第21話 黄金の雨
王都の地下深くを流れる、悪臭漂う巨大な地下水路。
その暗がりを、音もなく進む黒い影の群れがあった。ヴァルディス通商連邦が誇る、国家非公認の特務暗殺部隊『猟犬』である。
総勢三十名。全員が一切の光を反射しない特殊な黒装束に身を包み、手には致死性の毒が塗られた軍用短剣や、消音加工された小型のクロスボウを構えている。
「……部隊長。スラムの地下出口に到達しました」
先頭を進んでいた斥候が、闇に溶け込むような低い声で報告した。
「よし。標的は黒猫ギルドのボス、ザイオン。そしてその周囲にいる者は、女子供であっても例外なく始末しろ。……我々が連邦の『猟犬』であることを、王都のドブネズミどもに教えてやれ」
部隊長が冷酷に命じると、黒い影たちは一斉に頷き、スラムの路地裏へと這い出していった。
だが、地上に出た瞬間、部隊長は微かな違和感を覚えた。
(……静かすぎる)
深夜とはいえ、ここは王都で最も治安の悪い貧民街だ。普段なら、酔っ払いの怒声や、野犬の吠え声、あるいは娼婦の嬌声などがどこからか聞こえてくるはずである。
しかし今夜、スラムはまるで巨大な墓場のように静まり返っていた。建物の窓には板が打ち付けられ、人っ子一人歩いていない。
「……ネズミどもめ、我々の接近に気づいて隠れたか。だが、無駄なことだ」
部隊長は鼻で笑った。
相手がどれほど警戒していようと、所詮は素人のチンピラ集団。一国の正規軍すら壊滅させる『猟犬』の敵ではない。
「第一班、前衛へ。ギルドのアジトへ続く三番路地を確保しろ」
指示を受け、十名の暗殺者たちが、迷路のように入り組んだ細い路地へと音もなく滑り込んだ。
彼らは極限まで研ぎ澄まされた感覚で、足元の石畳の緩みや、壁に仕掛けられた不自然な突起がないかを警戒しながら進む。……スラムの連中が考えつく罠など、せいぜい落とし穴か、毒矢の仕掛け程度だ。
先頭を進む暗殺者が、わずかに足首に触れた『極細のワイヤー』の感触に気づき、ピタリと動きを止めた。
(……素人め。こんな見え透いた罠など……)
暗殺者がワイヤーを跨ぎ越えようとした、その瞬間だった。
——ジャラジャラジャラジャラッ!!!!
突然、彼らの頭上の古い建物の屋根から、鼓膜をつんざくような凄まじい金属音が鳴り響き、大量の『何か』が路地裏に降り注いだ。
「なっ……!?」
「敵襲!? 矢か、それとも爆弾——!?」
暗殺者たちが咄嗟に身を屈め、防御姿勢をとる。
だが、彼らの頭や肩に降り注ぎ、石畳にぶつかってけたたましい音を立てて跳ね回ったのは、武器でも暗器でもなかった。
「き、金貨……!?」
暗殺者の一人が、足元を転がるまばゆい光を放つ金属片を見て、間抜けな声を上げた。
そう。ルチアの指示でミラが張り巡らせたワイヤーの先には、ギドから巻き上げた『本物の金貨』が大量に吊るされていたのだ。
極限の緊張状態の中、降ってくるはずのない「黄金の雨」。さらに、狭い路地裏で反響する金貨の甲高い衝突音は、超人的な聴覚を持つ暗殺者たちの感覚を一時的にショートさせた。
「な、なんだこれは……スラムの連中、金貨をばら撒いて命乞いでもしているつもりか!?」
「馬鹿な、罠だ! 警戒しろ!」
部隊長が怒鳴ったが、彼らの『思考』と『視線』が足元の金貨に奪われたその一瞬の隙こそが、ルチアの狙いだった。
「——さあて、お待ちかねの『大赤字の宴』の始まりだぜ!」
路地を見下ろす屋根の上から、義手の武器職人ドンガの楽しげな声が響いた。
同時に、両側の建物の窓から、大量の『粉末』と『液体』が一斉に路地裏へと噴射された。
「ゴホッ!? なんだこの粉は……砂か!?」
「目が……痛ぇ! それに、この強烈な匂い……安い酒か!?」
蒼魔結晶を極限まで細かく砕いた粉塵と、揮発性の高い粗悪なエール。
空中に舞い散ったその混合物は、暗殺者たちの目と喉を容赦なく焼き、さらに蒼魔結晶の性質によって、わずかな月光を乱反射して視界を完全に真っ白に染め上げた。
「クソッ、目潰しか! 全員、布で口と目を覆え!」
「遅えよ、猟犬さんたち」
パチンッ、と。
屋根の上で、ミラが火打ち石を鳴らした。
生み出された小さな火花が、アルコールが充満した粉塵の霧へと落ちていく。
直後。ドォォォォンッ!! という重低音と共に、路地裏全体が青白い炎の竜巻に包み込まれた。
「ぎゃあぁぁぁっ!!」
「熱い! 息が、息ができねぇっ……!!」
爆発的な燃焼による一瞬の酸欠と、強烈な熱波。
