#85 ヒトは陸を制し、海と空も制した
10月の半ば。
晴れ渡る秋の空、風が運ぶ潮の香り。
出航して、どれほど経過したのだろう。
どうして、このような大きな鉄の塊が海に浮くの?
本当に大丈夫なの?
本当は、少しずつ少しずつ沈んでいるのではないの?
ええ、分かっていますよ。アルキメデスの原理と浮力ですよね。空洞構造のおかげで水よりも密度が小さくなるように設計されているのですよね。フェリーに乗るのに、少しでも恐怖心を克服しようと勉強しましたからね。
ですが、日本国内だけでもこの5年の間で年間3件から14件もの船が沈む事故が発生しているらしい。なのに、どうして私はこのような大きなフェリーになど乗っているのでしょうか。
苫小牧まで40時間の航路だというのに、腕時計で確認すると、出航してからまだ3分も経過していない。
眩暈がしてきました。
陸地は、まだなの?
やはり、天命や宿命などとおだてられて、教師になどなるべきではありませんでした。大学の研究室に一人で籠って古典文学のロマンを追い求める道に進むべきでした。そうですよ。今からでもまだ間に合うはず。今すぐこの場で退職届を書いて、すぐにでも陸に戻ってもらい、大学へ復帰しよう。でないと、このままではこの鉄の塊と共に海の藻屑となってしまいます。
「せ、先生!?どうしたんですか!?顔色、すごく悪いですよ???」
客席フロアの片隅で、船外の景色が視界に入らないように俯いてじっとしていると、生徒に声をかけられた。
「え?ああ、里子さんでしたか。退職届を書いて陸に戻ってもらおうかと思いましてね。 あぁ、ダメ、顔を上げたら三半規管が悲鳴を」
「大丈夫ですか?船が苦手だとは言ってましたけど、そんなにダメだったんですか?」
「ええ、船に乗るのも沖に出るのも初めての体験ですが、もうすでに限界にきています。明日の日の出を待つことなく海の藻屑となりそうですよ」
「ええ!?」
「早めに辞世の句をしたためなくては。こう見えても国語教師ですからね。最後くらいは立派な句を詠みますよ」ふふふ
「さっきから言ってることがめちゃくちゃですよ?マジでヤバイんですか?」
「ええ、だから先ほどから、死ぬ前にもう一度ササニシキをお腹いっぱいになるまで食べたかったと言っているではありませんか」
「そんなこと一言も言ってませんでしたよ!?誰か呼んできます!横になって休んでてください!」
「よ、横になったら揺れをリアルに感じて、胃袋まで悲鳴を」
乗船前に乗り物酔いの薬とバファリンとチオビタドリンク、あとビタミン剤と正露丸を服用したのですが、ちっとも効き目がありません。無事に陸地に戻ることができたら、お客様相談窓口に苦情の電話をしなくては。
眩暈で意識が朦朧とし始めたところで、里子さんが甘利先生と養護教員の伊崎先生を連れて戻ってきた。
「お、おい!?笹錦先生!?大丈夫か!?」
「顔色は悪いですが、熱は無いようですね」
伊崎先生が額に手をあてたり首の脈をみたりと、簡単な診察をしてくれた。
「それにしても、出航して5分も経ってないのに、ここまで船酔いする人、初めて見ましたよ」
「わ、私が死んだら、ペットホテルに預けたピンフのお迎えを、頼みます・・・鳴かなくて、愛想のない猫ですが・・・あぁ、イーペーコーが見えます。お迎えがきたようです」
死の間際とは、こんな感じなのでしょう。
思い浮かぶのは、イーペーコーやトイトイ、そしてピンフの顔ばかり。
「え?麻雀?こんな時にナニ言ってるの???」
「あ、ピンフとイーペーコーというのは、笹錦先生が飼ってた黒猫の名前です。ちなみにもう1匹トイトイという子も居たそうです」
「ピンフは過去形じゃなくて、現在進行形ですよ」
「そ、そうなのか。冗談言う余裕はあるなら、大丈夫か?」
「たぶん、冗談じゃなくて本気の妄言だと思います。笹錦先生、結構そういうところあるので」
「うん、まぁ、そうだな。そういうところあるな」
「死を目の前にして苦しんでいるヒトの言葉を妄言だなんて、酷い」
「船が苦手だったから、会議の時にあんなに必死に飛行機で行きたがってたのか」
「そもそもですね、人類は確かに陸だけでは飽き足らず海を制しましたが、技術の進歩で空も制して宇宙にまで手を伸ばしているこの時代になぜ空路ではなくわざわざ長い時間をかけてまで船で国内旅行をするのですか?だいたいですね、安全面を考慮したら船舶の事故よりも航空機の事故のほうが圧倒的に少なくて安全なんです。だから私は船ではなく飛行機に変更しましょうとあれほど主張したのですよ。なのに甘利先生は私の主張など耳を貸さずにうんたらかんたら」
「あーはいはい。こりゃ、眠らせたほうがいいな。伊崎先生、睡眠薬かなにかありませんか?」
「一応ありますけど、今飲むと、夜中に目が冴えて大変じゃないですか?」
「すでに酔い止めとバファリンとチオビタドリンクとビタミン剤と正露丸も飲んでいるのですが、併用しても大丈夫な睡眠薬ですか?」
「え!?そんなに飲んでたの???そのせいで気持ち悪くなったんじゃないの?」
「これ以上薬を飲ませるのは、止めたほうが良さそうだな・・・」
「麻酔銃があれば楽にしてあげられるんですけどね」
「船内の医務室に行けば、モルヒネとかクロロホルムならあるのでは?」
朦朧とする意識の中、人体実験でも始めようとする三人の会話を聞いていると、辞世の句が浮かんだ。
『身はたとえ 魚介の餌に なろうとも 心に宿すは ササニシキ』
陸地は、まだなの?




