表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/5

月下に咲く

「どうなってんだ? 早く何とかしろよ!」


「お客様、申し訳ありません。停電の原因は現在確認中で――」


 真っ暗な化粧室の外で、声がぶつかり合う。

 誰かの足音が、やけに大きく響く。

 明らかに、おかしい。

 停電だけじゃない。

 さっきまで五十パーセントはあったはずのスマホが、黒い画面のまま、反応しない。


 暗闇で、何も見えない。

 このままでは、個室にも戻れない。

 灯りを確保しなければ。

 ダメ元で、モバイルバッテリーを試してみようと思う。

 桃子の鞄を開け、暗闇の中、手探りで中身をかき分ける。

 私の指先に触れたのは、プラスチックのような質感。

 ……Tに渡されたケースだ。


その横に手をやると、

コード状のものが指先に絡んだ。


「これだ」


 鞄から引き抜き、暗闇の中で手探りで端子を探す。

 何度か空を掴み、ようやくスマホに差し込んだ。


――反応しない。


 画面は黒いまま。

 振動もない。

 充電ランプも、つかない。


 まるで――

 中身ごと、抜き取られたみたいに。


 どうしよう。


 そのとき。


「セレナさん! 大丈夫か!」


 扉が開く。

 揺れる炎。

 キャンドルを掲げたKが、その後ろから、ミサが顔を覗かせる。


 橙色の光が、壁に歪んだ影をつくる。


「素敵な蝋燭ですね。まるで王子様みたい」


 私は、いつもの角度で微笑んだ。

 右目の下の泣きぼくろが、炎に揺れる。

 Kは、満更でもなさそうだった。

 炎に照らされた顔は、少し得意げで、少し安心したようでもある。


 私は、こんな状況なのに、不安も、恐怖もなかった。

 胸がざわつかない。

 鼓動も、速くならない。

 ただ、ひとつだけ。

 気になっていることがあった。


 時計を見た。


 手巻き式のヴィンテージ時計は、変わらず時を刻んでいる。


 秒針が、小さく、確かに動く。

 二十二時五十九分。

 まもなく、二十三時。


 今日、二十二時から。

 東京湾近郊の施設でSCSの非公開稼働実験が行われているはずだった。


 上司が、自慢げに桃子に漏らした。

 やはり、偶然にしては、タイミングがよすぎる。


「とりあえず、この建物から出るぞ。

他のみんなも、非常階段に向かってるはずだ」


 Kが、作られた勇ましい声で言う。

 炎が揺れる。

 その影が、壁に大きく跳ねた。


 私は、静かに頷いた。


 Kを先頭に、階段へ向かう。

 暗闇に、ヒールの音だけが響く。

 コツ、コツ、と。

 やけに大きい。

 横を歩くミサの顔には、不安が浮かんでいた。

 炎に照らされた頬が、いつもより青い。

 私は、そっとミサの手を握る。

 ミサは、強く握り返した。

 空調が止まった十二月の室内で、その温もりが、やけに鮮明だった。


 少し進むと、廊下の大窓が目に入った。

 さっきまで、夜景が広がっていたはずの窓。

 やはり、停電はこのビルだけではない。

 観覧車も。

 海沿いの高層ビル群も。

 橋も。


 すべてから、光が失われていた。


 ――うん?


 視界の奥。

 ひとつだけ、光っている。

 暗い海の向こう。

 沖合に浮かぶ、円形の影。

 白い光が、淡く、脈打っている。

 まさか、とは思う。


 今日、二十二時から。


 上司の言葉が、脳裏をかすめる。

 確信は、なかった。


 でも。


 目を、逸らせなかった。



 十五階から、非常階段を降りきった。

 脚は重い。

 ヒールが、足裏に食い込む。

 

