第16話 悪魔の救済
『星の宮殿』の建設計画発表から、十日が経過した。
王都のど真ん中に確保された広大な建設予定地は今、エルディス王国の威信を示す場所ではなく、王室の無能さを象徴する「巨大な泥沼」と化していた。
「ふざけんな! 今日も石一つ届かねえじゃねえか!!」
「俺たちは遊びに来てんじゃねえぞ! 日当をよこせ! 払えねえなら王宮に直談判に行くぞ!!」
建設現場を取り囲む仮設フェンスの内側では、数千人の石工や大工たちが怒号を上げ、王宮から派遣された現場監督を小突いていた。
資材が何一つ届かないため、基礎の穴を掘ることすらできない。労働者たちはただ土の上に座り込み、酒を飲み、博打を打ちながら「何もしない時間」に対する給与を要求している。
現場の治安は悪化の一途を辿り、王都の民衆たちも「本当に宮殿なんて建つのか?」「王室は金がないんじゃないか?」と、不信の声を上げ始めていた。
だが、現場の混乱など比較にならないほどの地獄が、王宮の執務室には広がっていた。
ガシャンッ!!
エドワード王太子が、手にした純銀のワイングラスを壁に叩きつけ、赤ワインが血痕のように壁紙を汚した。
「言い訳は聞き飽きた!! もう十日だぞ! なぜただの石と木材一つ、用意できないのだ!!」
「ひぃっ! も、申し訳ございません殿下ぁっ!」
調達係の役人は、床に額を擦り付けて泣き叫んでいた。
「王都のみならず、近隣諸国の市場まで隈なく探させました! ですが、どこにもないのです! 採石場も木材市場も、すべて『他国の豪商に先物まで買い占められた』の一点張りで……!」
「そんな馬鹿な話があるか!! 王室の権限で、その商人をしょっ引いて資材を没収すればいいだろうが!」
「そ、それが……買い占めた商人は、裏社会の傭兵を多数雇って倉庫を厳重に警備しており、手出しができません! さらに、彼らの取引はすべてエルディス王国の『合法的な商取引の法規』に則っており、王室といえど、正当な理由なく他国の商人の財産を奪えば、国際問題に発展します!」
完璧なまでの「合法」の壁。
かつてルチアが法整備に関わり、国境を越えた商取引の安全性を担保したそのルールが、今、皮肉にもエドワードの首を物理的に絞め上げていた。
「ええいっ! 役立たずどもめ!!」
エドワードは頭を抱え、豪華なマホガニーのデスクに突っ伏した。
「エドワード様ぁ……マリーの宮殿、いつになったらできるんですかぁ? 昨日のお茶会で、他のお姫様たちに『ただの土の広場ね』って笑われちゃいましたぁ……」
ソファでクッションを抱きしめるマリーが、不満げに唇を尖らせる。
その言葉は、エドワードのプライドに致命的な一撃を与えた。
そう、国内の不満だけではない。建設計画を大々的に発表してしまった手前、すでに諸外国の大使たちも「エルディス王国の新たな象徴」を見学に訪れ始めていたのだ。
しかし、彼らが見たものは、ただの荒れ果てた土の広場と、暴動寸前の労働者たち。
『エルディス王国は、資材一つ満足に調達できないほど国力が低下しているらしい』
『王太子は、見栄だけの愚か者だ』
そんな冷笑と嘲笑が、外交ルートを通じて世界中に広まりつつあった。
このまま宮殿の建設が頓挫すれば、エドワードの「次期国王」としての権威は完全に失墜し、王太子としての座すら危うくなる。
(……だが、金がない! 人件費の支払いだけで、明日にも国庫の底が抜ける! どうすれば、どうすれば……っ!!)
