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第20話 予算無制限の防衛

黒猫ギルドの地下特別室。

巨大なオーク材のデスクの上には、スラム街の入り組んだ路地や地下水脈までが網羅された、緻密な見取り図が広げられていた。


「連邦の特務部隊『猟犬』が国境を越え、王都の地下水路からこのスラムへ到達するまで、推定であと二時間」

ルチアは銀縁眼鏡の奥で冷徹に時間を計算し、羽ペンで図面に次々と印をつけていく。


「迎撃の準備を急ぎます。ガロア、各部門のスペシャリストをここに」

「おうっ! 入ってこい、お前ら!」


ガロアの野太い声に呼ばれ、VIPルームに二人の人物が足早に入ってきた。


一人は、ギルドの斥候部隊をまとめる小柄な少女、ミラ。

ボロボロのローブを羽織っているが、その身のこなしは猫のように軽く、足音一つ立てない。彼女はスラムの屋根から屋根へと飛び移るパルクールの達人であり、極細のワイヤーを使った罠の設置においては右に出る者がいなかった。


もう一人は、爆発物と化学薬品の扱いに長けた初老の男、ドンガ。

かつて東部の鉱山で発破技士をしていたが、事故で左腕を失い、スラムに流れ着いてギルドの武器職人(兼、危険物処理班)に収まっていた。


「姐さん。あっしとドンガの親父を呼んだってこたぁ、派手にやるんで?」

ミラが口の端にニヤリと笑みを浮かべ、腰のワイヤー射出機を弄る。


「ええ、極上の赤字覚悟のパーティーになりますわ」

ルチアは図面を指差した。


「ミラ。あなたの部隊は、猟犬たちが侵入してくるであろう南の地下水路出口から、このギルドのアジトに至るまでの『すべての細い路地』に、見えないワイヤーを張り巡らせなさい」

「了解。首を刎ねる高さにする? それとも足を掬う?」


「いいえ。殺傷力は不要です。ワイヤーの先には、先日ギド商会から巻き上げた『金貨』を詰めた袋を、絶妙なバランスで頭上に吊るしておきなさい。ワイヤーに触れれば、大量の金貨がけたたましい音を立てて石畳に降り注ぐように」


「……は? 姐さん、金貨をばら撒くって? 敵に小遣いやってどうするんだい?」

ミラが目を丸くする。


「猟犬は暗闇と静寂を好む暗殺者です。大量の金属音は彼らの聴覚を一時的に麻痺させ、何より『金貨が降ってくる』という予測不能の事態は、プロであるほど一瞬の判断を遅らせます」

ルチアは冷たく言い放った。

「その一瞬の硬直を、次の罠に繋げるのです。……ドンガ」


「へい、姐さん」

義手の親父、ドンガが一歩前に出る。


「ギドに売りつけようとした偽の魔力石『蒼魔結晶』。あれは熱を加えるとただの砂(産業廃棄物)になりますが、あの砂をさらに細かく砕き、第一倉庫にある『度数の高い粗悪な酒』と混ぜ合わせた場合、どうなりますか?」


ルチアの問いに、ドンガの濁った目がギラリと怪しく光った。


「……なるほど。蒼魔結晶の砂は、空中に舞うと光を乱反射する性質がありまさぁ。そこに揮発性の高い粗悪なエールを霧状にして撒き、火をつけりゃあ……殺傷力は低えが、むせ返るような強烈な『目潰しの煙幕』と『粉塵の竜巻』が数分間、路地裏に停滞しやすぜ」