 裏口から出る。

 鉄の扉が、重く閉まる。


 冷たい風。


 薄暗いサービス通路を抜け、表通りへ出た瞬間――

 見たことのない光景が、広がっていた。


 広い道路。

 止まったままの車列。

 ヘッドライトは消え、ハザードも点かない。

 信号も、真っ黒。

 ドアを開けたまま立ち尽くす人。


 そして、交差点中央。

 バンが横転しかけて止まっている。

 セダンのボンネットが潰れている。

 でも、エアバッグが途中でしぼんでいる。


 その異様な静止の中で――

 人の悲鳴が上がる。


「救急車! 誰か!」


「エンジンがかからないんだ!」


 怒鳴り声。

 泣き声。

 罵声。

 声だけが、生きている。


「どうなってんだ……」


 Kの声は、かすれていた。

 さっきまでの余裕はない。

 キャンドルを持つ手が、わずかに震えている。

 炎が、小さく揺れる。

 ミサは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。

 唇を噛みしめ、私の腕を掴む。

 強く。

 爪が、少し食い込む。


 その瞬間だった。

 ――轟音。

 腹の底に、叩きつけるような衝撃。

 空気が震える。

 地面が、わずかに揺れた。

 誰かが悲鳴を上げる。

 遅れて。

 低い、唸るような振動が、海の方角から届く。


 海の上の光が、裂ける。

 火柱は上がらない。

 代わりに、白い光の柱が、空へ伸びる。


 数秒後。

 夜空から、何かが降り始めた。最初は、小さな粒。

 やがて、拳ほどの、灰白色の破片。

 音もなく。

 ただ、落ちてくる。

 ガラスに当たり、乾いた音を立てる。

 道路に落ち、転がる。


 私たちのすぐ近く。


 交差点の中央で横転しかけていたバンに、ひとつの破片が落ちた。

 乾いた音。

 淡い光が、車体を照らす。


 私は、ただその光景をじっと見ていた。


「俺、見てくるよ。これでも一応、医者だから」


 Kが、呟くように言う。

 さっきまで震えていた声とは違う。

 無理に張り上げた勇ましさではなかった。


「さすが、お医者様ですね。私も行きます」


 自分でも、なぜそう言ったのか分からなかった。

 ただ。

 気づけば、足が一歩、前に出ていた。


 Kが振り返る。


「ありがとう」


 その顔は、完全に私に落ちた男のものだった。

 目が、熱を帯びる。

 一瞬だけ。

 次の瞬間。

 その熱が、すっと引いた。

 表情が、わずかに空白になる。

 ほんの、わずか。

 でも。

 私は、それを見逃さなかった。


 ミサをその場に待たせ、

 私とKは、横転しかけたバンへと近づいた。

 割れたフロントガラス。

 白くしぼんだエアバッグ。


 車内に、若い男がいた。

 先ほどの破片が、肩口に浅く刺さっている。

 だが――

 それほど血は出ていない。 

 男は、動かない。

 目は、半開きのまま。

 生きているのか。

 死んでいるのか。

 判別がつかない。


 周囲からは、まだ悲鳴が上がっている。


「大丈夫ですか?」


 Kが声をかける。

 私はすぐ後ろで見ていただけだった。

 揺れる炎。

 数秒の沈黙。


 そして。


 男の指が、わずかに動いた。


「……生きているぞ」


 Kが短く言う。

 安堵の息。

 だが、その声も、わずかに緊張を含んでいる。


「今そこから出すから、頑張ってください」


 その言葉が途切れた瞬間だった。

 破片が光った。

 淡く。

 だが、確実に。

 灰白色の光が、内側から膨らむ。

 まるで、不気味な月のように。


 男の瞳が、ゆっくりと開く。

 焦点が、合う。


 その奥にあったのは――

 恐怖ではない。

 怒りでもない。


 生きたい。


 ただ、それだけの、強烈な意思。


 破片の光が、一段、強くなる。

 男の呼吸が荒くなる。


 Kが眉をひそめる。


「……なんだ?」


 次の瞬間。

 破片が、音もなく砕けた。

 光の粒が、男の傷口へと吸い込まれる。


 その瞬間。

 男の身体が、膨らんだ。

 内側から、押し広げられるように。

 骨が、軋む音。

 皮膚が、不自然に盛り上がる。


 Kが後ずさる。


「……おい」


 男の喉から、低い音が漏れる。

 叫びではない。

 唸りでもない。

 ただの、空気の振動。

 肩口から吸い込まれた光が、皮膚の下を走る。

 血管が、灰白色に浮き上がる。

 身体が、さらに膨張する。

 服が、裂ける。

 指が伸びる。


 そして、それは、もう。

 人ではなかった。

 まるで、魔物のように。


 次の瞬間だった。