限界まで追い詰められ、エドワードが発狂寸前になったその時だった。
コンコン、と控えめなノックの音が響き、初老の侍従長が銀の盆を手に入室してきた。
「殿下。……ヴァルディス通商連邦の商会主、ザック卿の使いと名乗る者から、殿下宛に親書が届いております」
「ザックだと……!?」
エドワードの顔が、怒りと憎悪で歪んだ。
オークションの夜、自分の顔を真っ直ぐに見て「泥船」「投資する価値がない」と侮辱した、あの忌まわしい仮面の成り上がり商人。
「あの男からの手紙など破り捨てろ! どうせ私を嘲笑う内容に決まっている!」
「し、しかし殿下。使いの者は『新宮殿の資材調達について、殿下の憂いを払う吉報である』と……」
「……何?」
エドワードの動きがピタリと止まった。
彼は侍従長から手紙をひったくると、震える手で封を切った。
そこには、流麗な(ルチアが代筆した完璧な書式の)文字で、こう記されていた。
『エルディス王国・第一王子エドワード殿下へ。
我が商会は先日、投機目的で「白星の大理石」と「霊樹の魔力材」の市場在庫をすべて買い取らせていただきました。
しかし、殿下が新宮殿の建設において、該当の資材を急ぎ必要とされているという噂を耳にいたしました。
先日のオークションにて、殿下の圧倒的な財力と王国の底力に感服いたしました私としては、これも何かの縁と考えます。もし殿下がご所望であれば、私が保有する全資材を、王室へお譲りする用意がございます。
つきましては、明日の正午、王宮の応接室にて直接の取引をいたしたく……』
「こ、これは……!!」
手紙を読んだエドワードの顔に、信じられないものを見たというような、狂喜の色が浮かび上がった。
「ザックの奴め……! 買い占めを行っていた他国の商人とは、あの男だったのか!」
「で、殿下! それは事実でございますか!?」
財務官たちが一斉に顔を上げる。
「ああ、そうだ! ザックの奴、あの夜会では偉そうにしていたが、結局は私の『金貨五千枚』の圧倒的な財力に恐れをなして、媚びを売りに来たのだ! 自分の買い占めた資材を、私に譲ると言ってきたぞ!!」
エドワードは高笑いを上げた。
資材が手に入らない絶望のどん底に、突然天から垂らされた一本の蜘蛛の糸。
相手がどれほど憎い男であろうと、今のエドワードにはその糸にしがみつく以外の選択肢は残されていなかった。
「ふはははっ! 見たか! これが私の人徳であり、王室の威光だ! あの下品な商人も、ついに私に平伏したのだ!!」
手元に現金が一切ないという致命的な事実から目を逸らし、エドワードは「資材が手に入る」という見せかけの希望に飛びついた。
それが、絶対に抜け出せない『悪魔の契約』への招待状であることなど、彼の愚かな頭では微塵も理解できていなかった。
* * *
同時刻。黒猫ギルドの地下特別室。
重厚なマホガニーのデスクには、すでに王室の紋章が偽造された借用書の束が、山のように積まれていた。
「……王宮の情報員から報告がありました。エドワードが、親書を読んで狂喜乱舞しているそうです。明日の正午、王宮での直接取引の席が設けられました」
ルチアは銀縁眼鏡の奥で、氷のように冷徹な笑みを浮かべた。
「完璧だ。お前のシナリオ通り、完全に餌に食いついたな」
ザイオンが、革張りのソファから立ち上がり、ゆっくりとルチアの背後へと歩み寄った。
彼はすでに、ヴァルディス連邦の豪商『ザック』としての漆黒の三つ揃えのスーツを着こなしている。
「市場から資材を枯渇させて極限のパニックに陥らせ、彼らが『何でもするから石を売ってくれ』と泣き叫ぶ状態まで追い込む。……そして最後に、俺たちが救世主の顔をして現れる。これ以上ないくらい、最悪でえげつないマッチポンプだぜ」
「人聞きの悪いことを言わないでください。これは自由市場における正当な『需要と供給の一致』です」
ルチアは悪びれもせず、明日の取引で使用する『資材の請求書』の数字を最終確認した。
そこに書かれている金額は、相場の十倍。金貨二千五百枚で手に入るはずだった資材の価格が、『金貨二万五千枚』という、国家予算を完全に吹き飛ばす天文学的な数字に書き換えられている。
「金貨二万五千枚……。こんな額、どう転んでもあのバカ王子に払えるわけがねえ。現金どころか、王宮の美術品を全部売り払っても足りねえぞ」
ザイオンが肩越しに数字を覗き込み、低く笑った。
「ええ。ですから、殿下には『担保』を出していただきます」
ルチアは、一番下に隠しておいた特別な書類を指先で弾いた。
「王室の所有する『東部の魔力鉱山』と『南部の穀倉地帯』の向こう十年分の税収権利。……これを担保に設定し、利息は月利十パーセント。もし支払いが一度でも滞れば、これらの領地と権利はすべて『ヴァルディス連邦のザック商会』のものとなる。……という契約です」
「……ひでえ。事実上の、王国の『領土割譲』じゃねえか」
ザイオンは感嘆の溜息を漏らし、ルチアの細い腰に両腕を回して、その華奢な背中を自らの広い胸板に密着させた。
「お前を怒らせると、国が一つ吹っ飛ぶんだな。……ああ、俺の女がこんなに恐ろしくて有能で、最高に美しい悪女で本当によかったぜ」
耳元に唇を寄せ、ザイオンが心底嬉しそうに囁く。その腕の力は、決して彼女を逃がさないという強い独占欲に満ちていた。
「ザック卿。明日の大一番を控えているのですから、スーツにシワが寄るような行為は控えてください」
ルチアは相変わらず極めて事務的な声で抗議し、ザイオンの腕をペシッと叩いた。
「それに、『俺の女』ではありません。私はあなたの財務顧問です。……明日は王宮の応接室で、一世一代の『取り立て』を行わなければならないのですから、気を引き締めてくださいね」
「わかってるよ。俺の最高に恐ろしい秘書官殿」
ザイオンはルチアの首筋に甘く口付けを落とし、そして、顔を覆う銀の仮面をカチャリと装着した。
仮面の奥の琥珀色の瞳には、かつてないほどの冷酷さと、己を見下した王太子への圧倒的な嗜虐心が燃え上がっていた。
「さあ、泥船の底を完全にぶち抜きに行こうぜ。……バカな王子に、この世で一番高くつく『お買い物』をさせてやる時間だ」




