第10話 仮面の豪商
エルディス王国、王都ファルベナ。
その中心にそびえ立つ白亜の王宮は、今宵、建国祭と見紛うほどのまばゆい光と喧騒に包まれていた。
大広間の天井には数百の魔力石がはめ込まれたシャンデリアが輝き、壁には南大陸から空輸された季節外れの極彩色の大輪の花が、これでもかと飾り付けられている。
楽団が奏でる優雅なワルツに合わせて、着飾った貴族たちがグラスを片手に談笑していた。
(……呆れましたね。あの季節外れの花だけで金貨千枚。振る舞われている東方産のワインは一本銀貨五十枚。すべて税金の無駄遣い、ただの狂乱の宴ですわ)
大広間の入り口へと続く豪奢な赤絨毯の上を歩きながら、ルチアは黒いレースのヴェール越しに、その愚かな浪費の数々を冷徹な視線で査定していた。
第一王子エドワードが主催したこの夜会は、表向きは「王国の輝かしい未来を祝う宴」とされている。
だが、ルチアという金庫番を失い、さらにルチアの罠(輸入ショックのデマと買い占め)によってスラムからの裏資金ルートを断たれた王太子派閥の財政は、すでに火の車のはずだ。
(エドワードが最後にすがる手段は、他国の裕福なパトロンを見つけること。そのためだけに、最後の国庫を絞り出してこの『見栄だけの夜会』を開いた……愚かさの極致ですね)
「——ご招待客の入場です!」
入り口に立つ王室の案内役が、張り裂けんばかりの大声で叫んだ。
「ヴァルディス通商連邦よりお越しの……大商会主、ザック卿! および、その専属秘書官殿!」
重厚な扉が開かれ、ルチアとザイオンが堂々と大広間へと足を踏み入れた瞬間。
会場を包んでいたワルツの音色が、不自然にピタリと止んだ。数百人の貴族たちの視線が、一斉に彼らへと突き刺さる。
「な、なんだあの男は……!?」
「それに、あの秘書が着ているドレス……見たこともないほどの上質なシルクだわ! ちりばめられているのは本物のダイヤモンド!?」
「ヴァルディス連邦の豪商だと? なぜあんな大物が、我が国の夜会に……?」
どよめきが、波のように広がる。
無理もない。漆黒の三つ揃えのスーツを着こなし、顔の上半分を覆う精巧な銀の仮面をつけたザイオンの姿は、只者ではない圧倒的な支配者のオーラを放っていた。
そしてその隣を歩くルチアの、ミッドナイトブルーのドレスと大粒のサファイアの輝きは、この会場にいるどの王族や高位貴族の衣装よりも、桁違いに高価で美しかったのだ。
二人が歩みを進めるだけで、貴族たちはその圧倒的な威圧感と財力に気圧され、まるでモーゼの海割りのように自然と道を空けていく。
「……たまんねぇな。表舞台のど真ん中を、こうして堂々と歩けるとは」
ザイオンが、仮面の奥の琥珀色の瞳を細め、ルチアの耳元に唇を寄せて低く囁いた。
「にしても、ルチア。お前の頭脳にはマジで恐れ入るぜ。どこの馬の骨とも知れねえ俺たちが、どうやって顔パスでこの王室主催の夜会に入り込むのかと思ってたが……まさか、王太子自身の『命令』を利用するとはな」
ザイオンの吐息が耳を掠め、ルチアはヴェールの奥で小さく息を吐いた。
「当然の計算ですわ、ザック卿。……資金繰りに焦った王太子は、三日前に『王立銀行に金貨五万枚以上の預金証明書を提示できる者は、身分や国籍を問わず最上級の国賓として夜会に迎え入れよ』という、なりふり構わぬ特例のお触れを出しました」
ルチアは扇で口元を隠しながら、極めて事務的に答えた。
「身元調査すら省いて金持ちを呼び込もうとする、愚直なまでの金づる探し。……私はただ、昨日ギド商会から巻き上げた現金をそのまま王立銀行のあなたの偽名口座に預け入れ、その証明書を入り口で見せただけです。完全に『合法的な正面突破』ですよ」
「くくっ、あのバカ王子、自分で自分の首を絞める招待状を出したってわけだ。最高に笑えるぜ」
ザイオンは肩を揺らして笑うと、すかさずルチアの細い腰に自らの腕を回し、ぐいっと強引に己の胸へと引き寄せた。
「っ……ザック卿?」
「あまり離れるなよ、俺の可愛い秘書殿。……さっきから、会場中のオスどもが、お前のその開いた背中や唇を、いやらしい目で舐め回すように見てやがる」
ザイオンの声から先ほどの余裕が消え、チリッとした、本物の獣のような独占欲と殺気が混じっていた。
