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第17話 愚者のサイン

エルディス王宮、最高級の調度品で整えられた「太陽の応接室」。

王太子エドワードは、深紅のベルベットのソファにふんぞり返り、貧乏揺すりをしながら「その時」を待っていた。


彼の背後には、顔面を蒼白にした財務長官と、数名の護衛の近衛騎士が控えている。


「殿下……。本当に、あのヴァルディス連邦の商人から資材を買い取るおつもりですか。我が国の国庫にはもう、金貨一枚の余裕すら——」

「黙れ、財務長官! ザックの奴は、私の圧倒的な財力に恐れをなして媚びを売りに来たのだぞ! 跪いて『どうかお安くお譲りさせてください』と泣きついてくるに決まっている!」


エドワードは己の妄想を真実だと思い込み、鼻息を荒くした。

オークションで金貨五千枚という大金を叩きつけたことで、あの生意気な成り上がり商人が完全に屈服したのだと、本気で信じ込んでいるのだ。


「——ヴァルディス通商連邦より、ザック商会主ならびに専属秘書官殿、ご到着です!」


重厚な扉が開かれ、室内に入ってきたのは、漆黒の三つ揃えのスーツを着こなし、精巧な銀の仮面をつけたザイオンと、黒いヴェールで顔を隠したルチアだった。


「おお! よく来たな、ザック卿!」

エドワードは立ち上がり、勝者のような、しかしひどく引きつった笑みを浮かべて両手を広げた。


「卿の賢明な判断、高く評価しよう! 私の圧倒的な財力と王室の威光に気づき、自ら買い占めた資材を献上しに来たその心意気、実に天晴れである!」


ザイオンはエドワードの勘違い極まりない歓迎の言葉を聞き、仮面の奥で「ぶっ」と吹き出しそうになるのを必死に堪えた。

(……こいつ、マジで頭の中お花畑かよ。自分が首の皮一枚で繋がってる死刑囚だってことに、微塵も気づいてねえ)


「……ええ、お褒めにあずかり、恐縮です。王太子殿下」

ザイオンは恭しく、しかし決して頭は下げずに胸に手を当てた。


「殿下が『星の宮殿』の建設にあたり、白星の大理石と霊樹の魔力材が不足して、夜も眠れぬほどお困りだと風の噂で耳にしましてね。……私と殿下の仲です。我が商会が買い占めた全在庫、喜んで『お譲り』いたしましょう」


「おおっ! そうかそうか! さすがは話のわかる商人だ!」

エドワードは安堵と優越感で顔を綻ばせ、ソファにドカッと座り直した。


「して、代金はいかほどだ? 私の手を煩わせたのだ、原価の半値……いや、タダで献上するというのなら、今後の王室御用達の座を考えてやっても——」


「秘書官殿。殿下に『請求書』を」

ザイオンの低く冷たい声が響いた。


「かしこまりました」

ルチアは一切の感情を排した事務的な動作で、ファイルから一枚の美しい羊皮紙を取り出し、エドワードの目の前のテーブルに滑らせた。


「……ん? なんだこれは。ゼロの数が多いような……」

エドワードが請求書を手に取り、そこに書かれた数字を読み上げた瞬間。


「……きんか、に、にまんごせんまい……?」


応接室の空気が、完全に凍りついた。

背後にいた財務長官が「ひっ!?」と短い悲鳴を上げて卒倒しそうになる。


「な、ななな……金貨二万五千枚だと!? 貴様、正気か!!」

エドワードは血走った目で立ち上がり、テーブルをバンッと叩いた。


「白星の大理石と霊樹の相場は、すべて合わせても金貨二千五百枚程度のはずだぞ! なぜその十倍ものふざけた値段になる!! 貴様、王室を愚弄するか!!」


激怒する王太子に対し、ザイオンは悪びれるどころか、呆れたように肩をすくめた。


「殿下、経済の基本をご存じないのですか?」

ザイオンに代わり、ルチアがヴェールの奥から氷のように冷たい声で答えた。


「現在、市場における対象資材の供給元は、我がザック商会が『百パーセント』を独占しております。そして、エルディス王国の法規により、殿下は他の資材で宮殿を代用することができない。……つまり、完全に私たちが価格の決定権を握る『独占市場』なのです」