殺傷力こそ高くないが、これはルチアが考案した「人間の感覚器官を物理的に破壊する」最悪の制圧トラップだった。
目と耳と呼吸を同時に奪われた第一班の十名は、完全に戦闘能力を喪失し、石畳の上で藻掻き苦しむことしかできなかった。
「今だ! 野郎ども、網をかけろ! 一匹残らず簀巻きにしてやれ!」
ガロアの号令と共に、屋根の上や路地の奥から、防毒マスクを着けたギルドの荒くれ者たちが一斉に飛び出してきた。
彼らは毒を塗ったナイフを構える暗殺者たちに対し、重い投網を被せ、上から容赦なく棍棒で殴りつけて昏倒させていく。
プロの暗殺者からすれば、あまりにも泥臭く、屈辱的な制圧劇だった。
「……報告します。第一路地、制圧完了。猟犬の先遣隊十名を無力化しました」
* * *
黒猫ギルドの地下特別室。
伝声管から届いたガロアの報告を聞き、ルチアは手元の帳簿にチェックを入れた。
「第一陣、撃退完了ですね。……ばら撒いた金貨五百枚のうち、回収不能分はおよそ一割。それに粗悪な酒と蒼魔結晶の廃棄代を含めて……今回のトラップによる損失は、金貨六十枚といったところですか」
ルチアは銀縁眼鏡の奥で、極めて事務的に呟いた。
「金貨六十枚で、プロの暗殺者十人の命をノーダメージで無力化したのです。……驚異的な費用対効果の高さですね。投資としては大成功です」
「……お前、マジでいかれてるな」
背後のソファで、愛用の二刀のナイフを研いでいたザイオンが、呆れと感嘆が入り混じった溜息をついた。
「金貨を囮にして相手の思考を止め、ゴミクズ同辺の石と酒で目潰しをして、最後は投網と棍棒でタコ殴り。……連邦の誇るエリート暗殺部隊が聞いたら、屈辱のあまり全員舌を噛み切って死ぬぜ、その戦法」
「私は勝敗の美学などという非合理的なものには興味がありません。いかに安く、安全に、私たちの『命』という最大資産を守り抜くか。……それだけが、私の財務顧問としての責務です」
ルチアは振り返り、ザイオンに向かってふっと微笑んだ。
それは、婚約破棄された夜の冷たい作り笑いとは違う、心からの信頼と、彼を守り抜くという強固な意志に満ちた美しい笑みだった。
その笑顔に、ザイオンは一瞬だけ目を奪われ——そして、ナイフを持つ手にギリッと力を込めた。
「……だが、ルチア。お前の完璧な作戦も、ここまでだ」
ザイオンが立ち上がった瞬間。
ズドォォォォンッ!! という、先ほどの粉塵爆発とは次元の違う、大地を揺るがすような凄まじい轟音がギルドの地下全体に響き渡った。
「きゃっ……!?」
激しい揺れに、ルチアがバランスを崩して倒れそうになる。
ザイオンが瞬時に彼女の腰を抱き止め、自らの胸の中に匿った。
「な、何事ですか!? ミラの仕掛けた罠が暴発した……!?」
「違う。……『猟犬』の本体が、路地裏の罠を完全に無視して、ギルドの正面玄関を魔力爆弾で『強行突破』しやがったんだ」
ザイオンの琥珀色の瞳が、極限まで細められる。
伝声管の奥から、ガロアたちの悲鳴と、肉が切り裂かれる生々しい音が聞こえてきた。
『ボ、ボス!! 第一班とは動きが違え……こいつら、バケモ——がはっ!!』
通信が、ブツリと途絶える。
ルチアは血の気が引くのを感じた。
「ガロアたちの手に負える連中じゃねえ。……路地裏の小細工に引っかかったのは、俺たちの戦力を削るための『捨て駒』だ。本命の精鋭部隊は、最初からこの地下のVIPルームだけを一直線に狙ってきやがった」
ザイオンはルチアを自分の背後に庇うように立たせ、両手に漆黒のナイフを逆手で構えた。
その背中は、もはやスラムの胡散臭いボスのそれではない。数え切れないほどの死線をくぐり抜けてきた、冷酷無比な戦士の圧倒的な覇気を放っていた。
「……ザイオン」
ルチアは、彼が自分を逃がそうとしないことに気づき、小さく名前を呼んだ。
「お前は一歩も動くな、俺の最高の財務顧問。……ここから先は、金貨も理屈も通じねえ、血と暴力だけの世界だ」
ザイオンが獰猛な笑みを浮かべた直後。
特別室の頑丈な扉が、木っ端微塵に吹き飛ばされた。
もうもうと立ち込める煙の中から現れたのは、返り血で黒装束を赤く染め上げた、五人の暗殺者たち。彼らの目は、感情を完全に死滅させた、獲物を屠るだけの機械のようだった。
「……見つけたぞ。裏切り者の皇子殿。そして、その横にいる小賢しい雌狐もろとも、ここで肉塊に変えてやる」
部隊長が、血の滴る短剣をザイオンに向けて宣告する。
最強のバディに迫る、真の死線。
計算式も罠も通用しない絶望的な空間で、二人の命を懸けた、血で血を洗う共闘が幕を開けた。




