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第2話 胡散臭いバーテンダー

王宮の華やかなネオンから外れ、舗装された石畳が泥道へと変わる区画。

王都の暗部であり、法が機能しない掃き溜め——スラム街の路地裏を、ルチアは一人で歩いていた。


足元は泥に汚れ、引きちぎったとはいえ、彼女が着ている最高級のシルクドレスは、この薄暗い路地では異常なほど目立っていた。

暗がりから向けられる、飢えた獣のような下品な視線や舌打ち。時折、背後から忍び寄ろうとする足音も聞こえる。

普通の貴族令嬢であれば、恐怖で泣き叫び、その場にうずくまっていただろう。


(現在の所持金は、護身用に靴底に隠し持っていた金貨三枚のみ。当面の宿代と食費、そして新しい平民用の衣服を調達するには十分だけれど……)


ルチアの顔に、恐怖の色は一切なかった。

彼女の頭の中はすでに、これからの生存戦略と、莫大な利益を生み出すための「投資計画」でフル回転している。


(私が生き残るためには、この手持ちのカード——私の頭脳にある情報を、最も高く買ってくれるパトロンを即座に見つけなければならない。それも、王家の権力が及ばない、裏社会の治外法権エリアで)


やがて彼女は、古びた木製の看板が揺れる一軒の酒場『踊る黒猫亭』の前に立ち止まり、躊躇うことなくその重い扉を押し開けた。

ギィ、と立て付けの悪い音が響く。


むせ返るような安酒と安煙草の匂い。そして、暴力と欲望が入り混じったむき出しの空気が、彼女を出迎えた。

騒がしかった店内が、一瞬にして水を打ったように静まり返る。

無理もない。気品に満ちた絶世の公爵令嬢が、スラムの最深部にある酒場に一人で現れたのだ。まるで、泥沼に一輪の白百合が咲いたような異物感だった。


「……おいおい、すげぇべっぴんさんが迷い込んできたぜ」

「家出のお嬢様か? ここがどういう場所かわかってんのか?」


ニタニタと下劣な笑みを浮かべた、顔に大きな傷のある大男が、仲間を連れてルチアの退路を塞ぐように立ち塞がった。


「道をお退きなさい」

ルチアは、一歩も引かずに冷ややかな声で告げた。


「威勢がいいねぇ! そんなボロボロのなりで、誰に口を利いてる——」

男がルチアの肩を掴もうと、汚れた手を伸ばした。


「あなたがたが着ているその粗末な革鎧と、すり減ったブーツ。そして腰に下げているギルドの末端証。……日雇いの用心棒で、日給はせいぜい銀貨二枚といったところでしょう?」


ルチアの、氷のように冷たく、極めて事務的な声が、男の動きをピタリと止めた。


「私が着ているこのドレスは、上質な東方シルク。一ヤードあたり金貨五十枚は下りません。もしあなたのその汚れた手で触れ、染み一つでもつければ、クリーニング代として金貨十枚を請求します」

「な、なんだと……?」


「金貨十枚をあなたの現在の日給で換算すると、およそ三年分の労働対価に相当します。その間、あなたは飲まず食わずで働き続けなければなりません。……たった一度、私の肩に触れる欲求を満たすためだけに、三年の寿命を借金として支払う覚悟はありますか?」


静まり返る酒場。

ルチアの瞳には、一切の感情がなく、ただ「数字という絶対的な事実」だけが冷徹に並べられていた。

凄んでいるわけではない。事実を述べているだけのその圧倒的な理性の前に、暴力で生きる男たちは、得体の知れない気味悪さを感じて後ずさった。


「……おいおい。うちの店で、上等な客に手ェ出すんじゃねぇよ。計算高えお姫様を怒らせたら、身ぐるみ剥がされるぜ」


不意に、カウンターの奥から間延びした男の声が響いた。

声の主は、カウンターの中で気怠げにグラスを磨いている若いバーテンダーだった。


少し長めの、無造作に跳ねた黒髪。シャツの胸元をだらしなく開け、琥珀色の瞳には面白がるような光が宿っている。

一見するとただの軽薄な青年だが、彼が声を掛けた瞬間、荒くれ者たちの肩がビクッと跳ね、そそくさと元の席へ逃げ帰っていった。


(……ただのバーテンダーではないわね)

