私のために
異形の腕が振り下ろされる。
「私のために」
死を感じた、その瞬間に放った言葉。
その一言が、きっと。
私という存在の、すべてだった。
◇
私は、自分の親を知らない。
桃子という名前も、
他人が私につけたものだ。
私は、養護施設で育った。
施設の職員から聞いた話では、病院の脇に置き去りにされていたところを、その病院で働いていた看護師が見つけたらしい。
桃子という名前は、その施設の園長がつけた。
同じような境遇の子供たちと幼少期を過ごした。
たぶん、普通の大人しい女の子だった。
小学校の入学式の日。
周りは、ピカピカのランドセルだった。
けれど、私のランドセルは、六年生のものよりも古びていた。
服も、いつも誰かのお下がりか、寄付されたもの。
普通の子が着ているような、可愛い服に憧れた。
「桃子は、親がいねーんだぞ」
「桃ちゃん、今度お洋服あげるね」
「あいつ、あの施設出身なんだって」
悪意。
同情。
軽蔑。
私は、それを全部知っていた。
だが、高学年になる頃には、私はもう立ち回りを覚えていた。
先生のMは、従順で、勉強のできる子に優しい。
同じクラスのやんちゃなOは、頼れば助けてくれる。
施設の職員Fは、おだてれば優しくなる。
人には、扱い方がある。
私は、それを覚えた。
その頃、私は片隅に咲いていた。
私の育った施設の園長は、一代で花屋を成功させた人物だった。
だから、施設にはいつも花があった。
小学校の卒業が近づいた頃、施設の職員が、花壇の前でダリアについて話していた。
それは、大きくて、華やかな花だった。
「受粉って?」
同い年の蘭子が、職員に聞いた。
「うーん、理科で習わなかった?」
職員はダリアを指差した。
「この花はね。自分だけじゃ、生きていけないの」
「へー、じゃあ、ダリアって桃ちゃんみたいなお花だね」
蘭子は、悪意のない笑顔でそう言った。
その言葉と笑顔は、ずっと、私の記憶に残った。
私は、花壇のダリアを見た。
大きくて、華やかで、誰よりも目立つ花だった。
私はこの花に憧れた。
中学生になる頃には、元々整っていた顔立ちは、さらに洗練されていった。
勉強も、よく頑張った。
コミュニティの中で力を持つ者には、常に気を配った。
そして、気に入られるように振る舞った。
そうすれば、居場所は手に入る。
そして、施設から公立高校へ進学した。
その頃には、多くの男より背が高くなっていた。
特定の誰かと恋をしたことはなかった。
それでも、私が何かを頼めば、ほとんどの男は聞いてくれた。
敵対する同性もいたが、仲間も多かった。
施設の子たちの中には、中学を卒業すると働きに出る子も少なくなかった。
大学へ進む子は、ほとんどいなかった。
だが、私は成績が良かった。園長が、進学の費用を出してくれた。
そして、国立のT大学へ進んだ。
それから、私は一度も施設には戻らなかった。
ただ、お金が欲しかった。
キャバクラでアルバイトを始めた。
そして――
セレナになった。
都心で、お金持ちともたくさん出会った。
その人その人に合わせて、私が笑えば、欲しいものは手に入った。
笑うたびに、私は綺麗になった。
そう。
私は、ダリアのように生きてきた。
咲けば、
誰かが手を伸ばす。
K。
その瞳に、私を映す。
私は、笑った。
「貴方は立つよ。私のために」
◇
異形の腕が迫る。
その瞬間――
コートのポケットから、強烈な光が溢れた。
月光のような、灰白色の光。
そして。
鈍い音。
何かが、その腕を受け止めた。
Kが立っていた。
そして、あの魔物の腕を、片手で受け止めていた。
さっきまで裂けていた傷も、もう塞がっている。
Kの瞳が、ゆっくりと私を見た。
その目には、あの熱が戻っていた。
次の瞬間。
Kはもう片方の手で、異形の腕を掴む。
そして――
巨体を、そのまま投げ飛ばした。
私は、ただ呆然と立ち尽くしていた。
この男は、本当に私のために立ったの?
それにしても。
さっきまで死にかけていたのに。
「どうなっているの?」
「いや、俺にもわかんねー」
Kは肩を回す。
「でも、身体がキレッキレだ。
筋トレの成果、今さら出たのかもな」
この男は、何を馬鹿なことを言っているんだ?
あれは、普通の人間が勝てるような存在じゃない。
「そうね。凄いわ。
さすが、私の王子様」
私の言葉に、Kはすっかり鼻の下を伸ばしていた。
異形が、ゆっくりと立ち上がった。
やはり、ダメだ。
全然効いていない。
「早く、逃げましょう」
「ん? あー……でも、やれそうだ!」
何を言っているんだ、こいつは、普通の人間が勝てる相手じゃない。
その瞬間だった。
異形が、地面を蹴った。
赤い瞳が、一直線にKを捉える。
巨腕が、横薙ぎに振り払われる。
だが。
Kの身体が、ふっと消えた。
次の瞬間。
異形の懐に、Kがいた。
「おらっ!」
拳が叩き込まれる。
鈍い音。
アスファルトが砕けるほどの衝撃。
異形の巨体が、数メートル吹き飛んだ。
私は、思わず息を止めた。
あり得ない。
さっきまで、死にかけていた男だ。
そもそも、人間が勝てる相手ではない。
Kは拳を握り直す。
「はは……なんだこれ」
肩を回す。
「身体、めちゃくちゃ軽い」
そう言って。
Kは振り返る。
その瞳には、あの熱が戻っていた。
「セレナさん」
Kは、笑った。
「やっぱりさ。
男って、守るものがあると強くなるんだよ」
その言葉に、残念ながら私の心はまったくときめかなかった。
だけど。
彼は、私のために立ち、
私のために強くなり、
私のために戦っている。
その事実が、私の心を、熱くした。
「危ない! 後ろ!」
私は叫んだ。
Kの背後に、異形が回り込む。
振り下ろされる爪。
だが――
Kの拳が、それを叩き砕いた。
骨の砕ける音。
異形の腕が弾ける。
Kは一歩下がる。
Kは妙な構えをとった。
「よし……」
小さく息を吐く。
「ディープインパクトォ!」
拳が、異形の顎を打ち抜いた。
鈍い音。
巨体が、宙に浮く。
そして、地面に叩きつけられる。
アスファルトが砕けた。
異形の身体から、あの灰白色の光が消えていた。
――終わった?
この男、本当に倒したのか?
……ん?
「いや……やっぱり、キタサンブラックストレートだったか?」
Kが、何かぶつぶつ言っている。
そういえば、この男は競馬好きだと言っていた。
Kが、笑う。
「どうだ。最後方からの直線一気――五馬身差だ」
「次は、貴方に単勝を賭けますね」
私は答えた。
バカな男だと思いながらも、正面を向いたまま、少しだけ顔を崩して笑っていた。
まだ、この世界がどうなっているのか、私には分からなかった。
でも、私は咲く。
どんな世界でも。
ダリアのように、美しく。




