第1話 正論は時に「悪」とされる
「ルチア・フォン・ローゼンベルク! 貴様のような冷酷で、計算高く、可愛気の欠片もない女との婚約は、今この場をもって破棄させてもらう!」
ここはエルディス王国、王都ファルベナ。
王宮のシャンデリアが眩く輝く、建国記念の夜会。
数百人の貴族たちが息を呑んで見守る中、第一王子であるエドワードの甲高い宣言がホールに響き渡った。
彼の腕の中には、ピンク色のふりふりとした豪奢なドレスに身を包んだ、男爵令嬢のマリーが「殿下、お姉様が可哀想ですぅ……」と涙ぐみながらしなだれかかっている。
それを大階段の下から見上げていた公爵令嬢ルチアは、——ただ深く、深く、疲労に満ちたため息をついた。
(……ああ、なるほど。三日徹夜して私が仕上げた『来年度の国家予算案』の決裁書類に、彼がいつまで経ってもサインをしなかった理由はこれね。浮気相手といちゃつくのに忙しかったから、というわけですか)
ルチアの心にあるのは、愛する婚約者に裏切られた悲しみではない。
純粋な「労働に対する徒労感」と、目の前の馬鹿に対する「呆れ」だけだった。
「聞こえなかったのか、ルチア! 貴様はマリーに対し、事あるごとに小言を言い、彼女のささやかな願いを冷酷に踏みにじる嫌がらせを繰り返した! 次期王妃たるもの、もっと慈愛に満ちた心を持つべきだ!」
「嫌がらせ、ですか」
ルチアは扇をパチンと閉じ、極めて事務的な、抑揚のない声で答えた。
「マリー様が『冬の時期に、南大陸から摘みたての苺を取り寄せてお茶会がしたい』とおっしゃったのを却下した件でしょうか。それとも、『王城の庭園の木をすべて切り倒して、ピンク色の薔薇園にしたい』というご要望を退けた件でしょうか」
「そうだ! たかが苺と花ではないか! それくらい叶えてやるのが——」
「たかが、ではありません。冬場に南大陸から特急の魔導船をチャーターして苺を運べば、一粒につき金貨十枚の輸送費がかかります。庭園の改装費に至っては、東部領地の一年分の治水工事予算に匹敵します。……現在の我が国の国庫に、そのような無駄遣いをする余裕は一ルピアたりともございません」
ルチアの完璧な正論に、エドワードは顔を真っ赤にして口をパクパクさせた。
「う、うるさい! 貴様はいつもそうやって数字、数字と! 私はお前のそういう理屈っぽくて可愛げのないところが大嫌いだったのだ! 少しはマリーのように、私を頼って甘えることはできないのか!」
「殿下に甘えて、これ以上国家予算を食いつぶされては国が傾きますので」
即答するルチアに、周囲の貴族たちがざわめいた。
エドワードはついに激昂し、ルチアを指差した。
「ええい、可愛くない女め! もうお前は私の婚約者ではない! 王家から贈られたその首飾りも、ドレスも、すべて置いて今すぐこの王宮から出て行け!」
「殿下、それは……」
周囲の重鎮貴族が止めに入ろうとするが、ルチアはそれを手で制した。
「……承知いたしました」
ルチアはそう言うと、首元で輝いていた王家伝来のダイヤモンドのネックレスを躊躇いなく外し、冷たい大理石の床へと無造作に放り投げた。
カランッ、と硬い音が響く。
さらに彼女は、自分が着ている豪奢なドレスの裾を強く握りしめた。
「なっ、何をしている……!?」
ビリィッ!!
布が裂ける凄まじい音が鳴り響いた。
ルチアは、歩くのに邪魔だったドレスの重い装飾部分と、幾重にも重なったフリルを、自らの手で容赦なく引きちぎったのだ。
王太子妃の証であった豪華なドレスは、あっという間に、動きやすい足首丈のシンプルなワンピースのような形状へと成り果てた。
「おまっ、貴様、正気か!?」
エドワードが目を剥く。
「ええ、極めて正気です。王家からの品はすべてお返しいたしました。ついでに申し上げますと、マリー様が現在お召しになっているそのピンク色のドレスの代金、金貨五百枚。……まだ王室費から支払われておりませんので、明日までに殿下の『個人資産』から業者へお支払いくださいね」
「なっ……!?」
「では、私はこれにて失礼いたします。これまで無給で働かされた残業代は、手切れ金として諦めて差し上げますわ。……泥船には、お二人で仲良く勝手に沈んでくださいませ」
ルチアは完璧な挨拶を披露すると、唖然とするエドワードとマリーを一瞥もせず、踵を返した。
(あーあ、すっきりした。さあ、バカの尻拭いはもう終わり。これからは私の頭脳は、私自身が生きるためだけに使わせてもらうわ!)
大広間から続く重厚な扉を自らの手で押し開け、ルチアは夜の王都へと足を踏み出した。
実家の伯爵家に戻るつもりはない。父は王太子の腰巾着だ。戻れば、厄介払いとしてどこかの老いぼれ貴族の後妻にでも売り飛ばされるのがオチである。
(私に必要なのは、すぐに現金を作れる場所と、王家の権力が及ばない治外法権のエリア。……となると、行くべき場所は一つね)
ルチアは、引きちぎって軽くなったドレスの裾を翻し、迷うことなく王都の暗部——スラム街の方向へと歩き出した。
彼女の頭の中には、王宮の裏帳簿、貴族たちの汚職のリスト、そして国家予算の横領の証拠が、一字一句違わずに完璧に記憶されている。
これが、裏社会でどれほどの「価値」を持つか。
元王太子妃候補の、最高に知的で、最高に悪辣な暗躍が、今始まろうとしていた。
前作「捨てられ令嬢」とは似て非なる物語、「暗躍令嬢」スタートです!!




