと思えば、いくらでも避けられたはずなのだ。
連邦の第一皇子であり、次期トップとなるべき絶対的な権力者。そんな世界で最も価値のある命を、彼はスラムの地下で、たかが一介の元公爵令嬢の盾にして投げ出そうとした。
「……大馬鹿者です。資産が自らを破壊して、管理者を守るなんて……」
ルチアは震える声で呟き、ベッドから力なく垂れ下がっている彼の手を、そっと両手で包み込んだ。
大きくて、無数のタコがあり、剣ダコと傷跡だらけの手。王族の温室育ちであるエドワードの手とは全く違う、本物の死線をくぐり抜けてきた「戦士」の手だった。
この手が、冷たくなってしまうかもしれない。
そう考えただけで、ルチアの胸の奥が、鋭い刃物でえぐられるように痛んだ。
「……ひどい人。スラムのボスだなんて嘘をついて……私を騙していたくせに」
ルチアの銀縁眼鏡の奥から、大粒の涙がポロリとこぼれ落ち、ザイオンの手の甲を濡らした。
婚約破棄された時も、全財産を失った時も、暗殺者に刃を突きつけられた時でさえ泣かなかった彼女が。
ただ、目の前の男が目を覚まさないという事実だけで、子供のように声を殺して泣きじゃくっていた。
「起きて……ザイオン。あなたがいなくなったら、私は……これから誰に、減らず口を叩けばいいのよ……っ」
「……相変わらず、物騒な秘書官殿だ。俺が死ぬ前から、次の減らず口の相手を探してんのか……?」
「……え?」
ルチアはハッとして顔を上げた。
掠れた、ひどく乾燥した低い声。
ベッドに横たわるザイオンが、琥珀色の瞳を薄っすらと開け、苦しそうに、しかしひどく優しげにルチアを見つめていた。
「ザイ、オン……!?」
「よぉ。……とりあえず、三途の川の渡し守に賄賂を渡して、引き返してきたぜ。……いててっ」
ザイオンが少しだけ身をよじって笑おうとした瞬間、傷に響いたのか顔をしかめた。
「馬鹿っ、動かないで。傷が開きます」
ルチアは慌てて彼を押さえつけようと立ち上がった。だが、その瞬間、ザイオンの大きな手が、ルチアの頬を伝う涙をそっと拭った。
「……お前、また泣いてるな」
「っ……泣いていません。埃が、目に入っただけです」
「嘘つけ。眼鏡のレンズの奥まで、ぐしゃぐしゃじゃねえか」
ザイオンは痛みを堪えながら、愛おしそうにルチアの目元を親指で撫でた。
「……ごめんな、ルチア。俺のせいで、お前をこんな危険な目に遭わせちまった。……お前の大切なドレスも、台無しだ」
「ドレスなんて……ドレスなんて、どうでもいいです!」
ルチアはついに強がるのをやめ、ザイオンの無事な左腕にしがみつくようにして、声を上げて泣き崩れた。
完璧な暗躍令嬢の仮面が、完全に剥がれ落ちた瞬間だった。
「あなたが……死んでしまうかと思った。……私の前で、また誰かが勝手にいなくなってしまうかと思った……っ!」
ルチアの肩が激しく震える。
ザイオンは少し驚いたように目を見開いた後、自身の左腕で、泣きじゃくるルチアの頭をそっと胸元に抱き寄せた。
「……大丈夫だ。俺はどこにも行かねえよ。お前を一人で王国に残して、勝手に死んだりするもんか」
トントン、と。子供をあやすような優しいリズムで、彼の手がルチアの銀色の髪を撫でる。
その体温と、力強い心臓の鼓動の音が、ルチアの耳にダイレクトに伝わってきた。
ああ、生きている。この人は、本当に生きて、私のそばにいてくれている。
「……大嘘つき」
ルチアはザイオンの胸に顔を埋めたまま、涙声でぽつりと呟いた。
「スラムのボスのくせに。……連邦の、第一皇子だなんて。……私に、あんな見え透いたハッタリを言わせるなんて……」
「ははっ。あの『裏帳簿をばら撒く』って脅し、聞いてて震えたぜ。俺の有能な財務顧問は、マジで世界一恐ろしい悪女だな」
ザイオンが喉の奥で笑う。
「……それに、嘘をついたのは謝る。連邦の腐敗貴族どもを油断させて一網打尽にするために、俺が『死んだ』ことにしてスラムに潜伏する必要があったんだ。……だがな、ルチア」
ザイオンは、ルチアの顎をそっと指先で持ち上げ、涙に濡れた彼女の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「俺が連邦の皇子だろうが、スラムのボスだろうが。……俺がお前を特別だと思ってること。お前を誰にも渡したくないって思ってること。……それだけは、出会った日から今まで、一ミリも嘘は混じってねえよ」
低く、熱を帯びた声が、ルチアの鼓膜を甘く震わせた。
「……っ」
ルチアは顔を真っ赤にして、ザイオンの視線から逃れるように再び彼の胸元に顔を伏せた。
「……ずるいですわ。重傷人のくせに、そんな反則みたいな口説き文句……。労働環境の悪化で、ギルドを辞めてやります」
「そりゃ困る。俺の人生には、もうお前が百パーセント組み込まれちまってるんだ。……なあ、ルチア」
ザイオンが、ルチアの耳元に唇を寄せる。
「傷が痛くて、熱も下がんねえんだ。……俺の有能な秘書官殿。なんか『甘い特効薬』を処方してくれないか?」
「特効薬……? ドンガに作らせた鎮痛剤なら、そこに……」
ルチアが棚の上の薬瓶を指差そうとした瞬間、ザイオンの顔が近づき——彼女の唇が、熱い体温によって塞がれた。
「んっ……!?」
ほんの触れるだけの、しかし火傷しそうなほど甘く、優しく、深い口付け。
血と薬の匂いが混じる中で、彼の圧倒的な熱が、ルチアの全身の感覚を溶かしていくように広がっていく。
「……っ、ザイ……オン、病人、なのに……っ」
「……最高の薬だ。これなら、明日にでも完治しそうだぜ」
ザイオンは唇を離し、息を荒くするルチアを見て、最高に満ち足りたような笑みを浮かべた。
「馬鹿……。本当に、どうしようもない大馬鹿者ですわ……」
ルチアは真っ赤な顔を両手で覆いながらも、もはや彼から離れようとはしなかった。
「……今夜は、このままここにいてくれ。お前の匂いがすると、安心して眠れそうだ」
「……仕方ありませんね。特別残業として、朝まで付き添って差し上げますわ。……時給は、金貨百枚で請求しますからね」
「ぼったくりめ。……だが、安いもんだ」
ザイオンは目を閉じ、ルチアの体温を感じながら、静かに深い眠りへと落ちていった。
血塗られた死闘の夜は終わりを告げた。
王宮を追放された暗躍令嬢と、身分を偽っていた連邦の第一皇子。
二人の間を隔てていたすべての嘘と理屈の壁が崩れ去り、ただの「男と女」として、互いの唯一無二の存在となった、優しく甘い夜だった。




