第18話 相棒の特等席
エルディス王宮での「破滅の契約」から数時間後。
王都の喧騒から遠く離れたスラム街の最深部、黒猫ギルドの地下特別室には、静寂と高級なインクの匂いが満ちていた。
「……計算、終了です」
最高級のオーク材のデスクに座るルチアは、羽ペンを置き、手元にある魔法陣が刻まれた分厚い羊皮紙——『魔力契約書』を静かに見つめた。
「金貨二万五千枚の元本に対し、月利十パーセント。……エドワードが来月の支払日までに用意しなければならない利息は、金貨二千五百枚。現在の王室の流動資産はゼロ。他国や銀行からの追加融資枠も完全に枯渇しています」
ルチアは銀縁眼鏡を外し、疲労を隠すように小さく息を吐いた。
「つまり、三十日後の正午。エルディス王室は確実に財政破綻し、担保に設定された東部の魔力鉱山と南部の穀倉地帯は、我々『ザック商会』の所有物となります。……これで、エルディス王国の経済的な『死』が確定しました」
一国の命運を完全に断ち切った、完璧な死刑宣告。
それを、ただの紙切れの上の「数字」として処理し切った彼女の手腕は、もはや人間のそれではなく、冷徹なシステムそのものだった。
「…………」
部屋の奥の革張りソファでグラスを傾けていたザイオンは、無言のまま立ち上がり、ゆっくりとルチアの背後へ歩み寄った。
コツン、とグラスがデスクに置かれる。
そして次の瞬間、ルチアの座る椅子の背もたれが乱暴に引かれ、彼女の身体は強引に立ち上がらされた。
「え……っ? ザイオン、何を——」
抗議の声を上げる間もなかった。
ザイオンはルチアの細い手首を掴むと、そのまま彼女を部屋の奥の広々とした革張りソファへと引き寄せ、有無を言わさず押し倒した。
「きゃっ……!」
ルチアの銀色の髪が、黒いレザーの上にふわりと広がる。
彼女が状況を理解して身を起こそうとした時には、すでにザイオンの両腕が彼女の顔の横に突き立てられ、完全に逃げ場を塞がれていた。いわゆる「ソファ・ドン」の体勢である。
「ザ、ザイオン……? 突然、なんの真似ですか。服にシワが——」
「黙れ」
低く、ひどく掠れた声だった。
ルチアを見下ろすザイオンの琥珀色の瞳には、いつもの飄々とした胡散臭い笑みはない。あるのは、ただ一人の女に対する、火傷しそうなほどの熱と、ドロドロとした重い独占欲だけだった。
「お前、本当に最高だ」
ザイオンの大きな手が、ルチアの頬にそっと触れる。
親指が彼女の唇の端をなぞり、そのまま顎のラインへと滑り落ちた。その体温のあまりの高さに、ルチアはビクッと肩を震わせた。
「あのバカ王子がサインした瞬間。お前、ほんの一瞬だけ……最高に悪辣で、ゾクゾクするような冷たい目をして笑ったろ。……あの顔を見た瞬間、俺の理性がどれだけぶっ飛んだか、お前には一生わからねえだろうな」
「理性が飛んだのであれば、冷水を被ってきてください。これは重大な契約の事後処理中で——」
「仕事はもう終わりだ。国は死んだ。……今から俺が味わうのは、その国をたった一万枚の金貨で殺してみせた、俺の愛しい『共犯者』の極上の味だ」
ザイオンの顔が、ゆっくりと沈み込んでくる。
男の熱い吐息と、微かな煙草とオーデコロンの香りが、ルチアの全身を包み込んだ。
鼻先が触れ合い、唇が重なるまで、あと数ミリ。
(……おかしいわ。いつものセクハラに対する嫌悪感がない。それどころか、心臓が異常な速度で警鐘を鳴らしている)
ルチアは目を瞬かせ、自らの胸の奥で暴れる心臓の音を必死に論理的に解釈しようとした。
(そうだ、これは大勝負を終えた直後の、アドレナリンの過剰分泌による動悸。あるいは、肉体的な疲労による自律神経の乱れ……。決して、彼という『オス』の圧倒的な力に、私が気圧されているわけでは……っ!)