ルチアは即座に相手の立ち位置を分析しながら、コツコツとヒールを鳴らしてカウンターの前に立った。


「いらっしゃい、お姫様。こんな掃き溜めに、ホットミルクでも飲みに来たのか?」

男はグラスを置き、両肘をついてルチアの顔を覗き込んだ。至近距離で見ると、腹立たしいほどに整った顔立ちをしている。だが、その口元には人を食ったような胡散臭い笑みが浮かんでいた。


「ミルクは結構です。……私は、この酒場を隠れ蓑にしている『情報ギルド』のボスに会いに来ました。有益な商談を持ちかけたいのです」


ルチアが単刀直入に告げると、バーテンダーの男は「へぇ」と目を細め、グラスに安酒を注いで彼女の前に滑らせた。


「商談ねぇ。温室育ちのお貴族様が、俺たち裏社会のゴロツキに何を売るって? ウチのボスは怒らせると怖いぜ。まさか、その綺麗な体でも売るつもりか?」

品定めのようになめ回す視線。普通の令嬢なら顔を真っ赤にして怒るか、怯えて逃げ出すだろう。

しかし、ルチアはグラスの酒を一瞥し、鼻で笑った。


「生憎ですが、私の体など売っても、せいぜい好事家の貴族に金貨数百枚で買われる程度です。私が売りたいのは、もっと莫大な利益……金貨百万枚を継続的に生み出す『情報』です」


男の眉が、ピクリと動いた。グラスを磨く手が止まる。


「私はつい一時間前まで、この国の王太子の婚約者でした。王室の予算管理をすべて任されていた私の頭の中には——」

ルチアは、自分のこめかみをトントンと指で叩いた。


「王宮の裏帳簿、貴族たち四十二名の脱税ルート、隣国との関税の裏取引のリスト、そして王家直轄の隠し金庫の暗証番号。そのすべてが一字一句違わず、完璧に記憶されています」

「……」

「私から情報を引き出そうと、拷問などは考えないことです。私は数字を愛していますが、痛みには弱いですから。自白剤でも使われれば、あっさりと嘘の数字を並べ立て、あなた方の組織を破滅に導く自信があります」


ルチアは男の琥珀色の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

「どうです? ボスに取り次ぐ価値くらいは、あるのではありませんか?」


深い静寂。

カウンター越しの男は、数秒間ルチアの顔をじっと見つめ……やがて、肩を揺らして低く笑い始めた。


「くくっ……あははははっ! 王太子の婚約者が、婚約破棄された腹いせに国を丸ごと売りに来たって? おいおい、傑作だな!」

「笑い事ではありません。私は至って真剣です。無給の残業を強いられた挙句、不当に解雇された労働者として、私の知識と計算能力を最も高く買ってくれる雇用主を、一秒でも早く探さなければならないのです」


男は笑い涙を指で拭いながら、手に持っていたバーテンダーの布巾を、背後の棚へポンッと放り投げた。


「いや、最高だ。俺、そういうイカれた女、大好きだよ」


男の琥珀色の瞳から、先ほどまでの「気怠げなバーテンダー」の光が完全に消え去った。

代わりに覗いたのは、獲物を見つけた肉食獣のような、鋭く、そして底知れぬ危険な支配者の光だった。彼から放たれる圧倒的な威圧感に、店内の荒くれ者たちすら息を潜めている。


「面接は合格だ、お嬢様」


男はカウンターから身を乗り出し、ルチアの鼻先スレスレまで顔を近づけた。

ふわりと、上質な葉巻の香りと、危険な大人の男の匂いが鼻を掠める。


「俺の名前はザイオン。……お前が探してた、この情報ギルドのボスだ。さあ、詳しく聞かせてもらおうか。お前のその優秀すぎる頭脳の『買い取り価格』を」


男——ザイオンは、三日月のように目を細め、この上なく悪党に相応しい、極上の笑みを浮かべたのだった。

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