第24話 命の値段
瓦礫を踏みしめる重い足音が、粉塵の向こうから姿を現した。
生き残った四人の連邦暗殺部隊『猟犬』の残党。
彼らの黒装束は煤と血で汚れ、息も上がっていたが、その手には抜身の凶刃が握られ、殺意は微塵も削がれていなかった。
「……部隊長!!」
暗殺者の一人が、自爆して肉塊と化した部隊長の遺体を見て叫んだ。
そして、その奥の瓦礫の山に寄りかかり、血の海に沈んでいるザイオンと、彼を庇うように立つルチアを鋭く睨みつけた。
「標的は瀕死だ! だが、部隊長や先遣隊をここまでコケにしたこと、万死に値する。……女、そこを退け。貴様もろとも八つ裂きにしてやる」
暗殺者たちがジリジリと距離を詰めてくる。
ルチアの心臓は、肋骨を突き破りそうなほどの早鐘を打っていた。手にしたザイオンのナイフは、柄が汗で滑りそうだ。
(……怖い。一歩でも踏み出せば、確実に殺される)
だが、ルチアは決して膝を折らなかった。
彼女はヒビの入った銀縁眼鏡を外し、敢えてカチャリと音を立てて瓦礫の上に捨てた。そして、ドレスの破れ目から覗く白い脚を隠すこともなく、ふっ、と冷酷で、この上なく傲慢な笑みを浮かべたのだ。
「……おやめなさい。あなた方の雇い主である、反議長派の特権貴族の首を、物理的に絞めることになりますよ」
「……何?」
思いがけない女の言葉と、そのあまりにも堂々とした態度に、暗殺者たちの足がピタリと止まった。
「私は黒猫ギルドの財務顧問、ルチア。……そして、ザイオン・ル・ヴァルディス殿下より、連邦を裏から食い物にしている『反議長派の裏帳簿』のすべてを管理・解析するよう託された、唯一の人間です」
ルチアの声は、VIPルームの惨状に似合わないほど凛と澄み渡り、絶対的な自信に満ちていた。
背後で血を流すザイオンが、わずかに目を見開く気配がした。無理もない。裏帳簿など、ルチアは影も形も見たことがないのだから。
これは、彼女の卓越した知能が即座に構築した「完全なるハッタリ」だった。
「裏帳簿だと……? はっ、ハッタリを抜かすな! 標的はまだ証拠を掴んでいないはずだ!」
暗殺者の一人が怒鳴るが、ルチアは鼻で笑った。
「ハッタリかどうか、試してみますか? たとえば……ヴァルディス中央銀行の第三百四番口座。毎月十日に、エルディス王国の魔力鉱石の不正輸出による利益が、偽名で振り込まれていますね。さらに、連邦軍の軍事予算の横領記録。……日付と金額を、今ここで寸分の狂いもなく暗唱して差し上げてもよろしくてよ?」
「なっ……!?」
暗殺者たちが息を呑む。
彼らは単なる実行犯であり、雇い主の具体的な不正の数字など知るはずもない。だが、ルチアのあまりにも具体的な「数字」の提示に、彼らの本能が「この女は本当に知っている」と警鐘を鳴らしたのだ。
(王宮の金庫番だった知識が役に立ちましたわね。連邦と王国の貿易の不自然な資金の流れ……その穴を適当に繋ぎ合わせただけですが、効果は絶大です)
ルチアは心の中で冷や汗を拭いながら、さらに畳み掛けた。
「ザイオン殿下は、すでにすべての証拠を揃え、私に託しました。……そして私は、もし私と殿下の身に『何か』があった場合、その裏帳簿のコピーが、殿下の父君であられる『現・連邦議長』、および世界各国の主要な新聞社に一斉にばら撒かれるよう、情報ギルドのネットワークを使って特別なシステムを構築済みです」
ルチアは、持っていたナイフの腹を指先でトントンと叩いた。