ルチアは、かつての婚約者をまるで羽虫でも見るかのような冷徹な視線で見下ろした。


「殿下には、二つの選択肢しかありません。金貨二万五千枚で資材を買い取り、宮殿を完成させて王室の威信を保つか。……あるいは、購入を拒否し、宮殿建設を頓挫させ、諸外国の笑い者になりながら、暴動を起こす数千人の労働者たちに殺されるか、です」


「き、貴様ぁ……!!」


エドワードはギリッと歯を食いしばり、ザイオンを睨みつけた。

「……足元を見おって、この成り上がり商人が! だが残念だったな! 今の我が国の国庫には、そんな莫大な現金はない! つまり、この取引は無効——」


「おや、現金がないのですか? 先日のオークションであれほどの『圧倒的な財力』を見せつけておきながら?」

ザイオンが、待ってましたとばかりに極上の煽りを入れる。


「くっ……!」

「ご安心ください、殿下。私は血も涙もない悪鬼ではありません。殿下のような素晴らしいお方に、現金一括払いなどという野暮な真似は要求いたしませんよ」


ザイオンが指を鳴らすと、ルチアがもう一枚の羊皮紙——分厚く、禍々しい魔法陣が薄く印字された『魔力契約書』を取り出した。


「現金がないのであれば、殿下の『信用』で後払いにいたしましょう。……ただし、これほどの巨額の取引です。相応の『担保』を設定させていただきます」


ルチアが借用書をエドワードの前に広げる。


「担保として、王室が所有する『東部の魔力鉱山』および『南部の穀倉地帯』の向こう十年分の税収権利と、所有権を設定します。利息は月利十パーセント。もしお支払いが一度でも滞った場合、それらの領地と権利はすべて、合法的に我が『ザック商会』のものとなります」


「な……な、なんだと!?」

倒れかけていた財務長官が、這いつくばるようにしてテーブルにすがりついた。


「で、殿下! 絶対にサインしてはなりませぬ! 月利十パーセントなどという暴利、毎月の利息すら支払えません! これは事実上の侵略です! 王国を、他国の商人に売り渡すに等しい行為ですぞ!!」

財務長官が涙ながらに止める。


「うるさいっ!!」

しかし、エドワードは財務長官を無情にも蹴り飛ばした。


エドワードの脳内は、完全にショートしていた。

ここで契約を拒否すれば、外で暴れている労働者たちに王宮を包囲され、自分の無能さが世界中に露呈する。なにより、あのオークションで大見得を切った「下品な成り上がり商人」の前で、金がないと土下座することだけは、彼の肥大化したプライドが絶対に許さなかった。


(……構わん! 宮殿さえ完成すれば、民衆の支持は回復する! 借金など、後から平民の税を限界まで引き上げて絞り取れば、いくらでも返せるはずだ!)


どこまでも愚かで、救いようのない王太子。

彼はついに、震える手で羽ペンを握りしめた。


「で、殿下! おやめください! ルチア様が血の滲むような思いで守り抜いてきた国庫が……王室の資産が!!」

「あの可愛げのない女の名前を出すな!! 私は次期国王だ! 私のやることに間違いなどない!!」


エドワードは絶叫し、魔力契約書の署名欄に、王太子としての正式なサインを荒々しく書き殴った。

さらに、自らの指にはめられていた王室の印璽(いんじ)の指輪を、血が滲むほどの力で書類に押し付けた。


バチィッ!!

