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第19話 撤退の計算はゼロ

3章突入です!

スラム街の最深部、黒猫ギルドの地下特別室。

エドワード王太子に「破滅の借用書」をサインさせ、勝利の美酒に酔いしれそうになっていた二人の空間は、たった一通の黒い封筒——『黒の暗号』によって、極寒の空気に塗り替えられていた。


「ヴァルディス連邦の特務部隊が、国境を越えてエルディス王国に侵入した。しかも、その数は尋常じゃない」


羊皮紙を握りつぶしたザイオンの声は、先ほどまでの「甘く胡散臭いスラムのボス」のそれではなく、血と硝煙の匂いを纏った冷酷な戦士のものに変わっていた。


「……連邦の特務部隊。つまり、国が公式には存在を認めていない、暗殺や破壊工作を専門とする貴族子飼いのプロ集団ということですね」

ルチアは極めて冷静に事実を確認した。


「ああ。通称『猟犬』。標的を完全に消し去るまで決して追跡をやめず、目撃者は女子供だろうと皆殺しにする外道どもだ」

ザイオンは部屋の隅にある武器庫の隠し扉を開け、手慣れた動作で漆黒のナイフを次々とコートの裏に仕込み始めた。


「なぜ、彼らがこのタイミングでエルディス王国に? まさか、私たちが連邦の豪商を名乗って市場を荒らしたことが原因ですか?」


「違う」

ザイオンは振り返らずに、短く吐き捨てた。


「奴らの狙いは、このギルドだ。……もっと正確に言えば、俺の首一つだよ」

「……あなたの、首?」


ルチアは小さく息を呑んだ。

(ただの情報ギルドのボスが、なぜ超大国の暗殺部隊に命を狙われるの? まさか、ザイオンは連邦の……)


ルチアの優れた頭脳が、彼に隠された途方もない「正体」の輪郭を導き出そうとした、その時だった。


「ルチア、よく聞け」


ザイオンが足早にデスクに戻り、隠し金庫から重厚な革袋と、先ほどエドワードにサインさせたばかりの『破滅の借用書』を取り出した。


「これを全部持って、今すぐこの部屋の裏にある隠し通路から逃げろ」

ザイオンは革袋と書類を、有無を言わさずルチアの胸に押し付けた。


「な……っ!?」

「革袋の中には、換金しやすい最高級の宝石が詰まってる。エドワードの借用書と合わせれば、お前一人、世界のどこに行っても一生遊んで暮らせるだけの資産だ」


ザイオンの琥珀色の瞳は、一切の冗談を許さない、切迫した光を帯びていた。


「隠し通路はスラムの外れ、港の近くに繋がってる。そこに停めてあるギルドの船に乗って、すぐに隣国へ渡れ。ガロアたちにはお前の護衛として数人ついて行かせる」


「……何を言っているのですか、ザイオン」

ルチアは押し付けられた革袋を、ドンッとデスクの上に突き返した。


「私はあなたの専属財務顧問です。雇い主を置いて自分だけ逃亡するなど、契約違反にも程があります」


「契約だの数字だの、寝言を言ってる場合じゃねえんだよ!!」


怒号が、VIPルームに響き渡った。

ザイオンが声を荒らげたのは、ルチアと出会ってから初めてのことだった。


「いいか、これからここに来るのは、スラムのチンピラでも、王宮の温室育ちの近衛兵でもねえ。息をするように人の命を奪う、本物の化け物どもだ! お前みたいな細いお姫様が、かすり傷一つ負わずに生き残れる保証はどこにもねえんだよ!!」


ザイオンはルチアの両肩を強く掴み、ギリッと歯を食いしばった。


「俺はお前を……お前だけは、絶対に死なせたくねえんだ。頼むから、俺の言う通りに逃げてくれ」

それは命令ではなく、血を吐くような懇願だった。

普段は余裕に満ち、人を食ったような態度を崩さない男が、初めて見せた「大切なものを失うことへの恐怖」。


その不器用で、痛いほどの熱に触れ……ルチアは、自分の胸の奥がギュッと締め付けられるのを感じた。

(……ああ、おかしいわね。心臓の動悸が、ちっとも収まらない)