「このシステムは、私が毎日正午に特定のパスワードを入力しなければ、自動的に情報が発信される仕組みとなっています。……つまり。今ここで私と殿下を殺せば、明日の正午には、あなた方の雇い主は『国家反逆罪』で一斉に捕縛され、全員が絞首台に送られることになります」
「……っ!!」
完璧な論理。逃げ場のない脅迫。
暗殺者たちの間に、明確な動揺が走った。
彼らはプロだ。雇い主から報酬をもらって動いている。もし雇い主が破滅すれば、彼らへの報酬が支払われないどころか、彼ら自身も「大逆罪の実行犯」として世界中から追われる身となるのだ。
「……嘘だ。そんな都合のいいシステムがあるものか……!」
「嘘だと思うなら、どうぞ私を刺しなさい」
ルチアは両手を広げ、自らの無防備な胸を晒した。
「ですが、あなた方はプロの暗殺者でしょう? 費用対効果を計算しなさい。ここで私たちを殺して得る『ゼロの報酬と破滅』と、ここで一度撤退し、雇い主に『裏帳簿が女の手に渡っている』と報告して得る『確実な生存』。……どちらの投資が正しいか、火を見るよりも明らかではありませんか?」
その時。
崩れた通路の奥から、複数の荒々しい足音と、ガロアの怒声が聞こえてきた。
「姐さん! ボス!! 今行くぜ!! 野郎ども、猟犬の残党を逃がすな!!」
ギルドの増援の到着。
それが、暗殺者たちの迷いを断ち切る決定打となった。
「……チッ。部隊長も死んだ。これ以上の戦闘はリスクが高すぎる。撤退だ!!」
暗殺者の一人が忌々しげに舌打ちをし、仲間たちに合図を送る。
彼らはルチアをひどく警戒した目で見つめながら、素早い身のこなしで崩れた壁の隙間へと飛び込み、夜の闇の中へ跡形もなく消え去っていった。
「……」
敵の気配が完全に消えたことを確認した瞬間。
ルチアの手から、カランッ……とナイフがこぼれ落ちた。
「はぁっ……、はぁっ……!」
張り詰めていた糸が切れ、ルチアはその場にへたり込んだ。
全身がガタガタと震え、奥歯がカチカチと鳴っている。怖かった。本当は、心臓が口から飛び出そうなくらい怖かったのだ。
もし彼らが脅しに屈さず、あと一歩踏み込んできていたら、ルチアの首は間違いなく刎ね飛ばされていただろう。
「……姐さん!! ボス!!」
瓦礫を掻き分けて、血まみれのガロアやドンガたちギルドの面々が飛び込んできた。
「ガロア……! 早く、ザイオンを! 止血はしましたが、早く医者を……!!」
ルチアは震える手でザイオンを指差し、叫んだ。
「ボス!! クソッ、なんて出血だ……ドンガの親父、早く担架を! 地下の闇医者を呼べ!!」
ガロアたちが慌ててザイオンの巨体を抱え上げる。
「……ルチア」
担架に乗せられようとしたザイオンが、薄れゆく意識の中で、微かにルチアの名を呼んだ。
「ザイオン……喋らないで、傷が開きます!」
ルチアは彼の血まみれの手を両手で包み込んだ。
ザイオンは、酷く青ざめた顔で、それでも最高に嬉しそうに、悪魔のように笑った。
「……お前、マジで……最高、だな。あの猟犬どもを、ハッタリ一つで……退かせやがった」
「当然です。私はあなたの有能な財務顧問ですから」
ルチアは、涙をこぼしながら、必死にいつものように言い返した。
「……ああ。俺の、世界一の……共犯者だ」
その言葉を最後に、ザイオンは完全に意識を手放し、深く暗い闇の中へと沈んでいった。
「ザイオン!! ザイオンッ!!」
ルチアの悲痛な叫び声が、崩壊したVIPルームに響き渡る。
スラムの防衛戦は、ギルド側の辛くも『勝利』で終わった。
だが、その代償はあまりにも大きく……暗躍令嬢と嘘つきな皇子の長い夜は、まだ終わっていなかった。