「完璧です。金貨の雨で足を止めた暗殺者たちを、その煙幕で包み込みなさい。……猟犬の『目』と『耳』、そして『呼吸』を同時に奪うのです」


プロの暗殺者の強みは、超人的な身体能力と感覚だ。

ルチアは武力で正面からぶつかるのではなく、彼らの感覚器官そのものを「物理的な障害物」で塗りつぶし、無効化する泥臭い戦術を組み立てたのだ。


「すげえ……」

ミラとドンガが息を呑む。

スラムの路地裏というホームグラウンドの地の利と、あり余る資金、そして廃棄物すらトラップに変える悪魔のような発想。


「ですが、姐さん」

ガロアが難しい顔で口を挟んだ。

「その罠をスラム中に仕掛けるには、時間が足りねえ。俺たちギルドの人間だけじゃ、手が足りねえですよ。二時間で終わらせるには、あと五百人は働き手がいりまさぁ」


「問題ありません。働き手なら、外に山ほどいるでしょう?」


ルチアはそう言うと、羽ペンを置き、地下室から地上階——スラムの酒場へと続く階段を上り始めた。

ザイオンも無言で彼女の後を追う。


酒場の重厚な扉を開け、ルチアがスラムの表通りを見下ろすバルコニーに立つと、そこには泥水をすするようにして生きる、貧しくも逞しいスラムの住人たちがひしめいていた。


「……よく聞きなさい! スラムの住人たち!」


ルチアの凛とした、しかし腹の底に響く声が、夕闇の迫るスラム街に響き渡った。

住人たちが何事かと、一斉にバルコニーを見上げる。


「私は黒猫ギルドの財務顧問、ルチアです。先日、高利貸しのギドからあなた方の『借金証書』を巻き上げ、すべて焼却炉の灰にして差し上げたのはこの私です」


その言葉に、住人たちの顔色が変わった。

『あ、あのお嬢様が、俺たちの借金を……!』『女神様だ、ギルドの新しい姐さんだ!』と、ざわめきが波のように広がっていく。


「今から、このスラムに王宮の手先(暗殺者)が数百人規模で攻め込んできます」

ルチアが事実を告げると、恐怖の悲鳴が上がった。


「パニックになる必要はありません。……今から一時間、ギルドの罠作りに協力できる者は前へ出なさい。日当として、通常の労働の十倍……『銀貨五枚』をその場で現金支給します。罠の設置が終われば、すぐに地下シェルターへ避難しなさい。怪我なく避難できた者には、さらにボーナスとして『金貨一枚』を支給します」


「き、金貨一枚!?」

「一時間石を運ぶだけで、銀貨五枚だと!?」


スラムの住人たちの目に、恐怖を完全に塗り潰すほどの「圧倒的な欲望と熱狂」の火が灯った。


「あなた方の命は、私の大切な資産です。誰一人として死ぬことは許可しません。……銀貨が欲しい者は、ミラとドンガの指示に従いなさい! 働き手の募集は先着五百名、今すぐ行動を開始しなさい!!」


「うおおおおおっ!! 俺にやらせてくれ!!」

「私もやるよ、姐さん! その恩、ここで返させてもらうよ!!」


ルチアの一声で、スラム街がかつてないほどの統率と熱狂をもって動き出した。

恐怖で逃げ惑うはずの弱者たちが、ルチアの「現金」と「借金帳消しの恩」によって、一瞬にして世界最高の効率を誇る工作部隊へと変貌したのだ。


「……恐れ入ったぜ。マジで、お前って女は……」


バルコニーの陰でその光景を見ていたザイオンが、呆れたように、しかしこれ以上ないほど愛おしそうに溜息をついた。


「人を動かすのは恐怖でも暴力でもねえ、『現金』と『恩』だ。……お前がギドの借金証書を燃やしたのは、ここでこの連中を『最強の味方』として使うための投資だったってわけか」


「買い被りすぎです、ザイオン」

ルチアはバルコニーから室内に戻り、銀縁眼鏡を押し上げながらふっと口角を上げた。


「私はただの合理主義者です。人件費を惜しんで防衛ラインを突破されれば、我がギルドは全滅し、私とあなたの命が失われます。金貨数百枚のバラマキで私たちの命が確約されるなら、これほど安い経費はありませんわ」


「ははっ、どこまでもブレねえな。……だが、あの『猟犬』どもは、路地裏の罠だけで全滅するような柔な連中じゃねえ。必ず何人かの特級の化け物が、罠を抜けてこのギルドの本陣までたどり着くはずだ」


ザイオンはコートの内側に隠した何本ものナイフの感触を確かめ、琥珀色の瞳を鋭く細めた。


「罠を抜けてきた奴らは、俺がこの手で全員殺す。……ルチア、お前は絶対に俺の背中から離れるなよ」

「ええ。あなたの命という最大資産、私が特等席で管理させていただきます」


ルチアはザイオンと視線を交わし、そして、誰にも聞こえないような小声で呟いた。


「……それに、彼らがこのギルドまでたどり着いた時。最後に彼らを出迎える『一番の罠』は、まだこの図面には書き込んでいませんから」

「……ん? ルチア、今なんつった?」

「独り言です。さあ、ザイオン。私たちも地下の特別室へ戻り、迎撃の最終確認を」


ルチアは秘密めいた笑みを浮かべ、ザイオンの腕を引いて階段を降りていく。


暗殺者の到着まで、あと一時間。

スラムの住人たちとギルドの総力を結集した「予算無制限の要塞化」は、ルチアの完璧な指揮のもと、着々と完了へと向かっていた。

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