仮面の奥の瞳が、ルチアに視線を向けていた周囲の若い貴族たちをギロリと睨みつける。それだけで、彼らはヒッと短い悲鳴を上げて視線を逸らした。
「ほら、もっと俺にくっついてろ。お前が俺の所有物だってことを、あの下賤な連中にわからせて——」
「ザック卿。腰に回したその腕の力を、今すぐ三十パーセント弱めてください」
「……あ?」
「密着しすぎです。この最高級のシルクドレスにシワが寄れば、資産価値が著しく目減りします。あなたの見栄のために着て差し上げているのですから、減価償却を早めるような物理的接触は控えていただきたいのですが」
ルチアは一切の動揺を見せず、ただ「資産価値の低下」という完璧な経済的理由で、ザイオンの胸板を扇の先でツンと押し返した。
(……本当は、心臓が跳ね上がって、変な音を立てているのだけれど)
ルチアはヴェールの奥でほんの少しだけ頬を染めていたが、その動揺を微塵も外に出さないのが、彼女の完璧令嬢としての、そして有能な財務顧問としての意地だった。
「……っはははは!!」
ザイオンは完全に毒気を抜かれ、耐えきれないように吹き出した。
「最高だよ、お前は! 俺がどんだけ独占欲を剥き出しにしても、全部『資産価値』と『数字』で一刀両断に切り捨ててきやがる! お前のおかげで、俺の狂いそうな理性がなんとか保たれてるぜ」
「お褒めに預かり光栄です。ですから、その手は離して……」
「ダメだ。シワにならないギリギリの力加減で、絶対に離さねえ」
結局、ザイオンはルチアの腰に腕を回したまま、しかし彼女の言う通り「シワにならない絶妙な力加減」に調整して、悠然と会場の中心へと歩みを進めた。
その、どこか甘やかで絶対的な信頼感で結ばれた二人の距離感は、周囲の貴族たちの目には「大国の豪商と、彼が溺愛してやまない美しき愛人」という、完璧な構図として映っていた。
「……さて。お喋りはこの辺りにしておきましょう、ザック卿。私たちの『カモ』が、獲物を見つけて嬉しそうに近づいてきましたよ」
ルチアの冷ややかな視線の先。
大広間の最奥、一段高くなった玉座の前から、豪奢な白い軍服を着飾った王太子エドワードと、ピンク色のフリルドレスを着た男爵令嬢マリーが、目を血走らせながらこちらへ小走りで向かってくるのが見えた。
「おお! ヴァルディス連邦の豪商殿! よくぞ我が王宮の夜会にお越しくださった!」
エドワードは、ザイオンの仮面や無礼な態度を咎めるどころか、まるで神を崇めるように揉み手をしながら歩み寄ってきた。
彼の目は、ルチアが身につけている金貨五千枚相当の宝石と、ザイオンの圧倒的なオーラに完全に釘付けになっている。
(……滑稽ですね。あなたたちが追放した『可愛げのない女』が目の前にいるとも知らずに、ドレスの輝きと財力だけで、こうも簡単に尻尾を振るとは)
ルチアはヴェールの奥で、氷のように冷たく、見下すような笑みを浮かべた。
「お初にお目にかかる、王太子殿下」
ザイオンは仮面をつけたまま、ほんのわずかに顎を引くだけの、商人らしからぬ傲慢な態度で応えた。
「私が、ヴァルディス連邦でささやかな商いをしております、ザックと申す者です。……本日は殿下が『新たなパトロン』をお探しと聞き、我が商会の余剰資金の『投資先』として見込みがあるか、視察に参った次第です」
「投資先!!」
エドワードの声が、欲望で裏返った。
「もちろんでございますとも、ザック卿! 我がエルディス王国は今、類まれなる発展の途上にあります! あなたの莫大な資金を我が国に投資していただければ、必ずや——」
「ええ、ええ。殿下のお言葉、確かに承りました」
ザイオンは、エドワードの言葉を途中で遮るように手を挙げた。
「ですが、私は『数字』しか信じない冷徹な商人でありましてね。……この国が本当に私の投資に見合う価値があるのか。今夜、じっくりと査定させていただきましょう」
ザイオンの琥珀色の瞳が、獲物を狙う鷹のように鋭く細められる。
隣に立つルチアもまた、扇の陰で、完璧な破滅のシナリオを頭の中で計算し始めていた。
暗躍令嬢と仮面の豪商による、エルディス王国への「合法的な買い叩き」。
その華麗なる逆転劇の第一幕が、今、狂乱の夜会の中心で静かに切って落とされたのである。