――音が、消えた。


 一瞬、世界が無音になる。

 そして。

 バンの天井が、内側からそれが出た。

 金属が引き裂かれる音。

 ねじ曲がるフレーム。


 その中心から。


“それ”が、立ち上がった。


 もう、人ではない。


 伸びすぎた腕。

 裂けた胸部。

 内側から押し広げられたような膨らみ。

 赤く、濁った光が、目の奥で脈打つ。


 次の瞬間。


 気づけば。

 Kの首が、巨大な手に掴まれていた。


「……う、ううう……」


 すぐ目の前で、Kの喉が潰れる音。


 炎が揺れる。

 ミサの悲鳴が遠くで弾ける。


 私は――


 ただ、見ていた。


 逃げるでもなく。

 叫ぶでもなく。


 だが。


 私の胸に焼きついて離れないのは、

 目の前の異形ではない。


 ほんの数分前。

 Kの瞳から、熱が消えた、あの瞬間。

 私を見ていたはずの視線が、空白に変わった、あの瞬間。


 まるで――

 私の価値が、消えたみたいに。


 それが、何よりも、耐えがたかった。


  Kの身体が、まるでゴミのように投げ捨てられた。

 アスファルトに叩きつけられる音。

 

 そして。


 異形は、ゆっくりと私の前を通り過ぎた。

 私を、見ない。

 まるで――

 最初から、存在していなかったみたいに。

 胸の奥が、ひどく静かになる。


 世界が、変わった。

 そして私は、その変化の外側に立たされている。


 異形は、遊ぶように歩いていた。

 逃げる人間を追い越し、振り返りもせず、

 ただ腕を振るう。

 何かが、砕ける音。

 悲鳴が、夜に裂ける。


 その姿を、私はただ見ていた。


 視界の端に、Kの身体が映る。

 建物の影に、投げ出されたまま、動かない。


 生きているのだろうか?


 ……まだ、


 私を、見ているのだろうか?


 私は、ゆっくりと歩き出した。

 ヒールが、誰かの血に濡れたアスファルトを踏む。

 背筋を伸ばす。

 顎を、わずかに上げる。

 髪を払う。

 こんな世界でも、

 私の歩き方は、崩れない。


 地面に横たわるKの胸が、

 わずかに上下している。


 Kの目が、私を見た。


「……セレナさん、早く逃げろよ」


 声は、かすれている。

 やはり、その瞳に、あの熱はない。

 私だけを映している目ではない。

 ただ。

 義務のような、薄い光だけ。


「そうですね。でも、貴方も一緒に逃げましょう」


 一歩、近づく。


「私を、置いていくんですか?」


 私は、笑った。

 この場で唯一。


 Kは、もう動けない。

 立てない。

 私が抱えて逃げられるわけがない。


 異形の騒動の中で、ミサの姿も見えない。


 炎も、怒号も、混ざり合う。


 私は、Kから視線を外す。


 一歩、踏み出す。


 ――その瞬間。


 悲鳴が、すぐ近くで弾けた。


 異形が、再び私の前に現れた。

 逃げる人影を追うのをやめ、ゆっくりと、こちらを向く。


 赤い瞳。


 その奥に――

 私が、映っている。


 そのとき。

 背後で、荒い呼吸。

 Kが、よろめきながら立ち上がる。

 首には、赤い痕。

 足元は、揺れている。

 それでも。

 私の前に、躍り出た。


 この男の目に、熱はない。


 それなのに。

 何をしているんだ?

 Kは、アスファルトに転がっていた鉄の棒を掴んだ。

 指先が、血で滑る。

 それでも、握る。

 よろめきながら、一歩。

 異形へと、振り翳す。


 だが――


 異形の爪が、振り下ろされる。

 鉄の棒ごと、Kの身体を引き裂いた。

 鈍い音。

 血が、夜に散る。

 Kの身体が、私の前に崩れ落ちる。

 膝から、ゆっくりと。


 その瞬間。


 彼の瞳が、私を捉えた。

 奥で、かすかな光が揺れる。


 そして――

 異形が、こちらを向いた。

 赤い瞳の奥で、月光と、私が、並んで揺れた。


 巨腕が、静かに振り上がる。


 影が、落ちる。


 それでも。

 私は、Kの目を見ていた。

 最後の光が、揺れている。

 でも。

 それは、私を求める色ではない。

 ただの、生存への怯え。


 ——違う。


 風が、頬を打つ。

 爪が、夜を裂く。


 それでも。


 私は、咲くように立っていた。

 月光を背に。


 私は、もう一度、Kの目を見た。


 唇が、静かに動く。


 K。


「貴方は立つ人よ。私のために」


 秒針が、一度だけ、強く鳴った気がした。

 そして。

 Kの瞳に、私だけが映った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