#58 敗北感と金一封
カレー味で染められた口内に冷たい緑茶を流し込んでサッパリさせてから、あの時の地獄模様を思い浮かべて話し始めた。
「週明けの月曜日には採点結果を報告しなくてはいけないので、土日出勤はすでに確定。赤ペンを握りしめて、ひたすら〇✕を書き連ねても減らない答案用紙の山。自然と漏れる、自分のうめき声。まさに、採点地獄がそこにありました」
「こ、こわい」ぐふ
「野生の体育教師、出てきませんね」
「そう!体育教師!中間試験とは無縁のヤツがそこに!」
「職員室に充満する殺気を野生の肌で感じていたのか挙動不審でしたが、しかしヤツは私に向かって言うのです、『テストの採点、大変そうですね』と。分かりますか?これを言われた時の私の苛立ちが。土日出勤が確定して、採点しても採点しても減らない答案用紙の山が目の前にあるのに、採点作業のない気楽な野生の体育教師が放った無神経なひと言。先輩相手に、思わずギロリと睨み返してしまいましたよ」
「それで、どうなったんですか?」
「それがですね、怯えた野生の体育教師は、私の視線で野生の本能が浄化されたのか、突如聖人様にクラスチェンジしたのですよ」
「聖人様?」
「ええ、あれは聖人様でしたね。そして彼はこう言うのです、『採点、手伝いましょうか』と。ですが、残念なことに古文の試験には作文問題がありました。作文問題は1つ1つ読み込んで加点していく採点方法なので、野生の体育教師に採点は無理なんです」
三人とも私の話に惹き込まれ始めたのか、食事の手を止めて私の話を聞きいっているようだ。
「先ほど睨んでしまったことを心の中で謝罪しながら、お手伝いの申し出を丁重に断ると、今度は『コーヒー淹れてきます。少し休憩しながら頑張ってください』と言うではありませんか。私は感動しました。顔は30代に見える老け顔でも、清らかな心の持ち主なのだと。そして、コーヒーを淹れた私のマグカップを手に戻ってきた体育教師は、私のデスクにマグカップを置くと、『脳ミソを酷使する時は、甘い物が一番でしゅから!』と言って、あるものも一緒に置きました」
ここで三人の顔をゆっくりと見渡すと、三人とも生ツバをごくりと飲み込んだ。
「そう、それが6本目の鼻毛に宿るソウル、『どら焼き』だったのです!」
「うーん・・・」
「うーん・・・」
「ま、牧田先生、ど、ドラえもん?」ぐふ
「そう!ドラえもん!牧田先生は、じゃなくて、野生の体育教師はドラえもんと比肩するほどの『どら焼き』ソウルの持ち主だったのです!」
「微妙なオチですね。ちょっとガッカリしました」
「30点」
「ご、午後のメールチェック、頑張らないと」ぐふ
「これだけ語らせておいて、三人とも冷たいですね」
お昼ご飯を食べ終えてもしばらく雑談をしていると、食堂が混雑しはじめ、たくさんの生徒に声をかけられた。そのほとんどが私の講習を受けた生徒で、どの子も笑顔で授業内容や作品を「面白かったです!」と話してくれた。
講習中は受講者の生の反応が見えないので少し寂しかったのですが、ようやく反応を見ることができて、手応えも感じつつ、午後からは受け付けた質問メールのチェックに着手した。
しかし、この時点でメールの受信数が100件を超えており、チェックを始めてからもさらに何件も受信していたので、全てをチェックするのは早々に諦めた。この数を五日も続けるのは無理なことは明白なのに、下手に初日から全数チェックに取り組んでしまうと、途中で止めづらくなりますからね。こういうのは最初から手を抜いて、それをスタンダードにしてしまえば良いのです。
ということで、いくつかランダムに抜き取って、講義の中で解説することにした。ラジオやテレビのお悩み相談だって、メールやハガキが全て読んでもらえるわけではありません。100件以上も来てしまったのですから、そこは受講者にも理解してもらうしかありませんよね。
おかげで時間ができたので、図書室でのんびり部活動(読書)をして、定時の17時に職員室へ戻ると、先輩職員の何人かから「ライブ講習、とても良かったですよ」とお褒めの声をかけられましたが、すでに定時を過ぎていたので「ありがとうございます。では失礼します」と丁寧にお礼だけ言って、さっさと職員室を後にした。
◇
二日目以降は、読書部の三人も放送委員のスタッフの皆さんも慣れていたので大きなトラブルも無く、順調に最終日を迎えた。
この日はラストということもあって、初日同様に理事長と学園長、村上教頭と学年主任の甘利先生、その他にも夏期講習を担当していないと思われる暇な教職員の方々が、ギャラリーとして見学に来ていた。
しかし、いくらギャラリーが増えようとも気にすることなくいつも通りに講義をしていると、突然、アシスタントの遠藤さんが「ぶっ」と噴き出して、口を押えてカメラからフレームアウトした。
「遠藤さん?どうしました?」
体調不良なら講義よりも生徒の健康状態を優先するべきですので、講釈を中断して、うずくまって肩を震わせている遠藤さんに声を掛けると、遠藤さんは顔を伏せたままギャラリーを指さし、「や、やせいの、たいくきょうし、ろっぽんのソウルが」と、苦しそうに話してくれた。
その言葉を聞いて、指をさしていた方向へ視線を向けると、ギャラリーの中に野生の体育教師も来ているのが見えた。
すると、栗林さんも「ぶっ」と噴き出し、さらには里子さんまで「ぶっ」と噴き出した。
三人とも私のトークではウケなかったのに、生の体育教師に持っていかれるとは、笹錦真乃、人生最大の敗北感。
最終日にちょっとしたトラブルがありましたが、こうして、私の初めての夏期講習は大好評のうちに終わることができ、理事会からは夏期講習受講者数の大幅アップの実績が認められ、特別ボーナスに金一封が支給された。
第八章 終
次回から、第九章 現世での生家