王太子に婚約破棄を突きつけられた時でさえ、ルチアの心は凪のように静かだった。

自分の全財産を失った時も、冷静に次の投資先を探していた。

それなのに今、目の前の男が「自分を置いて逃げろ」と言っただけで、呼吸が浅くなり、視界がチカチカと点滅するほどの喪失感に襲われている。


(私、この人を……失いたくないのね)


初めて自覚した、計算式では弾き出せない「感情」。

だが、ルチアは震えそうになる手を必死に押さえ込み、銀縁眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。

ここで彼女が泣いてすがりつけば、ザイオンは無理やりにでも彼女を気絶させて逃がすだろう。だからこそ、彼女は「暗躍令嬢」としての完璧な理屈を再構築した。


「……落ち着いてください、ザイオン。あなたの提案は、極めて非合理的で、生存率の計算が間違っています」

「はあ!?」


ルチアは極めて事務的な、氷のように冷たい声で反論を開始した。


「よく考えてください。金貨数万枚の価値がある書類と宝石を抱えた女が、深夜のスラムを少数の護衛だけで逃げ惑う。……仮に連邦の暗殺者を撒けたとしても、途中で野盗や他のギルドに襲撃される確率は九十パーセントを超えます。私の予想生存時間は、スラムを出る前に『ゼロ』になりますわ」


「っ……それは……」

「さらに言えば」


ルチアは、ザイオンの肩を両手でしっかりと掴み、彼を見上げた。


「私の最大の資産アセットは、宝石でも借用書でもなく……圧倒的な武力と情報網を持つ『あなた』です。ここであなたという最優良物件を見殺しにして逃げることは、私の将来的な利益を完全に放棄する、最悪の赤字行為です」


「お前……」


「私は有能な財務顧問です。自分が投資した最高のビジネスパートナーを見捨てるような、三流の真似は絶対にいたしません」


ルチアは一歩も引かず、ザイオンの琥珀色の瞳を真っ直ぐに射抜いた。

震える手を隠すための、強がりと経済学を盾にした、彼女なりの精一杯の「絶対に離れない」という決意表明だった。


「……っは」

数秒の沈黙の後。

ザイオンの口から、空気が漏れるような音がした。


「……っははは!! あーっはっはっは!!!」


彼は天を仰ぎ、腹を抱えて狂ったように笑い出した。

絶望的な死地に立たされているというのに、その笑い声には、心の底からの歓喜と、どうしようもない愛おしさが爆発していた。


「マジで、お前って女は……! こんな状況で、生存率と赤字の計算を持ち出してきやがる!! どんな神経してんだよ!!」


ザイオンは笑い涙を拭いながら、ルチアの腰を力強く引き寄せ、今度は逃げることを許さないような強い力で抱きしめた。

「……負けたよ。お前のその完璧な理屈には、一生勝てる気がしねえ」


「わかっていただければ結構です。……服にシワが寄りますから、抱きしめる力はもう少し弱めてください」

ルチアはザイオンの広い胸に顔を埋めたまま、ほんの少しだけ安堵の息を吐き、抗議の声を上げた。


「断る。お前が逃げないって決めた以上、これからは一秒たりとも俺のそばから離さない」

ザイオンはルチアの銀髪に口付けを落とし、そして、先ほどまでの悲壮感を完全に振り払った、底知れぬ野心と冷酷さを持つ『支配者』の顔へと戻った。


「ガロア!! いるか!!」

「は、はいっ! ボス!!」

廊下で待機していたガロアが、慌てて部屋に飛び込んでくる。


「方針変更だ。撤退はしねえ。……このアジトを要塞化して、連邦の猟犬どもを一匹残らずこのスラムの泥水に沈めてやる」


ザイオンの凶悪な笑みに、ガロアたち幹部も「おおっ!!」と腹の底から歓声を上げた。


「ルチア。お前の頭脳で、このアジトに罠を張り巡らせろ。予算は無制限だ。エドワードから巻き上げた金貨一万枚、全部使い切っても構わねえ」

「……お任せを。費用対効果が最高の、極上の物理トラップを構築してご覧に入れますわ」


ルチアは銀縁眼鏡を光らせ、デスクの上のスラム街の図面を広げた。


撤退の計算は「ゼロ」。

最強のバディによる、命と金を懸けた血で血を洗う防衛戦が、今、静かに幕を開けた。

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