完璧な暗躍令嬢の防壁に、初めてヒビが入った瞬間だった。
彼女は言葉を紡ぐことも、いつものように扇で彼を押し返すこともできず、ただ熱を持った瞳でザイオンを見つめ返すことしかできなかった。
「……ルチア。俺のものになれ。他の男の影なんか、一ミリも残らないくらい……俺がお前を、甘やかして、狂わせてやる」
ザイオンの唇が、ルチアのそれに触れようとした——まさに、その刹那。
コンコンコンッ!!
VIPルームの重厚な扉が、空気を読まない乱暴なノックの音で叩かれた。
「…………ッ!!」
ザイオンは、舌打ちというよりもはや呪詛のような低い唸り声を上げ、ルチアからガバッと身を引き剥がした。
ルチアもまた、弾かれたようにソファから飛び起き、乱れた髪とドレスを慌てて整えた。
「……んだよ、ガロア。このタイミングで入ってきたら、お前の給料三年分カットするからな」
ザイオンが殺気を撒き散らしながら扉を睨みつける。
「す、すんませんボス! いや、マジで緊急事態で……っ!」
扉の隙間から顔を出した幹部のガロアは、ザイオンの異様な気迫に怯えながらも、血相を変えて一通の黒い封筒を差し出した。
「東部の国境沿いに潜ませているうちの情報員から、最優先の『黒の暗号』が届きました!」
「黒の暗号……?」
その言葉を聞いた瞬間、ザイオンの顔から「発情した男」の色気が完全に消え失せた。
ルチアもまた、乱れた呼吸を整え、スッと仕事の顔に戻る。
「黒の暗号とは、ギルドの存亡に関わる国家レベルの危機にのみ使われる緊急連絡網のはずでは……?」
「ああ」
ザイオンはガロアから黒い封筒をひったくり、乱暴に封を切って中の羊皮紙に目を通した。
数秒間、その文字を追うザイオンの目が——スラムのボスのそれから、絶対的な権力と冷酷さを持つ『本物の支配者』の眼光へと変貌するのを、ルチアは見逃さなかった。
「……ガロア、他の幹部を叩き起こして武装させろ。ギルドの防衛レベルを最大に引き上げる」
「ボ、ボス。一体何が……!?」
ザイオンは羊皮紙を無造作に握りつぶし、チッと舌を鳴らした。
「東の大国……『ヴァルディス通商連邦』から特務部隊が、国境を越えてエルディス王国に侵入した。しかも、その数は尋常じゃない。……完全に『何か』を探しに来てやがる」
「ヴァルディス連邦が……!?」
ルチアは息を呑んだ。
彼女たちが仮面の豪商として名を騙った、あの世界最大の経済と武力を持つ超大国。その正規の暗部が、この泥船の国に直接入り込んできたというのか。
(なぜ、このタイミングで連邦が動くの? まさか、私たちが連邦の商人を騙って買い占めを行ったことがバレて、制裁に来た……?)
ルチアの脳内で最悪のシミュレーションが駆け巡る。
しかし、ザイオンの反応は違った。彼はルチアの懸念など全く気にしていない様子で、ただ忌々しそうに自身の首筋を掻きむしった。
「……チッ。クソ貴族の飼い犬どもめ。あと少しだったってのによ」
「え……? ザイオン、今、なんと?」
ルチアが問い返すと、ザイオンは振り返り、いつもの胡散臭い笑みを無理やり口元に貼り付けた。
だが、その琥珀色の瞳の奥には、これまで彼女に見せたことのない「血と硝煙の匂い」が色濃く漂っていた。
「悪いな、ルチア。極上のご褒美は、一旦白紙にさせてくれ」
ザイオンはルチアの頭をポンと叩くと、部屋の隅にある武器庫の隠し扉を開け、大量のナイフと銃火器を身につけ始めた。
「このエルディス王国を買い叩く遊びは、ここで中断だ。……これから来るのは、帳簿の数字じゃ殺せない、本物の『殺戮のプロ』たちだからな」
沈みゆく王国の陰で、より巨大で、より深い闇が動き出していた。
暗躍令嬢とスラムのボス。最強の二人が結んだ共犯関係は、国家買収の遊戯を終え、いよいよ彼らの命そのものを懸けた盤面へと突入していく。
第2章、終了です!




