#44 六道輪廻で現実逃避
仏教には六道輪廻という考えがある。
それに当てはめると、臣下と母親を殺め、滅びの術式で国を滅ぼしたマノン姫のいた世は、修羅道でしたのでしょう。
ならば、いま私がいるこの世は、正しく地獄道。地獄とは死後ではなく、職員室にありました。
どうして私はまた、期末試験でも情景描写の作文問題なんてものを出題したのだろう。あれだけ中間試験で採点地獄に苦しんだというのに、自ら進んで同じことを繰り返している。社会人になって、学習能力が低下してしまったのだろうか。それとも無自覚に、自らを地獄道へ追い込む、マゾヒズムに目覚めてしまったのだろうか。
「うーうー」
赤ペンを走らせても走らせても、終わらない。
答案用紙1枚あたり3分で、終わっているのが53名分なので残りが127名分 × 3分でざっと381分・・・あと6時間半も。
まさしく採点地獄。これもきっと、天命などという非科学的な妄想を信じ込んでいる天命論者たちのせい、にしておきましょう。
と、他人のせいにして、現実逃避しながら答案用紙の山と格闘していると、左隣のデスクからただならぬ呼吸音が聞こえてきた。
「むふぅ、むふぅ、むふぅ、むふぅ」
チラリと左隣へ視線を向けると、体育教師が眼球が飛び出してしまいそうなほど血走らせた目を見開き、太い眉毛を逆八の字にして額には青筋を何本も浮かび上がらせ、モザイク推奨の表情で激しく鼻呼吸させて、グーで握った赤ペンを走らせていた。
ゾーンに入ったのでしょうか。それとも季節外れの発情期でしょうか。
期末は保健体育も試験がありましたから、野生の体育教師も無事に、採点地獄に引き摺り込まれていますね。
野生生物には、デスクワークはさぞ辛いのでしょう。
その辛さ、よく分かります。文系インドア女子の私だってツラいのですからね。
しかし、ここは高等学校。健全であるべき教育現場で、発情した野生の体育教師は、R15規制に引っかからないのでしょうか。それとも、私が通報するべきでしょうか。
あ、これこそ畜生道・・・。
本能をむき出しにした野生の体育教師は、今まさに畜生道へと足を一歩踏み入れたに違いありません。
なら、私のようなうら若き乙女が近づくのは危険ですよね。
いえ、ここは寛容であるべきです。
中間試験の時のどら焼きの恩がありますからね。笹錦家の人間は、受けた恩義を忘れません。今回は私が、コーヒーを淹れて差し上げましょう。
赤ペンを置くと席を立ち、給湯室の棚を探して、黒マジックで『まきた』とひらがなで大きく書かれたマグカップと自分のマグカップを取り出して、コーヒーを淹れてデスクに戻ると、声をかけながら体育教師のデスクにマグカップと栗まんじゅうを置いた。
「牧田先生?発情したオットセイみたいな鼻息が気になるので、もう少しお静かに」
オットセイの鼻息なんて聞いたこと無いんですけどね。なんとなくそれっぽかったので。
「むふぅ、むふぅ、むふ?」
「ええ、牧田先生のコーヒーも淹れましたので、もう少し落ち着いてください」
「むふ」
「いえ、礼には及びません。中間試験の時のどら焼きのお返しですから」
「ぶふぅぅぅッ、ぶふぅぅぅッ、ぶふぅぅぅッ」
う、先ほどよりも、さらに発情し始めました。
まるで、エサを与えられた飼育豚のような鼻息です。
そんなにも栗まんじゅうが嬉しいのでしょうか。
それとも、ただお腹を空かせていたのでしょうか。
あ、これこそ餓鬼道・・・。
飢えた野生の体育教師は、今まさに餓鬼道へと足を一歩踏み入れたに違いありません。
と言うことは、今、この私立更科学園職員室は、六道輪廻の縮図と化しているということでは。
職員室の中でそれに気付いているのは、恐らく私だけ。ゴータマ・シッダールタも、きっとこんなふうに悟りを開いたのでしょう。
なるほど・・・俳人、哲学者、剣士と断念してきましたが、今、私の眼のまえに、出家の道が開けたということですね。
なら、30年後くらいには真乃法師とでも名乗って、仏の道を説いて周る旅にでも出ましょうか。
まずは北海道から沖縄を目指して日本列島を縦断して、次は中国に渡り、シルクロードを横断してタクラマカン砂漠を越えて、インドのナーランダー僧院を目指しますか。
30年後のビジョンが出来上がったところで自席に戻り、栗まんじゅうを貪る野生の体育教師を見ないように視界の外へ追いやり、採点地獄に戻った。
私の夏は、まだ始まったばかり。