魔法陣が赤黒く発光し、契約が絶対のものとして刻み込まれた。

もう、誰もこの契約を破棄することはできない。


「……ハァ、ハァ……! 見たか、ザック! これが王室の決断だ! これで資材はすべて私のものだ! さっさと現場に石と木を運ばせろ!!」

エドワードは肩で息をしながら、勝利者のように高笑いした。


「……ええ。確かに」


ルチアは、エドワードのサインと王室の印璽が完璧に押された『破滅の借用書』を、宝物のように愛おしげに拾い上げた。


「素晴らしい決断です、殿下。これで我がザック商会は、殿下という最高のパトロンを得ることができました」

ルチアは借用書をファイルに仕舞い込み、ヴェールの奥で、誰も見たことがないほど冷酷で、そして完璧な悪女の笑みを浮かべた。


「これで取引は成立です。指定の資材は、明日の朝一番で建設現場へ納品させましょう。……では、殿下。来月の『利息の支払い日』に、またお会いできることを楽しみにしておりますわ」


ルチアは完璧なカーテシーを披露し、踵を返した。


「いやはや、殿下の『圧倒的な財力』には恐れ入りましたよ。……本当に、この国は素晴らしい」

ザイオンもまた、エドワードに向かって深々と、しかし最高に人を食ったような一礼をし、ルチアの背中を追って応接室を後にした。


バタン、と重厚な扉が閉まる。

応接室に残されたのは、虚勢を張って笑い続ける愚かな王太子と、王国の終わりを悟って床で泣き崩れる財務長官だけだった。


* * *


王宮の長い廊下を歩きながら、ザイオンはルチアの腰に腕を回し、堪えきれないように肩を震わせていた。


「くっ……ははっ! あーっはっはっは!!」

ついに声を出して大爆笑するザイオン。


「見ろよ、ルチア! 俺たちの手元に、一国の領土と税収の権利書が転がり込んできたぜ!金貨一万枚の投資で、王国を合法的に買い叩いちまった!!」

ザイオンは歓喜のあまり、廊下の真ん中でルチアを抱き上げ、くるくると回った。


「ちょっ、ザイオン! 降ろしなさい! 王宮の廊下で目立ちますし、ドレスの裾が踏まれます!」

ルチアが抗議するが、ザイオンは全く聞く耳を持たず、彼女をそっと床に降ろすと、その勢いのままルチアを壁に押し当てた。


「なあ。あのバカがサインした瞬間、お前のヴェールの奥の目が、ゾクッとするくらい冷たくて極悪に笑ってたの、俺は見逃さなかったぜ」

ザイオンは仮面をずらし、琥珀色の瞳でルチアを熱く見つめ下ろした。


「これで王宮は完全に俺たちの手の中だ。……中ざまぁ完了、ってことで。俺の有能すぎる共犯者に、極上のご褒美(キス)をあげてもいいか?」


吐息がかかる距離。ザイオンの大きな手が、ルチアのヴェールをゆっくりと持ち上げようとする。

だが。


「……ご褒美なら、すでに手の中にあります」


ルチアは、ザイオンの胸ぐらを掴んで引き寄せると、彼の手から『破滅の借用書』が入ったファイルをスッと抜き取った。


「この契約書こそが、私の数年分の『未払い残業代』であり、最高の慰謝料です。……キスなどという流動性のない報酬で、誤魔化そうとしないでくださいね、ザック卿」


ルチアはヴェールの奥で、今日一番の、最高に美しく不敵な笑みを浮かべて見せた。


「……っはは!! 負けたよ。お前には一生敵わねえ」

ザイオンは完全に白旗を揚げ、愛おしそうにルチアの銀髪を撫でた。


エルディス王国は、事実上この日をもって彼らの所有物となった。

しかし、手に入れたのは沈みゆく泥船の首根っこに過ぎない。これから始まるのは、膨れ上がった負債と止まらない利息の重みで、愚かな王太子が自ら破滅の泥沼へと完全に沈んでいく様を特等席で眺める、極上の見世物だ。


「さあ、帰ろうぜルチア。来月の利息の支払い日、アイツらがどんな顔で絶望するか……今から楽しみで仕方ねえよ」

「ええ。しっかりと、寸分の狂いもなく回収させていただきますわ」

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